脱糞少女
(お腹が……痛い……ッ!?)
その女子高生・小宮山アヤネは、電車に乗った直後のところで腹痛に襲われた。
しかもこれは、出るほうの痛みだった。
運の悪いことに、大便のほうがである。
(う、う、うぅぅぅ……っ!)
舞台は満員電車。
通勤ラッシュの時間帯。
もしもアヤネがここで大便を漏らしてしまえば、それはもうとんでもない羞恥に見舞われるだろう。
衆目の前で脱糞する――それは、人生が終了するレベルの羞恥である。
いってしまえば、ここで大便を漏らすことは、少女にとって死に等しい。
大げさでなく、死。
漏らすわけにはぜったいにいかない。
(はぁ……、はぁ……)
電車の揺れが、お腹に響く。
ガタンガタン。
ガタンガタン。
揺れるたびにお腹が締め付けられる。
ガタンガタン。
ガタンガタン。
ドアがなんどもノックされるように、揺れがお腹を刺激する。
(ト、トイレ……行かなくちゃ……)
アヤネは人ごみを行く。
だがそれは容易なことではなかった。
元来、アヤネは人の迷惑になることをあまりしたがらない性格である。そのため緊急事態といえども人を押しのけるには心理的抵抗を感じる。
その心理的抵抗がストレスとなり、ストレスがお腹を痛くする。
また、物理的な面からしてもこの状況は厳しい。
通勤ラッシュの満員電車といえば、最も人が混む時間帯である。強引に行こうとしても思うようには進めない。
(すみません……っ! すみませんっ!)
心の中でなんども謝りながら、それでもアヤネは強引に行こうとする。
しかめっ面でこちらを睨みつけるサラリーマンには、心の底から申し訳ないと思う。
(でも、ここで漏らしたほうが迷惑になるから……。臭いとか、残っちゃうから……)
いつも自分が乗っている電車を、肥溜めにするわけにはいかない。
そんなふうにしたら、もうこの電車に乗れなくなってしまう。
それはダメだ。
(はぁ……うぐっ……)
アヤネは人ごみを進んでいった。
すると。
目の前に一人の男子がいることに気付いた。
アヤネはその男子を知っている。
(お、大鳥くん!?)
その男子・大鳥は、アヤネが恋している男子生徒だった。
(う、うそ。大鳥くんってこの電車に乗ってたんだ……)
小さな幸運をみつけて、アヤネはちょっとだけ幸せな気持ちになった――だが。
だが、
(うぐぅぅぅぅぅーッ!?)
計ったようにその瞬間、アヤネのお腹はこれまでにない激痛を感じるのだった。
好きな男子生徒を見つけたことで思わず緊張してしまったのかもしれない。
(大鳥くん……)
好きな男子生徒が乗っているとわかったので、尚のことここで大便を漏らすわけにはいかなくなった。
もしも漏らしてしまえば、焦がれている恋さえも儚く散ってしまうだろう――大便のせいで。
アヤネはお腹をお尻をギュッと締め付ける。
(学校についたら、大鳥くんとこの話をしよう……)
アヤネはそう心に決めてトイレのほうに向かう。
ちなみに『この話』というのは、自分と大鳥がいっしょの電車で通学していたという偶然についてであり、決して大便と奮闘していたということについてではない。
そんな話を好きな人とするものか。
(くぅぅ……)
なかなか前に進めない。
気付けば、額には汗。
たらたらと、顔からこぼれ落ちる。
股の間にも気持ち悪い汗をかいていて、漏らさないようにクロスさせている太ももと太ももが擦れるたびに、ぬるりとした感触が感じられる。
ほんとうに漏れそうだ……、とアヤネは思った。
(大鳥くん、ばいばい……っ!)
そう思いながら、大鳥に背を向けて奥へと進んでいくアヤネ。
だがここで、運命は残酷なほうへと動く――
電車が、
「う、うわぁぁっ!?」
大きく揺れた。
尋常でない揺れだった。電車の中にいる人の全員がその揺れによって転けそうになり、アナウンスが流れてその揺れについてを謝罪するほどだった。
当然、アヤネもその揺れによって立ち位置を崩す。
後ろのほうへと揺さぶられたアヤネが、行き着いた場所はといえば、
「うおっ……。あれ、小宮山?」
(大鳥くんーーーーッ!?)
なんと大鳥の胸元だった。
アヤネは、大鳥の胸元に倒れてしまったのだ。
しかもそのときの衝撃によって大鳥は、とっさにアヤネを抱きしめるような感じになっていた。
「あっ! わ、わるい! いきなりだったから、つい……」
「い、いや、べつに……」
好きな人の胸元にいる。
しかも抱きしめられている。
それはまさしく至福の時。
――今が腹痛に見舞われてさえいなければ!
大鳥は、なにを考えているのか、そのままの状態で喋ってくる。
「お、小宮山……。昨日はごめんな……」
「え……? なに……?」
「小宮山? なんか声が変だけど大丈夫?」
「だ、大丈夫……!」
我慢しすぎているものだから、アヤネの声はドスが効いていた。聞きようによってはデスボイスでさえある。
不審に思った大鳥だったが、構わず喋ってくる。
「俺、昨日さ、いろいろ考えたんだよ」
「なんのことだっけ……?」
「なんのことって……、覚えてないのか?」
「忘れた……。なんだっけ……?」
「ほ、ほんとうに覚えてないのか? 俺が昨日あれだけいろいろ悩んだってのに……、ほんとうに覚えてないのか!?」
「そういうのいいから早く……!」
「なんだよ……。なに怒ってんだよ――だからさぁ、お前から借りたケシゴムを失くしたことだよ……、ほんとに申し訳ないなと思って……」
「ケシゴム……!?」
アヤネは絶句した。
大鳥というこの男子は、貸してもらったケシゴムを失くしたことについて謝罪したいと言いに来たのだ。
そんな程度のこと、忘れてしまって当然である。
だが大鳥本人は至極申し訳なさそうな声で喋ってくる。
「いや、もうほんとごめんっ!」
「いいから……! べつに怒ってない……!」
「う、嘘だ! 声がめちゃくちゃ怒ってるじゃないか! 後でお前、陰でヒソヒソ言うつもりなんだろ!?」
「これは違うから……!」
「いや、もうほんとごめんっ! 許してっ! 借りたものを返さないやつとか噂立てないで!」
「…………」
アヤネはほとほと呆れた。
ケシゴムを失くされたくらいで怒るという器の小さい女性とみられていることがまず腹立たしかった。
さらにこちらがいいといっているのにも関わらずなんども謝ってくるズレた対応にも腹が立った。
許すといっているのだから気にするなよ。
アヤネはそういいたかったが、腹立たしさによって頭がまとまらず、うまくその言葉が出てこなかった。
代わりに、
「もう、ほんと、いい加減にして……! 私、あっち行くから……!」
と強引に会話を締めくくる。
とにかくトイレに行かなければならない。
そのあとでならいくらでも会話したい。
だから今は……。
「小宮山! もう、そんな怒るなって……。ほら、笑わないとシワができるぞ? なんつって」
ぷちん。
と、堪忍袋の緒が切れた。
この後に及んで場を茶化そうとするこの男子に、怒りが沸いた――
「いい加減にしろっつってんだろうがぁッ! 御託は後にしくされやボケがぁッ!」
「!?」
「ケシゴム失くされたくらいで怒るかアホンダラぁッ! そういうのを慇懃無礼っちゅうんじゃバカタレがぁッ!」
「!?」
「お前もう舐めとったらホンマいてこますからなッ! 覚悟しとけよこのナヨ男がッ! こらぁッ!」
「!?」
もう恋とかどうでもいい。
失恋しても構わない。
今のアヤネを止めようとするものは、たとえ意中の相手でも押しのけていく――その覚悟がアヤネにはあった。
固い固い覚悟があった。
思いの丈をぶつけたアヤネは、抱きしめている腕を鬱陶しそうに振りほどいて、大鳥の胸元から離れていく。
むしゃくしゃしたので大鳥の足をついでに踏んで、そうして人ごみの奥へと進んでいく。
(トイレ……! トイレぇ……っ!)
今はトイレだ。
大事なのはトイレだ。
なにがなんでもトイレ。
トイレ、トイレなのだ。
もう我慢も限界。
だがトイレも目前。
もうすぐ。
もうすぐだ。
(あ、がぁ……っ!?)
大鳥を怒鳴りつけたものだから、お腹が急激に痛くなってきた。
最高潮の痛み。
まともに歩けないほどの激痛。
まるで胃のなかでウニが暴れているよう。
「は、がぁー……っ! ぐ、あぁぁぁ……っ!」
開いた口からは、よだれが落ちる。
汗でびちょびちょの手で、誰かの背中を押す。
そして、ついに――
「ぐ、ぐぅぅっ!」
トイレのトビラに手を触れた!
我を忘れて、トビラを開く。
トイレに駆け込んだ。
トイレに入った。
「や、やった……!」
思わず声に出る、喜びの声。
ここはトイレの中。
もう大丈夫。
安心。
いそいそとアヤネはスカートのなかに手を入れて、パンツを脱ぐ――
そして便座に尻を落ち着けて、
ぶりッ! ぶぅッ! ぶりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりッ! ぶりゅりゅッ! ぶッ! ぶりゅりゅッ!
と、およそ女子高生の尻から出るとは思えない爆音を鳴らしながら、無事にトイレで排泄することができたのだった。
便座で安心しきった顔をするアヤネ。
アヤネは後悔していない。
人に迷惑かけたり、好きな人に怒ったりしたけど――人生には、他のすべてを押しのけてでも行かなければならない時がある。
今がその時だった。
仮に大便を漏らすくらいなら、人に迷惑をかけても、好きな人に嫌われてもいいと、そう心の底から思っていた。
揺るぎない覚悟があったからだ。
だからアヤネは後悔していない。
漏らさなくてよかったと、心から思えている。
――人間は、ほんとうに大事なことのためなら、どんなことだって出来るものなのだ――
なんて、悟ったようなことをアヤネは思い、
はぁ、と溜め息を吐いた後、
「ふふっ」
となんだか、おかしくなって笑う。
そしてアヤネは呟いた。
「電車は運行、私はウンコ……なんてね」
そんなクサい台詞をいいながら、アヤネは気持ちよく排泄するのだった。