魔術で窮地を脱する方法
「光の標は天上より遍く地を海を浚い揺蕩う時の中に続く」
飛び掛かる犬の牙を、余裕を持ってかわす。
飛び散る涎も首を振って避ける。
己の身の小ささを活かし、ひたすら詠唱を続ける。
ラプトゥル族の子供、エリアがこの地下室で犬とご対面してから、数十分が経過している。
具体的には、42分。
自身の詠唱の進み具合で経過時間を正確に把握しているエリアは、首を振って額の汗を払い飛ばし詠唱を続けた。
餌を求める犬達が、時には交互に、時には同時に、エリアに襲いかかる。
かわし、しゃがみ、転がり、跳び。
体捌きだけで二匹の犬の攻撃を捌き続け、エリアの詠唱は止まらない。
「時空の果てに潜みし王に彼の唄を捧げ持ちて我が言の葉の誓いと為す」
詠唱の隙間から漏れる息は少しだけ荒く、ローブの端々は僅かに裂け、額にも身体にも汗が伝い衣服を濡らしていたけれど。
エリアの眼差しは力を失わず、己の魔術を揺らがず信じて。
ただ一心に、詠唱を紡ぎ続ける。
仲間は居ない。敵を抑えてくれる前衛が居ない以上は、敵の攻撃は自分でなんとかしなければならない。
観客は居ない。例え華麗なる魔術で敵を打ち倒したとて、ラプトゥル族の評価が変わるわけではない。
救いは、ない。都合よく助けに来てくれる第三者など居ない、障害は自力で乗り越えなければならない。
それがどうした、と。エリアは、心の中で叫んだ。
そんなの、いつもの事だ。
大事なことは、この心の中、己自身に示すのだ!
「我が誓言に従い、今ここに顕現せよ蒼穹を貫く神代の風よ
天穹旋塵竜!」
エリアの放った魔術は、ひたすらに単純で純粋な、強風であった。
だがしかし、一時間にもおよぶ詠唱が生み出した、A級並の魔術。
生み出された風は、暴風、突風、台風、いかなる呼び名がふさわしいか。
巻き込まれた二匹の犬を一瞬で弾け散らし、その亡骸をも飲み込んで犬達が姿を現した扉を突き破った。
なおも豪流はとどまることなく、通路を塞ぐ二枚の扉を追加で巻き込み残骸を砲弾の弾頭に変え、通路の他の部屋や扉を荒らしながら地下への階段を駆けあがり、館の1階に繋がる隠し扉をぶち破る!
館を揺るがす、轟音。
隠し扉を破って壁に、天井に突き出さった扉の残骸。近場の陶器が砕け散り、館の通路をずたずたにし建物自体を戦慄かせる。
集まってくる警備兵達の足音、そして。
「ちょうどよく、扉が開いたようですよ」
『こ、こわ、こわかっ……がくがく』
扉の残骸に髪を数本千切られた鋼とセイミは、駆けつける警備兵より早く地下へと続く階段へ飛び込んだのだった。
「ぜっ、はぁ、はぁぁ……」
魔術を放ったエリアは、結果を見届けもせずに床に座り込むと、そのまま地面に仰向けに倒れた。
地下をも揺らす震動と轟音が、床の冷たさと混じり合って心地よい。
というか、疲れ過ぎていて何もかもがどうでも良いとも言えた。
魔術には、自信がある。
選んだ魔術は、純粋な風。刃でも、もちろん火や水でもない。
だから強大な圧力は発生するが、この部屋の自分が窮地に陥ったり、建物が崩れて生き埋めということはない、はずだ。
心配だったのは、魔術を放つまで凌ぎ切れるかであって、魔術を放てば必ず勝てる。
あの程度の魔物(実際は魔物ではなく動物だ)など、百匹倒しておつりがくるだろう。
その、懸念事項の発動前の詠唱についても、1時間凌ぎ切ったのだ。
ラプトゥルとしての身体能力をフルに活用し、詠唱を途切れさせることなく避けきった。
全身汗だくだし、魔力の大量使用と相まって指も動かしたくないほど疲れたが、何はともあれ勝利だ。
まだ、道は、断たれない。断たせない。
世界最強の魔術師たる自分は、この程度で負けたりしないのだ。
とは言え―――
「はぁ、はぁ……」
まだ息は荒く、瞼を持ち上げるのも億劫で、今はただ休息が欲しい。
考えるのもだるい。
そもそも、考えなければいけないことなど、何かあっただろうか?
そんな、思考とも寝言ともつかない意識を漂わせ、ゆっくりと沈んでいくエリアの耳に、人のものと思しき足音が届いた。
寝そうだった自分に気付いて重い瞼を上げ、見上げる目に映ったのは―――
「おはようございますよ。
お目覚めは、いかがですか?」
「お前、は―――」
「昨日ぶりですよ。
約束を果たしてもらいに参りました」
「―――ひうっ!?」
ぼんやりしていた意識が、鋼の言葉で覚醒する。
覚醒するとともに思い出されたのは、昨日ギルドで肩を叩かれ、思わず逃げ出した時のこと。
あの時の鋼の声や様子、エリアの恐怖心である。
覚醒するとともに上体を起こし、座ったまま後ずさった。
そこに、世界最強の威厳も、ラプトゥル族の誇りも何もない。
「ままっままま、待ちたまえ。待ちたまうのだぞ!
今ボクは―――あれ、ボクは今、どこにいるのだ?」
幸いというか、この部屋は広い。
鋼からある程度離れたことでようやく落ち着き、また広く見慣れぬ部屋が目に入ったことで自分の状況が不明なことを思い出したようだ。
「ダルナスさん、という方の館らしいですよ。
どうもエリアくんは、馬車でここの地下室に連れてこられたみたいで」
「そうだ、思い出したのだ!
ボクは指名依頼でホクレウ山のミーティアタートルの討伐に出かけ、馬車に乗ったのだぞ!」
おそらくそれが、エリアを騙して連れ去るための偽の依頼であり、ダルナスの馬車だったのだろう。
そんな事情を知る鋼は、一つ頷くと
「ミーティアタートルとは、美味なのでしょうか?」
「へ?」
『違うでしょ、今は肉の話じゃないんだわ!』
状況の説明もせずに、気になったことをただ尋ねるのだった。
『その依頼が嘘で、エリアを見世物にして殺すために馬車でここに連れ去った。はい復唱!』
「その依頼が嘘で、エリアくんを見世物にして殺すために馬車でここに連れ去った。だ、そうです」
「なっ、なんだと!
それでは―――」
やっと語られた状況に、エリアが目を瞠る。
だが続く言葉は、状況説明が為されるのを待っていたのか、タイミングのいい言葉に遮られた。
『薄汚いガキなぞ、犬の二匹もいれば十分かと思ったが。
なかなかどうして、我が家に恥をかかせただけのことはあるということか』
「誰だ!」
「ダルナスさんの声ですよ」
『さらに不法侵入者も一緒とは、手間が省けて良い。
我が家を、我が名を傷つけてくれた君たちには、特別な相手を与えてやろう』
鋼が入ってきた、扉が破られた通路。そこから、空気の焼ける匂いとともに、獣の息遣いが聞こえてくる。
かすかな足音とともに、ゆっくりと、少しずつ近づく気配。
心なしか上がった室温に、エリアが重たい腕でゆっくりと額の汗をぬぐう。
『たかだかトカゲとコソ泥風情が、我が家を汚し、我が名に恥を塗るとは。
苦痛と絶望の中で、惨たらしく死ね!』
笑い出すかの如く、喜色を浮かべたダルナスの言葉とともに、今まさに通路から
「あ、そうでしたよ。
ゆ……妹さん、家主さん、みなさん見てますかー?」
通路に背を向け、鋼が虚空に手を振る。
あっちかな、こっちかなと小声で呟きつつ。向きを変え、時にはエリアの隣に並び。
虚空に向け、存在のアピールをする。そこにあるかもしれない、カメラに向かって。カメラの向こうの、ユニカ達に向かって。
「……お前は、何をしているのだぞ?」
『何をしているのだ、お前は!?』
奇しくも重なる、エリアとダルナスの言葉。
否、重なるべくして重なった、というべきだろう。
心なしか、通路から姿を現した炎の獣も、お座りして物問いた気な表情に見える。
『まあ……これがあんたよね』
鋼の肩に腰掛けて、訳知り顔で頷きながら頭を振るセイミ。
だがその表情は、どことなく嬉しそうでもある。
『さ、ハガネ。あれをちゃっちゃと片付けて、夕ご飯のお酒に期待して帰りましょ』
「そうですね。あれをちゃっちゃと片付けて、エリアくんに貸しを返してもらいませんとね」
「最近、お父さみゃは大分お疲れにょ様子ですわ」
「誰のせいにゃっ!」
「……ハガネさみゃ、ですわね」
「……うみゅ、ハガネどにょのせいにゃ」
久しぶりに意見が一致した親子。
そして始まる心温まる触れ合い。
お父さん、残りヒゲ3本(ただしすぐに生える)




