執事を越えて往く方法
柏 鋼は、借金取りに追われていた。
追われていた、などと生易しいものではない。
週7日、一年364日。規則正しく、毎日仕事が終わってから0時の鐘が鳴るまで、飽きもせぬ借金取りから逃げ続けている。
賭かっているのは命、ではない。
すでに金は借りており、妹の治療費が失われることはない。
ゆえに、もし仮に借金取りに掴まったとして、奪われるのは命ではない。鋼の命も、妹の命も失われない。
ならば、何を奪われるのか?
それは、その日の稼ぎと所持金の全てと、鋼自身の人生である。
借金取りとの取決めは、今は置いておこう。
この異世界においては、もはや何の意味もないのだから。
大事なことは、鋼が毎日、借金取りに追われ続けたという経験であり。
結果として、鋼は―――
比類なき、逃走能力を身につけた、ということだった。
そう、逃走能力である。
道を駆け、人ごみを抜け、囲みを破り、壁を登り、どんな状況であっても逃げ切る。
そんな、逃走能力だ。逃げ、生き延びるための力。
間違っても、戦闘能力ではない。
もちろん、卓越した走力や状況判断能力、反射神経やバランス感などがある以上、全く戦えないということはないだろう。
だがそれでも、現時点の鋼が身につけているのは、逃走能力だけ。
つまり、元一流の護衛執事を倒すなど、土台無理な話なのだ。
鋼一人がミルニャの部屋に辿り着けばいいならば、なるほど、ナナンダ相手であっても逃げ切れるかもしれない。試す価値はあるだろう。
だがしかし、今回は鋼一人が辿り着いても意味はない。
ユニカと二人で、ミルニャの元へ辿り着かなければならないのだ。
だからこそ、鋼は得意の逃走能力で勝負することができず、逃げるためではなく倒すために駆ける必要があった。
それゆえ、ナナンダと交錯し、一撃で吹き飛ばされ。
気絶して、ナナンダが、廊下に崩れ落ちた。
「ご主人様、大丈夫ですかぁ!」
「い、痛いですよ。なかなか強烈でしたよ……」
ユニカに助け起こされる鋼。
攻撃されるに辺り、ユニカの指導により力を込めたが、果たしてどれだけの効果があったやら。
両腕で受けたが、下手したら折れているかもしれない。一つ息を吐くと、比較的しっかりした足取りで立ち上がった。
「さて、まずは前借りした可能性を返しませんとね」
『そうね。口約束一つ分、よろしくするんだわ』
当然のように、戦闘中はユニカの近くに避難していた妖精が鋼の肩に降り立つ。
一つ頷くと、鋼は廊下に飾られていた壷を片手で持ち上げて。
「ではいきますよ」
気絶して廊下に倒れたナナンダに、とどめを刺すように振り下ろす!
ごすっと、壷と後頭部が鈍い音を立てる。ナナンダはぴくりとも動かない。
『はい、契約完了~だわ』
「ええ、契約完了ですよ。ほっとしました」
領主の館連続殴殺事件、みたいな凶行に嬉しそうな笑みを浮かべると、妖精はだらりと垂れた左手首に触れた。
まるで浮かび上がるように、鋼の手首にブレスレットのようなものがあらわれる。
それは、青い珠4つと、水色の小さい珠が4つついた、珠の数の少ない数珠のようなアクセサリーだった。
よく見れば、大きい方の珠2つと、小さい珠1つが鈍く曇っている。
その小さい曇った珠に妖精が触れると、他の珠と同じように曇りが晴れて輝きが戻った。
「……あの、ちゃんと、生きてらっしゃるんですよねぇ?」
「はい。
えっと、多分……」
凶器の壷を戻しながら、鋼がちょっと自信なさげに答える。
慌ててユニカが確認するが、鋼の言葉の通り命には別状なさそうだ。
「ナナンダさんの治療も、後でお願いしますよ。
今は申し訳ないですが、このままで急ぎましょう」
「はい!」
『そうね、行きましょ行きましょ』
殴り殺した遺体……もとい、押し通るために打ち倒したナナンダを廊下に残し。
三人は、ミルニャの部屋へ辿り着き。
「失礼しますよ」
ノックもせず、堂々と扉を開いて部屋へ足を踏み入れた。