兄の空想
…俺の「話はこれで終わりだ」というジェスチャーを、小夜乃は意に介さなかった。うなづくことも立ち上がることもなく、ただ疑わしそうにこちらを見ている。幕を引こうとした手を強引に押さえつけられているような状態、とでも言おうか。
「兄さん、何か隠してますね」
ぎくっ。
俺は目をそらした。妹はこと俺に関しては、神のごとき洞察力を発揮する。
「様子を見てれば察せます。兄さんは何かに気づいている、でも言おうとしません。ここまで話に付き合ってくれたのに、今更面倒だから言葉を濁しているわけでもないでしょう。おそらく私を気遣ってのことです。兄さんの結論は私に何かしらのショックを与える可能性のあるものだった、そうですね」
なんでそこまで正確に俺の心理を見抜けるんだよ!お前は俺マニアか。
内心のツッコミに同調したわけでもないだろうが、妹はずいとこちらに身を乗り出してきた。
「お願いします、兄さんの考えを教えてください。どんなに苦い内容でも私は受け入れます。私は真実を知りたいのです」
「…真実なんて、そんなありがたがるもんでもないと思うがなあ」
そう呟いたのは負け惜しみというものだろう。こうなってはもう、腹をくくるしかない。
「断っておくがこれから言うことには確実な証拠があるわけじゃないし、おそらく証明もできない。俺が「こんなこともあったんじゃないか」と思いついただけのものだ。単なる空想と言い換えてもいい」
「それで構いません。現実はミステリ小説とは違います、推理を100%裏づけるなんてできませんから」
良いことを言う。高校生と高校入学前女子の兄妹が自宅の部屋で話し込んでいるだけなのだ、それが精一杯というものだろう。
「では言うが」
俺は自分の"空想"を語りはじめた。殊更勿体ぶるような代物でもない。
「数字の表記方法には色々あるよな。アラビア数字に漢数字…」
俺は一度閉じた大学ノートを再び開き、まずアラビア数字で1、2、3…と書いていき、次に漢数字で一、二、三…と書いていく。
「ものを数える時にローマ数字を使う人間はあまりいないだろうな。二進法を使う奴はもっと少ないだろう」
「それはもう忘れてください」
妹の揚げ足を取れる機会なんて滅多にないから、ついからかってしまった。
「悪かったよ。で、だ。日本では、特にものの個数を記録する時なんかには、よくこんな表記方法も使われる」
そう言って俺が大学ノートに記したのは…漢字の"正"の字だった。
小夜乃が目を丸くする。こちらの言いたいことを、漠然とでも察したらしい。
「画線法、ですか」
「…え、なにそれ」
「この数え方のことです。直線を引いていき、それが何本あるかで数をあらわす表記方法です。海外では五芒星を用いて表現するところもあると聞きます」
その呼び方は知らなかった。俺としてはただ「正の字の数え方」とだけ表現するつもりだった。妹はそんな知識を一体どこで仕入れるのだろう…が、この際呼び方などはどうでもいい。
「あー、ともかく…日本には正の字を使ってものの数を現す習慣があることはいいな?"正"1つを完全に書くと、五画だから"5"の数字をあらわす。一画目だけ書けば"1"…」
俺はそう言って、"正"一画目の横棒をノートに引いた。
「そして"2"をあらわす、二画目まで書いた表記はこうなる」
俺は今度は"正"二画目までをノートに記す。アルファベットの"T"のようにも見える形だ(図1参照)。
「で、だ。このか、カクセンホウ?だが、慌てている人間が書けば当然線がはみ出てしまうこともあるだろう。例えばこう言う風に」
俺は"T"もどきもとい二画で止めた"正"の二画目縦棒を、わざと上に伸ばして一画目の横棒からはみ出させた。縦の直線と横の直線が直角に交わった形になり、これが何に似ているかというと…
言うまでもあるまい。漢数字の"十"だ。(図2参照)
「では観月さんは、店長から買い出しを頼まれた時…」
「おそらくこのカクセンホウを使って数をメモしていったのだろう。飲食業関係者には、この書き方が習慣化している人間が多いんじゃないかな。客からの追加注文なんかがあった時、わざわざ伝票に記した数を訂正せずに線を1、2本足せば済むんだ。オーダーに対応するという意味では、アラビア数字や漢数字より遥かに利便性が高い」
昨年、高校の文化祭でうちのクラスは喫茶店を催したのだが、その際特に忙しい用事もなかった俺は消去法で接客役を押し付けられた。席についた客の元へ行って注文を聞き、商品と数を伝票代わりのメモ用紙に記入して食事・飲み物準備の係に渡すというシンプルな役割だったが、客に注文を聞き終えたと思いさて戻るかと踵を返したところで「あ、待って。やっぱりこれもちょうだい」と注文を追加され、メモした数の訂正を強いられるということが何度となくあった。最初はアラビア数字で注文数を書いていた俺だったが、途中から塗りつぶすのが面倒になり"正"の字を使うスタイルにシフトしたのだった。わずか1日の接客係である俺でさえその有効性を痛感したのだから、常時飲食店で働く人間は"正"の字を使って数を記すことが習慣化していても不思議ではない、と思ったのだ。
観月はこれまでにも家の手伝いとしてよく喫茶店の仕事に参加していたというから、この習慣が骨身に染みているというのは十分あり得ることだ。
もし観月が“手伝い”初日にホールのウェイトレスを務めて注文を伝票に書く役割をこなしていたら、小夜乃も彼女が“正”の字を用いて数を記入する場面に出くわしていたかもしれない。そうしたら妹も、もっと早く俺と同じ考えに辿り着いていたのではないだろうか。しかし実際には観月は初日、厨房の補助に終始していた。小夜乃や静が彼女のカクセンホウ表記を目撃する機会は、おそらくなかっただろう。
「店長から買い出しの品を叫ばれた際、観月も相当慌てた様子だったとお前も話していた。メモを取り終えたと思ったら更に牛乳を1本追加となって、パニックは更に増しただろう。そんな時はペンさばきが多少雑になっても不思議はない。急いで追加した縦棒は、最初に書かれた横棒の上に少しはみ出してしまった」
「でも、はみ出したといっても少しだけでしょう?少なくとも、一画目の下に伸びる分と同じくらいの長さが偶然はみ出すことはなかったと思います。だったら多少雑な書き方でも、静さんがそれを見たら「”正”の字を二画目まで書いたんだな」と判断できたんではないでしょうか。例え「”十”かもしれない」という可能性が頭に浮かんだとしても、私か観月さんに電話して2と10どっちの解釈が正解か確認するくらいのことはしたと思います。独断で"十"と確信した、と考えるのは無理がないでしょうか」
「静が"正"の字を使う数え方を知っていたのならな」
え、と小夜乃が声をあげだ。
「静は物心ついてから1年前までイギリスで暮らしていた。イギリスには当然この日本式カクセンホウはないだろう、"正"の字がないんだから。家の中では日本語を使って生活していたというが、こんな細かい風習まで日本流を踏襲していたかは怪しい。両親に元々これを使う習慣がなかったかもしれないし、或いは向こうの生活に適応するため、ものを数える時は意識的にイギリス式のカクセンホウを用いていた、ということも大いにありうる」
静が日本へ来ると決まった時、両親は娘に対して様々な日本文化をレクチャーしただろうが、その指導がこんなことにまで及んだとは思えない。そして日本に来た後も、静には"正"の字の数え方を知る機会がなかったとしても不思議はない。普通に生活していて頻繁に出くわすといった類のものでもないし、或いは1、2度は目にしたかもしれないが意識しなければすぐに忘れただろう。自宅では長年慣れ親しんだイギリス式カクセンホウが依然罷り通っていた、と想像するのもさして無理はあるまい。
「静が"正"の字の数え方を知らないと仮定して、そんな彼女が観月がカクセンホウで数を記したメモを見たらどう思うか。牛乳以外の品はすべて1つずつという指定だった、つまり商品名の脇にはただ横棒一本が引かれているだけ。そして牛乳の脇には縦棒と横棒が交差し、横棒の上に縦棒が少しはみ出している不恰好な十字架のような図…静は漢字は読めた、それこそ日本の中学レベルに十分適応できる程に。では当然こう合点したはずだ。「ああ、観月は買い物してくる品の数を漢数字で書いたのだ、牛乳は"十"(=10)本、他は"一"(=1)個ずつ購入すればいいんだ」、と」
「…」
「観月は父親の指示で買い出しの数を記し終えた後、メモを確認したそうだな。その時、自分の書いた記号の線が少しはみ出ているのを見つけても気にしなかったろう。“正”の字を使った数表記の習慣があるから、「少しはみ出ていても“2個”を意味するものだとわかってもらえる」と自然に判断してしまったんだ。しかし静の中には“正”のカクセンホウの知識はなかった。だから縦線が上にはみ出した”二画目までの正の字”を、”十”だと判断した。牛乳2本の指示を10本と取り違える奇妙な現象が、こうして成立してしまった…」
買い出しの中に3個か4個買うものが混ざっていたら、そんな勘違いは起きなかっただろう。或いは"十"の形が歪なことに違和感は覚えたものの、観月とギクシャクした関係の中で進んで買い物に出かけた手前、電話で問い合わせるという行動を躊躇したということも考えられる。観月に「買い物も満足にできないのか」と思われるのは、いろんな意味で耐え難かったに違いない。
この推理は空想に空想を重ねたもので、もちろん決定的な物的証拠などあるはずもない。ここでいったこと以外の手違いが起きた可能性も完全には否定できず、それこそ観月がメモを取っている時に「二進法を使わねば!」という天啓が突如脳裏に閃いた、ということも100%ないとはいえない…まあ、ないだろうが。
あくまで、俺が「これが1番ありそうだ」と漠然と感じた可能性の1つでしかない。散々厳密性をうたった後で情けないが、現状では俺の推測が正解だと一分の隙もなく証明しきることは不可能だ。ただ…「観月が正の字のカクセンホウを用いた」と思い至った点については、飲食店の家族であること以外にも、幾ばくかの根拠がないわけではない。
「お前の話だと、店長から牛乳を2本に増やしてほしいと言われた後、観月はメモ帳に"さっとペンを走らせた"んだよな。アラビア数字や漢数字で数をメモしていたとしたら、最初に書いた文字を消してもう一度書き直さなければならない。そんな印象になるかな」
「でもそれは、あくまで私がみた印象に過ぎません。本当はもっと複雑なペンの動きだったけど、そうは見えなかっただけかもしれない。咄嗟のことです、論拠にするのは…」
「わかってる、論拠としては弱い。問題は次だ。ペンを動かし終えた観月は、店長に向かって「本当に2本でいいのか、他に注文はないか」と尋ねたんだったな。その後、お前にメモを渡そうとするまで何も追加で書いていない。これらのことは印象でもなんでもなく、厳然たる事実だ。間違いないな?」
「…はい。確かにそういう流れでした。そこは断言できます」
「もし観月がメモに用いていたのがアラビア数字や漢数字だったら、1度それを訂正した後で数が間違いないか父親に問いただすのは無駄だろう。仮に店長が「やっぱ牛乳3本にしてくれ」とでも言ったら、訂正して書いた2も消して再度違う数字を書き入れなければならなくなる。そうするくらいなら、1度目の訂正を書き記す前に店長に問いただしておけば二度手間は回避できる」
「…」
「しかし観月は訂正を書き終えてから店長に確認を取った。その段階では最初に記した”1”の数を消しただけだった、と考えることはできない。何故なら観月はその後1度もペンを動かさずに小夜乃にメモを渡そうとしている。店長に念を押す時、既に数字は書き込まれていた」
「…」
「観月が"正"の字を使用していたと想定すれば、これらのことにも筋が通る。店長に牛乳を追加して2本に変えるよう頼まれた時も、線を1本加えるだけでよかったんだ。その後確認を取って仮に更に数が増えたところで、また直線を何本か引けばそれで済む。念を押す前と後、どっちで"二画目の縦線"を引いたところで、手間は変わらない」
小夜乃はじっと俺を見つめて話を聞いていた。俺は少し言葉を途切らせ、そんな妹の目を覗き込んだ。
「…こう考えれば、観月が"正"の字を使って数をメモしていたという推測を、少しは補強できると思う」
俺は手元にあった大学ノートを開き、再び1頁目に書いた4パターン(※「妹の相談(6)」内、表1参照)を小夜乃に示した。
「つまりこの4つで言えば、③と④の複合だな。観月の表記にも瑕疵があったが静も普通では考えにくい読み間違えをしてしまった。それが、俺の空想の到達点だ」
俺がそう言葉を結ぶと、小夜乃は黙って俯いた。たった今聞いたことを自分なりに整理し、吟味している様子だった。やがてゆっくりと顔を上げると、
「お見事です、兄さん」
集中で強張っていた小夜乃の表情が徐々に緩んでいき、やがて輝くような微笑みを浮かべた。その佇まいはどこか誇らしげでさえあった。一男子として、好きな女の子の笑顔は何よりの眼福である。
「ありがとうございます、おかげで光明が見えてきました。やっぱり兄さんはすごいです、私1人ではとてもここまで推論を掘り下げることはできませんでした」
「…礼を言うのはまだはやいだろ。何度も言うがこれが正解だという保証はないし、何より観月や静がこの結論で納得するとは限らない」
俺は照れくささのあまり、小夜乃から目を反らしながら注意した。
「大丈夫、納得してくれますよ。もっと自分の推理に自信をもってください。考えうる限り、最も蓋然性の高い説だと思います。明日は“お手伝い”はお休みの日ですけど、観月さんを訪ねてまず伝えてみます。静さんとは依然連絡が取れませんけど…お互いに悪意がなかったことがはっきりすれば、きっとまた元の2人に戻れます」
俺は口を開きかけ…また噤んだ。言おうとしたことは、声にならなかった。
「…上手くいくといいな」
結局、少し間をおいて投げかけたのは、そんなあたりさわりのない言葉だった。