妹の相談(6)
小夜乃の話を聞いてまず浮かんだ感想は「女子って怖い」だった。つい先日まで親友同士だった2人が、ちょっとしたすれ違いでそこまで口汚く罵りあえるものか。小夜乃とて友人たちのそうした面を述べるのは忍びなかったに違いないが、情報の精度を高める為に極力言葉の細部に至るまで忠実な再現を心がけたのだろう。どんな些細なことの中に問題を解きほぐすヒントが紛れているかわからないものだ。その辺はやはりミステリマニアの性か。
それにしても小夜乃がこの3日間、そんな悩みを抱えていたなどとはまるで気づかなかった。そうそう弱みを表に出す妹ではないが、何より俺の方が避けて彼女をまともに見ようともしていなかったのが原因だろう。自分の馬鹿げた行為のせいで勝手に気まずくなって苦しんでいる妹が視界に入らなかったとは、つくづくダメな兄貴である。
観月と静の悶着の後、店長はパティシエとしての技術と工夫をフルに活用し、何とか団体客が来るまでに注文された分だけのデザートプレートが出せる体勢を整えた。その他の客の注文にもつつがなく対応できたようだ。商売上の打撃はほぼなかったようなものだが、結局静は戻って来ず、夕方までのホールは小夜乃と11時直前に顔を見せた観月の母の2人だけで回すこととなった。喫茶店はその日も繁盛し、団体客の他にもひっきりなしに来店があった。小夜乃は人数が1人減ったホール作業に忙殺され、じっくり考え事をする時間も取れなかった…
「それが昨日のことです。そして今日も私と静さんは観月さんの家で"お手伝い"に入る予定だったのですが、静さんは来ませんでした。電話をかけても出ないし、メールも帰って来ません」
ガラケー派の妹は当然ラインなどというハイカラなものはやってないし、その他のSNSとも無縁だ。もしやってて静とそれらの中でコンタクトを取ろうとしても、おそらくリアクションは期待できないだろう。静が何らかのSNSを利用しているのかも定かではないが。
「観月さんはもう、頭からあれは静さんが故意にやったことだと決めつけています。観月さんのお父さんは「そんなわからないことをする子には見えなかったけどな」と呟いていましたが、これは遠回しに観月さんに同調したようなものです。お父さんも静さんに悪意があったと思っているのでしょう」
店長-観月の父の立場からすれば、娘より娘の友人の肩を持つ理由はないだろう。
「静さんへのお給料も、出すつもりはもうないようです。静さんはレシートを持って帰っていて買い出しの合計金額は4700円を少し越えたくらい、予算オーバーした分は静さんが自分の財布から支払ったのですが、その出費もそのままになりそうです。「牛乳8本が含まれなければ合計金額は3500円にも届かなかった、こっちは4000円丸々失って損したようなものだ。これ以上出す義理はない」と言って…」
小夜乃は納得いかないといった表情である。確かに正式な雇用契約は交わしていないだろうが、それはあんまりな対応に思える。静が働いた1日分の給料くらいは、進んで払うのが筋というものではないだろうか…尤も、観月側もこの後静と連絡を取れるのか定かではないが。
しかし小夜乃が1番気にかけているのは、観月と静の間の軋轢についてだろう。今日の昼にも、もう一度冷静になるよう観月に掛け合ってみたが、結果はけんもほろろだったという。
「なによ、さよちゃんまで私がわざと数字を改ざんしたって言いたいの」
静と同じように小夜乃に食って掛かったとか。人間余裕がなくなると、自分に異を唱える者すべてが敵に見えるらしい。
「あたしはちゃんと書いたわよ。あれは誰が見たって“牛乳を2個買ってこい”って指示に見えるはずよ。幾ら海外暮らしが長いからって、取り違えるなんてありえないわ。静がわざと牛乳を多く買って、あたしに嫌がらせしたのよ!」
観月もやはり“しずちゃん”ではなく呼び捨てに変わっていた。女子2人は、もう互いに敬意を払う必要性を感じなくなっているらしい。
「しかし観月の怒り様は少し激しすぎるようにも思えるな。シフトに遅刻したくらいで。何か他に2人の間で、感情のしこりのようなものはなかったのか?」
俺が話を聞いている途中ずっと浮かんでいた疑問を小夜乃に投げかけてみた。
観月は激情家である。静に自分の好意を踏み躙られたと思い逆上した、というのはわからない話ではない。だがそれにしても、今度の件では反応が些か極端に思えてならない。
妹は気まずそうに目をそらした。
「…実はあったんです。大分前のことなんですが」
そう前置きして小夜乃は話し始めた。友人の秘密を開陳するのは心苦しい様子だったが、それとても今回の件を解き明かすのに必要なファクターかもしれない。
「以前、観月さんには気になる男子がいたんです。その男子はバトミントン部で、女子バトミントン部に所属する静さんと仲の良い人でした。男子と女子は放課後第二体育館で並んで練習していたので、親しくなりやすかったのでしょう」
「それで観月は嫉妬した?」
「いえ、静さんとその男子は"気のおけない友人"以上の関係ではなかったようです。静さんに恋愛感情はありませんでしたし、観月さんもよく自分の気持ちについて静さんに相談していました。観月さんは中々告白するふんぎりがつかず悩んでいたようです。でもそうこうするうちに…」
小夜乃はここで一度言葉を切った。
「その男子が、別の女子とお付き合いをはじめてしまいました」
…ああ。大体話の流れがみえた。
「その男子は付き合う以前から、仲の良い静さんにその女子に告白しようと思っていることを伝えていたそうなのです。後でそれを知った観月さんは怒ってしまって。「彼に好きな人がいるならどうして自分に教えてくれなかったんだ、私の相談を聞いて内心あざ笑っていたのか」と静さんに詰め寄って…」
完全な逆恨みである。友人2人の板挟みにあった静にはどうすることもできなかっただろう。まさか本人に代わって観月の気持ちをその男子に伝えるわけにも、男子が意中の女子に気持ちを伝えるのを妨害するわけにもいかない。しかしここまで小夜乃の話を聞く限り、観月というのは当初俺が認識していたよりも遥かに思い込みの激しい気性らしい、ということがわかってきた。頭に血が上れば失恋の責任をすべて静に押し付けて、しかもそれを自分の中で正当化してしまえたとしても、不思議ではないだろう。
「しばらくすると観月さんが落ち着いて、静さんに謝ったようでした。それからは2人とも仲直りして、元通りの親しい間柄に戻ったのでもう済んだことだと忘れていたのですが…観月さんの中ではずっとわだかまりが残っていたのかもしれません」
大いにありうることだ。しかも観月本人も気づかない、心の片隅で。それが静の遅刻というきっかけで一気に吹き出し、"手伝い"初日の癇癪につながったと考えれば頷ける。また仮に観月が静を陥れようとしたのなら、その動機にも説明がつく。しかし…
「小夜乃自身はどう思ってるんだ?2人のうちのどちらかが悪意で相手を陥れたと…そういう可能性もあると思うか?」
俺は妹に水を向けた。酷な問いかけだったが、話を先に進めるには必要な手順である。
「…」
妹らしくなく、歯切れが悪くなった。
「2人とも私の友人です。私としては、どちらもそんなことをする人間ではないと思っています。でも人の心の内がどうなっているか断言できるほど、私は偉くも賢くもありません。2人への評価も、公平に出来ているという自信がありません。だから兄さんに力を貸して欲しいんです」
「力を貸すっていうのは、つまり」
「はい、先ほども言いましたが、2人が決定的に決裂する元になった事件、2本頼まれたはずの牛乳が何故10本買われて来てしまったのか、その原因を考えて欲しいのです」
…なるほど。この奇妙な頼み事の裏には、そういった事情があったわけか。
「私は2人に何とか仲直りしてほしいと思っています。でもそのためにはなぜあんなことが起こったのか、理由を探らねばなりません。もし何かしらの誤解が原因だったのなら、そのことを2人に告げてどちらにも悪意がなかったことを知ってほしいですし、もしどちらかの悪意が介在していたのなら…それを踏まえて説得してみます。出来れば悪意を抱いた理由も尋ねて、関係を修復することはできないか模索してみます。いずれにせよ、まずは2本のはずの牛乳が8本増えた原因を知らないことには始まらない。そう考えています」
杓子定規でいつも硬い表情をしているから他人には誤解されがちだが、小夜乃は決して冷淡な性質ではない。寧ろ極めて情が深い少女であることを、俺は知っている。融通が利かず友人も少ないだけに、観月や静を大切に思う気持ちもひとしおなのかもしれない。こんな妹をいじらしいと感じるのは、何も俺が懸想しているせいばかりではないだろう。兄として、なんとか妹の力になりたい。望みを叶えてやりたい、とは思うのだが…
正直、やはり気は進まなかった。
「いつも言っているけど、お前は俺を過大評価しすぎだ。俺は決して探偵の真似事が得意なわけじゃない。考えたって満足な結論にたどり着けるかもわからんし、仮に結論が出てもてんで見当違いなものかもわからんぞ」
「それでも構いません。お願いします。こういう分野で兄さん程優れた人の心当たりは私にはありませんし、兄さんが一生懸命考えてくれた結果ダメだったとしたら、私も諦めがつきます。たとえ間違った結論だとしても、私は兄さんを信じます」
…この小悪魔め!と叫びたくなるのをどうにか堪える。その殺し文句は、天然で口にしているのか?ここまで言われては、断れるわけがないではないか。
「…わかったよ。じゃあまず状況を整理させてくれ」
俺はひとつ深呼吸して、腹を据えた。
「店長が買ってきてほしい品を叫んだ時、静はホールにも厨房にもいなくてその声を聞いていない。静が姿を現してから、誰も買い出しの内容を口に出していない。静が自分でメモを見ながら買い物をしたと言った。この3点は間違いないな?」
「はい」
「ではやはりメモが鍵だ。静が買いそろえる品と数を判断する根拠は、メモしかなかった。観月が書いたメモを状況の中心に据えて考えると、可能性は4パターンにわけられる」
俺は立ち上がって自分の机まで行き、棚から新品の大学ノートを取り出した。それを開いて、最初のページに数字と文字を記していく。
「兄さん、それは新学期の授業用に新しく購入したノートではないんですか」
「ああ。国語用に使おうと思っているやつだ」
「…いきなり、どう考えても国語の授業と関係ないことを書いているように見えるのですが」
「いいんだよ。今他に手ごろな書く紙ないし、次のページから授業の内容書いていくから。ていうか俺授業中にあんまノートとる習慣ないから、殆ど使わないかもしれんし」
小夜乃はあきれたようにため息をついたが、それ以上文句は言わなかった。俺が自分の頼み事の為にノートの頁を消費している手前強くも出られない、といった処か。
俺は自ら示唆した4つのパターンを書ききると、ノートを開いたまま小夜乃に見せた。それは以下のような内容である。
※有親が大学ノート1頁目に記述した4パターン(表1)
①観月が故意に店長の指示とは違う牛乳の数をメモに記した
②静が悪意でメモに記されていたよりもはるかに多い量の牛乳を購入した
③観月が意図せず牛乳の数を書き間違えてしまった
④静が意図せずメモに記された牛乳の数を読み違えてしまった
「真相はこの①~④のパターンの内のどれか、もしくはこれらのいくつかを複合したものとなる。ここまではいいか?」
俺の問いかけに、小夜乃が黙って頷いた。
「よし、じゃあ1つずつ検討していってみよう」