エピローグ 少女と家族になる方法
夜。薄暗い、宿屋の一室。
目を閉じて椅子に座る青年の背後に、少女は凛と立つ。
感謝とか、心配とか、誇らしさとか不安とか。
こんなにもたくさんの想いが胸に溢れていることに驚きながら、優しくその背に触れる。
二人の影が、触れた指先を起点に、優しく一つになる。
可憐な唇から紡がれる詠唱は、さながら愛の歌の如く。
優しく、切なく、ユニカの心を鋼へ、愛する主へと届けようと甘やかに響く。
傷が、癒えますように。
苦しみから、解き放たれますように。
危険から守られ、幸せでありますように。
想いは尽きず、胸の内からなお湧き出し続けた。
薄暗い部屋に、二人。
己の魔力と技術と想いの全てを込めて、ユニカは鋼に治癒を施し続ける。
今その身にはない、かつて鋼の命を奪ったという傷病。
その全てを癒し、退け。
鋼が真に健康で自由で、幸せになれますように、と。
その幸せな鋼の傍らに、ずっと自分が一緒に居られますように―――と。
魔力の続く限り、魔術を発動し続け。
それを終えたユニカは、その背に触れたまま、少しだけ荒い息を吐いた。
わずかに掛けられた体重と、甘い吐息。そこに魔術の終わりを理解し、鋼は閉じていた目をゆっくりと開いた。
「ありがとうございますよ、ユニカさん」
「いえぇ、これは私の役目で、やりたいことなんですよぉ?」
鋼の能力により、劇的なレベルアップを果たした。
その後、生まれて初めての魔術は、鋼を相手に行使した。
それでも、あれは魔術の練習でもあり、本当の意味で治療をするために魔術を使ったのは、ミルニャに対してだけであった。
だからこそ、ユニカはやっと鋼に対して治療を行うことができて、その背に少しだけ寄りかかり嬉しそうに微笑んだ。
「私はぁ、ご主人様を助ける、助けたいんですぅ。
ですからこれからはぁ、毎晩こうさせて下さいねぇ……?」
「ええ、よろしくお願いしますよ」
鋼の返事に、喜びとともに少し顔を赤くして。
その額を、鋼の背に押し当てる。
鋼の反応はない。
何かを言うことも、身体を動かすことも、拒否することもない。
夜の中、静かなひと時が二人を包む。それは、不安でも不快でもなく、とても暖かくて安らぐひと時であった。
「さぁ、ご主人様。お湯をいただいて、綺麗にいたしましょぉ?」
「ん、お願いしますよ」
一昨日の晩。
先に寝てしまった鋼を、たくさんの愛情と少しの不満を込めて、ユニカは一生懸命磨き続けた。
その結果、黒かった鋼の肌は、今では街人と遜色ない程に汚れが落ちて綺麗になっている。
むしろ、肌の色が違って見えるほど汚れていたことを厭うべきであろうが、ユニカに忌避感はない。
それどころか、自分の努力で鋼が見違えるほど綺麗になることに、途中から嬉しくて仕方なかったくらいだ。
魔術も使えず、自分のせいでさらわれたり、奴隷なのに女性としても求められず。
莫大な借金を負わせたくせに、何も返せない無価値な自分が、少しでもご主人様の役に立てるという幸せ。少しでも見いだせた、自分の努力の成果。
ただ身体を拭くだけの行為でも、そこには確かにそんな充足感や幸福感があった。
だからこそユニカは、今日も丹念に、鋼の身体を洗おうとしていた。
布で洗い清めた後は、ユーディアとして、魔力を纏わせた手で主人の身体に触れ、撫で、手入れする。
こうすることで互いの魔力を混ぜ合わせ、馴染ませるのだ。
魔力が馴染み、親和性が高まれば、魔力による治療や補助などの効果が上がる。
それでなくとも祖は愛馬、ユーディアという種族として、主と魔力を馴染ませる行為は至福のひとときであった。
願うなら、愛するご主人様の手で、自分の角を、ひょっとしたら身体中も、魔力を馴染ませて欲しいけれど。
今は自分が主人に尽くすだけでもいい。
後ろから手を伸ばし、手ではなく腕に、ほんの少しの力を込めて。
抱きしめる身体に、密着する肌。二人の間で潰れる、弾力ある過剰に大きな胸が少し邪魔で不満だったけど。
顔が熱く、意識がどうしようもなく叫び出しそうな、どうにもならない衝動が突き抜けて。
幸福と胸の高鳴りに少し困惑しながら、頬を真っ赤に染めて、それでも鋼を愛おしげに撫で、抱きしめた。
「ご主人……さまぁ」
「ユニカさん、どうしましたよ?」
いつの間にか、手の動きを止め。
その背に頬を押し当てて目を細めたユニカが、甘い声で囁いた。
「治療もぉ、お世話もぉ、ギルドのお仕事もぉ、何でも頑張りますからぁ」
「はい」
鋼は、少しだけ上を向くようにして。
相変わらず、静かで、ちょっと無感情で、だけどユニカには優しく感じる声で返事をしてくれた。
「これからもぉ、一緒に居させて下さいねぇ」
「……まずは、治療をしていただいて、返済を完了しますよ」
可能性行使証。またの名を、借用書。
今借りているのは、治療の魔術と、莫大な経験値、それに金貨2110枚分の金銭だ。
これを指して、鋼は具体的な返答を避ける。
「それでもぉ、治療が終わってもぉ、私はぁ……」
「いいんですよ、何をしても」
ユニカの沈黙を、どう捉えたか。鋼は静かに続ける。
「ぼくがユニカさんにお願いしたのは、治療の魔術で助けてくれることですよ。
それが終わった後は―――」
「一緒に居させて下さいぃ!
その後も、ずっと、ずーっとぉ!」
強い言葉で、鋼を遮るユニカ。その腕に、まるで捨てられまいとするかの如く力がこもる。
ユニカに見えない位置で、少し困った顔をする鋼。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに。お互い、表情が晴れなくて。そのことが、場違いにちょっとおかしい。
「ぼくは―――莫大な、借金がありますよ。
それは、ぼくがぼくのわがままで、負ったものですよ」
鋼が借金をしたのは、自分の意志だ。
そのことに、鋼自身、一点の曇りも躊躇いも恨みもない。
例え青い顔をしていても、気持ち悪くなったり怖くなったり吐いたとしても、この借金は誰かのせいじゃないのだ。
「借金を背負った生活というのは、本当に苦しいものなのですよ?
こんなに静かで穏やかに、布団で眠ることなんかできない。
草を食べ、川の水を飲み、借金取りに気付かれないよう片隅で眠る。そんな日々が、ただひたすら、果て無く続くんですよ」
借金取りから逃げ続けた、鋼。
その日々は、ルールと契約に保護されていたとはいえ、それでも心休まる時間のない過酷なものであった。
「そんな日々に―――ぼくは、ユニカさんを、巻き込みたくないんだよ」
少しだけ疲れたように。けれど優しい声で。弱々しくも、思わずユニカに本音が漏れた。
思い出すことさえ拒絶するように、微かに震える鋼の身体。
それを押しとどめるように、なお強く抱きしめてユニカは言葉を返す。
「ご主人様はぁ、今の私の全てなんですぅ、恩人だけじゃないんですぅ!
だから―――」
鋼がどこかに行かないように。
鋼が、自分を置いて、どこにも行かないように。
「病める時も、苦しい時も、辛い時も、逃げる時も、戦う時も、いつでもどんな時も!
私はご主人様と一緒に居たいんです、一生一緒に居たいんですぅ!」
一生を、賭し、捧げ、共にありたい。
異性に告げるその言葉は、つまり
「私、私はぁ、私のしたいことはぁ!
ご主人様と、ご主人様の、かっ、家族に、なりたいんですぅ!」
ごめん、終わらなかった!
―――短いけど、ほんのちょっとだけ続くのでまた次回!




