プロローグ:妹の訪問
もう春休みに入ったというのに妙に肌寒い、花冷えの夜だった。
石油ストーブをつけた自室で寝転がりながら本を読んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
若干の緊張を覚えながら起き上がって扉を開くと、予想通り妹の小夜乃が廊下に立っていた。
「兄さん、今よろしいですか」
妹がそう伺いを立ててくる。
本音を言えばあまりよろしくなかった。できれば今、妹と顔を合わせたくはなかった。
とはいえそれは後ろめたさからくる抵抗だったので、弱みはこちらにある。強くも出れず「まあ入れよ」と誘った。
部屋に1つしかないクッションを妹に渡し、俺はカーペットの上に直に座り胡坐をかいた。妹が、俺の傍らに頁を開いたまま伏せ置かれている文庫本に眼を止めた。
「それは『りら荘事件』ですか」
「この前ブックオフにいったら、100円コーナーに置いてあったんだ」
「それは結構でしたね。では読書のお邪魔をしてしまいましたか、申し訳ありません」
「そんなことは気にしなくていいが…」
実は本の文字を眼で追ってはいたのだが、内容は殆ど頭に入ってこなかった。どうしても小夜乃のことを考えてしまい、意識が散漫になりがちだった。
…いや、こういうと何だか妹に責任転嫁をしているようだ。正確を期そう。“俺が小夜乃にしてしまったこと”が、ずっと頭を離れないのである。
「それで、一体どうしたんだ」
俺は緊張で口の中が乾くのを感じながら、小夜乃にそう尋ねる。気分はさながら、判決が言い渡される直前の被告人である。
「実は兄さんに、相談したいことがあったんです」
「…え、相談?」
意想外の応えが返ってきて、俺は面食らった。てっきり、3日前の“例の件”で訪ねてきたものだと、ずっと身構えていたのだ。
「ええ、是非とも兄さんの知恵をお借りしたくて…何か?」
「い、いや、何でもない…しかし知恵といってもな。勉強のことを聞かれても、応えられるかわからんぞ」
「そんなことは弁えています。その方面で兄さんを頼ろうとは思いません」
…実に賢明な判断なので文句のつけ様もないのだが、真正面からそうきっぱり告げられるとそれはそれで落ち込むものがある。妹よ、もう少し兄の面目を慮ってもいいのではないか?
「相談というのは、私の友人のことなのです。観月さんと静さんのことは、兄さんもご存じですよね」
俺は頷いた。2人とも何度かうちに遊びに来たことがあるし、俺とも面識がある。
「実は先日静さんと観月さんの間で、ある行き違いが生じました。多分、行き違いだと思うのですが…とにかくそれが元で、2人は決裂してしまったのです。私としては彼女たちに何とか仲直りをしてほしいと思っているのですが、その為にも兄さんに一緒に考えてほしいのです。一体その行き違いは、どうして起こってしまったのか」
妹には珍しくぼんやりとした話だった。行き違いが生じたのに原因がわからない?一体、どういう状況だろう。「多分、行き違い"だと思う"」と、言葉を濁した点も不可解だ。
「要領を得ない説明になってしまい申し訳ありません。私自身、事の全体像が見えておらず端的にお伝えできないのです。ですがだからこそ、兄さんのお力を借りたいのです。複雑に絡まった事態の本質を見抜く慧眼にかけては、兄さん以上の人に心あたりはありませんので」
先ほどの挽回というわけでもないだろうが、今度はいきなり高所に持ち上げてきた。
どうやら妹は俺に、一種の安楽椅子探偵の役割を求めているようである。話を聞いて、思考の力でもつれた事態を紐解いてほしい、と。何とも面倒そうな話で、正直既に億劫な気持ちが強くなっていた。それに俺に対する妹の言い様は過大評価である。俺はそんなミステリの探偵のような鋭敏な知性を持ち合わせた人間ではない。白状すると一時期、そうであるかのような勘違いに陥ったことはあったが、今では盲を啓き己の分を弁えている。少なくとも、自分ではそう思っている。
しかし俺に話しかける小夜乃の眼は真剣そのものだった。冗談を言っている様子も煽てて良いように踊らせようという魂胆も、そこには見て取れなかった。普段からしてこの妹は俺に探偵の適性があると、本気で信じている節がある。
そう信頼を寄せられては、俺としても無下にはできなくなる。それに元々、妹に対する弱みもあることだった。恐れていた件を切り出されずに済んだ、という安心も手伝ったかもしれない。とにかくもう少し、妹の話を聞くことにした。
「端的に説明できないといっても、具体的には一体何が起こったんだ?そんな複雑なことなのか?」
「静さんが買い出しに出かけ、”2本”と指定されていた牛乳を8本余分に購入してきてしまいました。何故そんなことが起こったのか、究明してほしいのです」
なるほど、さっぱり意味が分からん。どうやらショートカットはできない案件のようだ。
「…とりあえず最初から、順を追って説明してみてくれ。力になれるかまだわからんが、話を聞いた上で一応考えてはみる」
結局、そう水を向けていた。
「ありがとうございます、兄さん」
妹は軽く頭を下げると、詳細を話し始めた。