雨と君
目が覚めたとき、既に彼女は居なかった。当然だろうと考え直して頭を振る。ここ最近は食べてすぐ寝る、ということを繰り返していた。正直に来る睡魔に身を預けたまでは良かったのだが、あまり寝過ぎると頭が痛くなってしまう。昔から、昼寝をし過ぎると頭が痛くなるのは変わらない。他にも変わらないことはたくさんある。口数があまり多くないのも、表情が変わりにくいのも。それと、雨が好きなことも。
ポツリと雫が落ちてくる。雨が降りそうだった灰色の分厚い雲が水を降らす。コンクリートに丸い染みができ、それは徐々に増えていった。冷たい水が頬に垂れる。あっという間に服が濡れ、肌に張り付いた。ノロノロと立ち上がり、扉近くの僅かな屋根の下に入る。季節に似つかわしくない、寒さが襲ってきた。ぼんやりと空を見上げる。少しづつ激しくなった雨はあっという間に豪雨へと変わり、水溜まりを作っていく。その雨を打ち消すように透き通った声が聞こえた。
「やっぱり濡れてる」
彼女が、タオルを片手に微笑んでいた。
「雨が降っているから、絶対に濡れていると思ったの」
薄い空色のタオルが差し出される。僕はそれを、黙って受け取った。広げて、頭に乗せる。掻きむしるように手を動かすと、薄かった空色は濃い青に変わった。
「授業はどうしたの」
頭に乗せたまま、空を見上げる。少しだけ、勢いが弱まったように感じた。
「頭痛で抜けてきたわ」
彼女が隣に座り込んだのが分かった。肩が触れるほど近い。濡れるのでは、と懸念したが狭い屋根の下。これ以上離れては余計に濡れてしまう。
「嘘はいけないよ」
彼女の肩が、微かに震える。ふふ、と漏れでる息は微かに白く靄になった。
「嘘つきの貴方に言われたくないわ」
そう言われてしまえば、言えることは何もなくなってしまうのだけれど。彼女の髪が僅かに頬に触れる。濃淡の黒色の髪は、消えてしまいそうなほど儚く感じさせた。少し、暗いからだろうか。
「君は雨が好きでしょう」
彼女にそれを言った覚えは無いけれど、気付かれていた。
「雨の度に濡れているもの」
それは、
「だから、雨が好きなのでしょう?」
それは、少し違う。
「私は雨を見るのは好きよ。でも濡れるのは嫌」
視線をずらして水が弾けている下に移す。水溜まりに落ちた水は円を描いて溶けていく。
「なんだか、嫌な感じなのよね」
「普通は皆、濡れることは嫌がるものだよ」
タオルを肩に掛け、頭を振る。彼女が、猫みたいとそっと呟いたのが聞こえたが聞こえない振りをした。
「人間の、本能みたいなものだと思う」
あくまで、推測だけれど。
「水は、容易く人間の命を奪うから」
右手を伸ばして、雨に触れる。すぐに手から溢れ落ち、水溜まりと同化していった。
「でも君は、濡れることが好きでしょう?」
彼女がそっと、僕の手を引き寄せる。肩からタオルを引き抜いて、丁寧に包んだ。揉まれるように水分が取られていく。
「どうしてなのかしら」
彼女に向かい合うように姿勢を正す。伏せられた瞳は悪戯を楽しむ子供のように輝いていた。
「君は、雨は好き?」
わざとらしく話を逸らせば、少しむっとした彼女が顔を上げる。
「私が聞いていたのだけれど」
「僕が聞いても良いでしょ?」
彼女は僕の手を離すと、顔にタオルを押し付けてきた。優しく、撫でるように拭かれる。
「雨…そうね、好きよ。さっきも言ったけれど見ることは好き」
タオルを持っている手が徐々に下がっていく。首をゆっくりと這い、冷たさに体が跳ねた。彼女は楽しそうに微笑み、また押し付けてくる。
「雨に濡れた君を見るのは、とても好きよ」
彼女の手を押さえる。これ以上悪戯されるのはごめんだ。タオルを奪い取り、自分で雑に拭き取る。彼女は残念そうに息を付いた。
「だからいつも、ここに来るの?」
聞くと間髪いれずにええ、と返ってきた。悪戯好きで人の弱いところを見ることが好き。出会った頃から変わらない、彼女の少しだけ悪い性格。
「あまり褒められたものではないな」
雨の喧騒に混じってチャイムの音が聞こえた。くぐもったひどく遠くに響いた音だけれど、聞き間違いではないはずだ。
「褒めて貰おうとは、思っていないわ。それに、君しか知らないよ」
濡れたタオルを丁寧に引き抜いて、軽くたたむ。小さな息と共に立ち上がって、僕を見下ろした。
「君は、こんな私でも受け入れてくれるでしょう?」
何もかもを見通すような、分かりきっている瞳。でも何処か不安そうに揺らいでいる。僕は、その不安を見たくなかった。彼女には、何の不安もなく眩しい光を纏って笑っていて欲しい。でも、きっと彼女には笑った顔より泣いた顔の方が似合う。そんな矛盾を考えながら、僕は言うのだ。彼女の不安を、無くすために。僕の前でだけは、隠すことなくありのままの彼女でいて欲しいから。
「もちろん」
彼女は、満足そうに微笑んで去っていった。
扉の閉まる小さな音が聞こえた。僕はふらりと立ち上がり、雨に向かって一歩踏み出す。雨が好きだった。子供の頃からずっと。雨は、嫌なことを覆い隠してくれるから。でも、濡れることが好きになったのは彼女と出会ってから。
だって濡れていたら、君は必ず来てくれるでしょ?