不毛な始まりの月曜日
チクタクチクタク。
時を刻むものが世の中には幾つかある。条件付きではあるが、確かに存在する。例えば、時計。教室の正面をほぼ埋め尽くす黒板から、1m右斜め上に視線をずらした場所に配置されている、それ(電池が続く限り)。例えば、記憶。知覚するという身体感覚は、ひとつ残らず次の瞬間には過去へと脳に刻まれる、それ(本人の無自覚も可)。例えば、人の命。人間は生まれたその時から、死へと走りつづけているそれ。
だから、別に驚いたりするつもりはない。
「俺、7日後に死ぬんだ。」
例え、たった今隣の席のクラスメイトが死の宣告者になったとしても。
明日世界が滅亡する訳でも、誰かに脅された訳でもない。と、小野くんは言う。
「そう。」
小野くんの話を信じなかった訳ではない。かといって信じた訳でもなかった。ただ特に興味もないので、たった二文字で会話終了、そのはずだった。
「だから笹原さん、手伝ってよ。」
先に話して置くと小野くんと会話をしたのはコレが始めてだ。隣の席になるのは二回目だったけれど、私達は"トモダチ"未満も甚だしい。顔を知っているテレビの中の芸能人よりももっと遠い、そんな関係。
「イヤ。」
何を、と聞く前に断っていた。これまたたった二文字の簡潔且つ完結な単語で返したが、小野くんは口角をあげて笑い、更に続ける。
「それでさ、手始めに今日一緒に帰ろっか。」
私達はそうやって、始まった。
放課後の教室で、夕焼けを背負った小野くんの顔は逆光でよく見えない。どうしてあの時、彼がわらっていたと私は思ったのだろう。
私はただ日誌を書いていただけだった。週直の仕事だからだ。
偶然か必然かは分からない。でも、私が週直当番の一日目、私達はそうやって始まった。
***
夕日に包まれた町は明々とした炎のような空の下で、静かに夜を待っていた。
学校での小野くんとのやり取りが嘘のようにいつも通りの景色だ。その中で普段と違うことと言えば、この繋がれた手と隣で歩く小野くん。
誰もいない放課後、日直をしていた私に突然話しかけてきたのは、名前しか知らないクラスメイトだった。しかも「7日後希望の自殺志願者」だ。そして此方の意思を伺うこともなく協力することを決定されてしまった。
「で、どうして手伝うことが手を繋ぐ行為に繋がるわけ?」
この至極最もな疑問に私ではなく小野くんが不思議そうに首をかしげる。
「だって、死ぬ前に恋ぐらいは経験しときたいだろ。」
何だその、顔は。まるでそんなことも分かんないのかと、尋ねられることこそこの世のどんな謎よりも不可解だと言わんばかりだ。
繋がれた手は暑かった。夏も近い梅雨明けの空気は生ぬるい。喉にはりつくような、ねっとりとした風が吹いている。そんな季節に自分よりも1,2度高い温度と触れているのはとても暑苦しい。でも、小野くんが生きているのだと、強く意識する。そうしている間に、教室を後にして帰路についていた。手を繋いで手を引かれるまでの一連の動作はとてもナチュラル過ぎて、突っ込む余地もなく今に至る。
「死ぬ前にって。あれ、本当だったの?」
「冗談であんなこと言わないよ。」
笑いながら返された言葉にむっとする。そんなことは分かるわけもない。小野くんがどんな冗談を言うタイプかなんて、知っているはずがない。
だって、小野くんは、クラスメイトの誰とも喋らない。梅雨の季節に転向してきてからずっと。隣にいながら、彼の声を聴いたのは今日が初めてだったのだから。
「だからって、なんであたしな訳?」
「えー、そこ聞きたい?聞いちゃう?」
握った手をいますぐ振り払ってやろうかと思う程度にはムカついた。しかし逆に引き寄せられて肩と肩が触れる。間に挟んだ鞄が横腹に当たっていたい。喋らない彼はストイックで体温がひくそうで少し潔癖にさえ見えたのに。口を開いた彼はどこまでも真逆を突っ走っている。チャラいし、うざい。
相変わらず強く掴まれた指先は熱く、じわっと滲む汗が掌の間で混ざる。真夏につなぐ手の感触はあまり心地よいとは思えない。相手もそう感じているはずなのに、小野くんはさらに近づく。見上げる位置にある顔がぐっと迫り、茶色の瞳が覗き込んでくる。楽しそうな柔らかい、どこか悪戯っぽい色。黒よりもずっと薄くて、思っていたよりも綺麗な眼をしていることを知る。知っていたけど、知らなかった。知らない人が、いた。
どきりとした心臓を誤魔化すように「別に、どうでもいいよ。」といなす。顔を見られたくなくて、そっぽをむいた後ろ髪に「えー、つまんない。」と不満げな声がかかった。
「そこは、『教えてほしいのぉ。』『じゃぁ俺の言うこと一個聞いてね。』『えー、でもぉ。』『いいじゃん、ね、ほっぺで良いから。』『えーはずかしいぃよぉ、もう仕方ないなぁ・・・はい、っちゅ。』ってのが王道だろ?」
「どこの王道よ。馬鹿じゃないの、あんた。」
どうやら語尾を伸ばした方が彼女で意味の分からない命令をした方が彼という役割だったようだ。一瞬でも浮ついた心臓を叱咤し、隣でくねくね女子像を捏造する小野くんに冷ややかな視線を送る。
「ははは厳しいな、笹原さんは。でもそこが良いよ、うん。」
誤魔化したし、誤魔化された。小野くんの横顔を見上げながら、そう思った。きっとこの人は聞き返されないようにそう仕向けたのだ。小野くんのそれに私はのった。まるで無垢な赤ずきんのように。
「あ、そういえば何も考えずに歩いて来たけど、道こっちであってる?」
「どこに行くかにもよる。そもそもどこに向かってるつもりなの?」
立ち止まった小野くんにつられて足が止まる。首を傾げながらそう尋ねられ、戸惑う。同じように首を傾げ返すとくすりと笑われた。
「笹原さんの家だよ。彼氏だから送ってくつもり。」
「それも王道だからって?」
「ご名答。」
もう彼氏云々を訂正するのも面倒になり、手を引かれてまた歩き出す。あっちと方向を示せばそちらへ誘導される。
「あのさ、小野くんってバカなの?」
口に出した後に、少し失礼だったかと小野くんを見た。
「バカって酷いなぁ、真顔で言われるとダメージがデカいんだけど。」
「だって、意味不明だから。言動が。」
よく笑う人だ。小野くんはMだったのかと次々に更新されていく小野くん情報。別に知りたくもないのに。
「いいじゃん、7日だけだから。放課後だけでいいし、教室ではあまり話しかけないから。」
だったら、残りの7日間も今まで通り間接接触もあるかないかの関係でいいじゃんと小野くんの真似をして心の中で呟いた。
他人なんてどうだっていい。上辺でどれだけ仲良くしていても、皆自分が可愛いんだから。自分が卑屈になっている自覚はあった。毎日同じ繰り返し、起きて顔を洗って、時間があれば朝食をとって学校に行く。適当に友達と会話して、授業中はノートをせかせかと黒く埋める単調な作業に没頭して、放課後は約束が無ければ真っ直ぐ帰宅。眠りにつけば、エンドレスの始まりが目覚めとともに待っている。つまらない人生、笑っちゃうくらい。でもそこから抜け出す術を知らない。長いモノにまかれていくのは楽だ。だから何も考えないようにしているのに。
「そんなので手伝いになるわけ?いてもいなくても、大差ないように思うんだけど。」
「やっぱり無理。」と言わずにそう言ったのは、ただの気まぐれだった。面白くもなんともない退屈な毎日に放課後の小野くんとの時間が追加されようが今更どうこうなるものでもない。期待ではなく諦観の境地に至ると、人間は考えることをやめるらしい。断るために言い訳を思案するよりも何も考えずに7日過ごす方が気楽だ。
「大丈夫、大丈夫。笹原さんがいることが一番重要だから。」
自信満々で頷かれてしまい、自分の判断が正しかったことを知る。自分なら手伝えると思ったからではない。これ、絶対断っても付き合わされたなと確信したからだ。
小野くんは教室での無口が嘘のようによく喋った。もとは明る社交的な性格なのかもしれない。それにフェミ二ストだ。隣を歩いているとよく分かる。こちらに合わせた歩調や、相槌を打つタイミング、時より見せる優しげな笑顔。口調も穏やかだし、言動は意味不明だが一緒にいて苦痛ではない。7日間の時間の共有を許せたのはそういう理由もあるのかもしれない。
「笹原さん、一人っ子なんだ。俺と一緒だね。」
「小野くんは末っ子っぽいけど。」
「えー、そう?」
「ゴーイングマイウェイなとことかね。」
「・・・笹原さん根に持つタイプだよね。」
困ったような笑み、くしゃりと破顔すると目じりが垂れて幼く見える。知らなかった表情を知るたび、不思議に思う。どうして教室ではあんなに無表情で無口なんだろう。転校する前はそうじゃなかったのだろうか。何が彼をそうさせるのだろう。まるで何かに絶望したような、そんな冷たい空気を纏った転校生を誰もが腫れものに触れるように扱っていた。今隣にいる小野くんが教室でも同じように振る舞えば、彼は人気者になれるのに。そうすれば、きっと。きっと、何だろう。死ぬことを思い直すかもしれないとでもいうのだろうか。
繋いだ手を通して伝わる熱が急にうっとおしくなる。退屈で死にたいのは私の方なのに。小野くんが接触してきたことによって、閉じていた箱がこじ開けられる。7日間は長いかもしれない。はっきり断れたタイミングを逃したことを少し後悔し始めていた。
「学校から家、近いんだね。いいね、朝ゆっくりじゃん?」
家の前に到着した小野くんは、表札をみながらそう言った。両親は共働きで、深夜になるまで帰ってこないので、当然明かりがついていない家はどこか寂しげにたたずんでいた。
「近いとギリギリまで家から出ないから、逆に遅刻しそうになるけど。」
「あー、確かにね。でも俺、朝は満員電車でぎゅうぎゅう詰めでため息つきたくなるよ。だから、ちょっと笹原さんが羨ましいかな。」
羨ましいといった小野くんは、泣いているのかと思った。俯いていたからそう見えたのかもしれない。すこし歪んだ唇が、笑みを張り付けて誤魔化すように口角を上げていた。
「・・・駅って、逆方向じゃない?」
「彼氏だからね。」
それでも小野くんはその笑みを崩さないようにそう言った。すっと離された手が温い風にさらされる。二人分の熱はその風よりもずっと高かったから、温いはずの空気が凄く冷たく感じる。
「ありがとう、ダーリン。」
「・・・思いっきり棒読みじゃん!」
小野くんがどうなろうが知ったことではないが、そんな顔は似合わないなと思ったから、柄にもないことを言ってみた。思惑は成功したようで、くすりと笑った小野くんが、また陽気な笑みを浮かべたことに何故か少しほっとした。なんだかんだで絆されてないか、自分に軽く喝を入れたくなる。
「じゃあ、また明日ね。」
さっきまでつないでいた手が、頭を撫でる。眉間に寄せたしわを指先でちょんとつついて小野くんは背を向けた。手を振り払うよりも早く、潔い別れに暫し呆然として、その背中を見送った。これで今日のお手伝いは終わりらしい。