兄妹の検討(3)
…ノートには敢えて記さなかったものの、実はもう1つ思いついた可能性がある。「⑤すべて観月と静の狂言だった」というものだ。本当は喧嘩などはしておらず、2人が事前に打ち合わせて“喧嘩のふり”をしただけだったとしたら。その場合そんなことをした目的としては、生真面目な小夜乃が狼狽えるのをみて面白がりたかった、というものが真っ先に考えられる。いわば妹に対してドッキリをしかけたわけだ。何ともタチの悪い話で、妹に可能性を提示することが憚られたのだが…
しかしこれも、考慮から外して問題ないだろう。ドッキリなりその他の目的なりで、2人が妹に自分達が喧嘩をしているよう思わせたかったとしたら、初日に静が遅刻してきた際の怒鳴り合いだけで十分なはずである。その後和解しかけたり、買い出しの結果再び決裂したり、といった面倒な手順まで演技で踏む必要はどこにもない。
また店長が2日目の朝、急遽買い出しを依頼してきたことは偶然で、観月と静がそれを予測した上でドッキリの計画を巡らすことは不可能だったろう。もし事前にそこまで織り込んでいたのなら、店長もドッキリのグルだったということになるが…幾ら何でもそれはない。少女達が稚気を巡らす時、そこに大人を介在させるとは思えない。そもそも予約で大量のデザートプレートが注文されていたのは事実なのだし、店長がそれらの提供を危うくしてまで子供の悪戯に加担するはずもない。店の運営に関わってくる。
様々な点を考慮した上で、俺は頭の中で密かに”⑤”を空想のペンで塗りつぶした。まああまりに馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい考えだが、一応可能性を消して自分を納得させたかったのである。
「では…ではやはり、今回の件は何かの勘違いが原因だったのですね」
①と②を否定した俺の推理を聞いて、小夜乃は少し安心したようだ。友人たちに悪意はなかった、という結論が聞けて嬉しいのだろう。しかし、まだこれで解決とはいかない。
「でも…どちらかの誤解によって牛乳本数が増えたのだとしたら、一体それはどういう誤解だったのでしょう」
そう、具体的な原因を見つけ出し指摘できなければ、ことは収まらない。少なくとも妹はそう考えている。「何があったかわからないけど2人とも悪意はありませんでした、和解しましょう」と小夜乃が持ちかけた処で、観月も静も納得はしないだろう。”2”と”10”を書き間違えることも読み間違えることもにわかには信じがたいミスだし、両者とも「自分にミスはなかった」と主張しているのだ。尤も…
俺はかぶりを振った。
「正直、どんな勘違いが起こったかまでは想像も及ばん。人が何をどう見間違えたり聞きちがえたりしたかなんて当人しかわかりようがないし、殆どの場合当人すら気付かずに終わるだろう。まして他人の誤認錯覚ときては、神ならぬ身には探りようもない」
「兄さん、それについては1つ私に腹案があるのですが…」
俺が諭すのを物ともせず、いきなり神の領域に踏み込もうとする妹だった。
「…腹案?どんな」
「二進法です」
「は?」
妹の発言に、一瞬虚を突かれた。
「二進法というのは、数を0と1だけを用いてあらわす表記方法です。世のコンピューターにはこれが利用されています」
「そんなことは知ってるよ。あまり自分の兄貴を見くびるなよ」
「それは失礼しました。ではこれも言うまでもないでしょうが、十進法-普段私たちが使っている数字を二進法に表記し直すと0と1はそのまま、2が"10"、3が"11"…となっていきますよね?」
正直そこまでは知らなかったが…言わんとすることはなんとなくわかった。
「つまりメモを取った観月が、とっさに"2本"というのを二進法で記してしまったと?」
「そうです。二進法で十進法の"2"を表記すれば"10(いちぜろ)"、それをみれば殆どの人は十進法の10(じゅう)のことだと思ってしまうでしょう。これで観月さんが2本と書いたつもりのものを静さんが10本と解釈した、という事態を説明できないでしょうか」
確かに理屈の上では筋が通っている考え方だが…現実的ではない。
「二進法を最近数学の授業で習ったりしたのか?」
「いいえ、学校の授業では習いません」
「観月が今まで二進法を使ったのをみたことは?」
「…私はありません」
「観月はパソコンやコンピューターに詳しいのか?」
「…そんなことはないと思います」
それはそうだろう。何せスマホも満足に使いこなせず機械音痴を自称している少女だ。パソコンのブラインドタッチも出来ずに二進法を活用する次元のプログラミングに精通しているとは、ちょっと考えられない。
「普通の人は日常生活の中で二進法を使うことなんてまずないもんだ。おそらく観月もそんなものとは無縁の暮らしをしているだろう。普段使わない二進法を、咄嗟のメモで使用してしまうなんて考えるのはさすがに無理があるな。そんなのはシステムエンジニアくらいだろ」
俺はシステムエンジニアに詳しいわけでも知り合いがいるわけでもないから、この発言には多分に偏見が含まれているかもしれない。
「観月が最近コンピューター漬けの暮らしを送っているとかならともかく、そうした何らかの裏付けがない限りは二進法案は採用できないな。それじゃ観月や静も納得しないだろ」
「やはりそうですか…」
小夜乃はあっさりと自説を引き下げた。元々本気で可能性を感じていたわけではないのだろう。ただ他の案が浮かばず、藁にもすがる思いだったのだ。
「…残念だが、どうやら推理はここで行き止まりのようだ。観月にも静にも悪意はないことを結論づけるのがやっとだった。すまんな、力になれなくて」
そう言って俺は、大学ノートを閉じた。