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○○の事情

彼女の事情

作者: 藍月 綾音

 朝、目が覚めると頬に涙が伝っていた。懐かしくて、寂しくて、愛しくて胸が張り裂けそうになるのだ。

 それは穏やかな夢だった。なんてことのない、日常生活の一端を夢にみているだけだ。物心がつく前から同じ人物の日常を夢で追体験していた。


 とても不思議だけれど、最初は夢だったはずなのに今ではそれが鮮明な記憶のようにその時の感情まで思い起こせるようになっている。今朝は彼との初めてのデートの夢だった。ごちゃごちゃとした町並みを二人で初めて手を繋いで歩いた幸せな甘酸っぱい夢だった。夢の中で少女はしきりに自分の手のひらの汗を気にしていた。そして、一緒にいる彼も初々しく、そして穏やかに微笑み、心地の良い声で夢の中の少女を呼ぶ。顔が熱を持つような感覚も、じっとりと緊張で汗ばむ手のひらも、とてもリアルで、幸せで、目を開ければ途端に胸に大きな穴が空いたかのように、もどかしい感情が襲いかかってくる。それは、自分が誰なのか・・・・を無理矢理納得させなくてはならないからだ。


 ふかふかのベットを抜け出して、壁にかかる大きな姿見の前に立つ。鏡には可愛らしい小さな女の子の姿が映し出されている。黒い瞳は透き通るような淡い水色に、艶のあったストレートの黒髪はふんわりカールするアッシュブロンドに。何よりも、大人だった体は子供の体になってしまっている。夢の中の自分は子供だったり大人だったりするけれど、大人になってからの夢のほうが多くて夢から覚めると無力な子供の姿にどうしても落胆してしまう。早く成人したかった。そして、自分のあの夢がどんな意味をもつのか、自分が見ている夢は現実なのかを確かめに行きたかった。日本という国に飛んで行きたかった。


 自分の頬を軽く叩き、ニッコリと微笑む。今自分は、夢の中で憧れたビスクドールのような容姿に恵まれている。ちょっとキツめの瞳は、母親のマーガレットにそっくりだし、口元と笑うと出来るエクボは父親のダンゆずりだ。どんなに夢の中のもう一人の自分が幸せで、夢の中の家族に会いたくて切なくなろうと、少女はまだ4歳だ。まだまだ親に甘える年頃で、こんな風にやりきれない思いを抱えて眉を寄せるような憂い顔をする事は奇妙なのだから。幼い顔に無邪気に見えるような笑顔を浮かべ、今朝も確認をする。


『私の名前はクリスティン・マイヤー 4歳 英国人』


 鏡の中で微笑む自分に言い聞かせる。でないとクリスティンが消えてしまって、夢の中の自分が出てきてしまいそうで怖かった。クリスは自分がちょっと他の人と違うことをもう解っていたし、それは隠さなくてはいけない事だとも理解していた。でなければ、優しい両親に心配をかけてしまうから。


 クリスの夢はいつか東の海に浮かぶ島国、「日本」へ行くことだ。夢の中の家族が本当に存在するのか確かめてみたかった。

 

 マーガレットが起しに来る前に、ちょっと冷えてしまったベットにもう一度潜り込み目を閉じる。優しくて、でもちょっと厳しいマーガレットにゆすり起こされて、寝ぼけまなこでおはようのキスをするのだ。クリスの生活を始める為に。


クリスは一人娘だった。両親はとても可愛がってくれて、ダンなんて真面目な顔をして「仲良くなった男友達は週末のパーティーに招待するように、自分がクリスに相応しいかどうか見極めてやるから」と言ったりするのだ。マーガレットは躾に厳しかったけれど大きな愛情で包みこんでくれた。二人は常にクリスの意思を尊重してくれ、道を誤りそうになるとそれとなく注意してくれていた。だから、クリスは決して不幸ではなかった。幸せに守られた子供だった。


 クリスが15歳の時、転機が訪れた。ダンが日本に転勤になったのだ。クリスが日本に並ならぬ興味を持っている事を知っていた両親はこの偶然を一緒に喜んでくれた。生まれて初めてのはずの日本の空気は、クリスにとって既に馴染み深く心が震えるほど懐かしかった。


 もう、クリスには分かっていた。夢でみる記憶は、過去のものであり恐らくクリスが生まれる前の記憶だ。だからきっと前世というものは本当にあるのだ。でないと理由が説明つかない。夢の中の知識や教養はクリスのものとなっている。日本語なんて一度も習った事なんてないのに、クリスには理解出来たし、難しい言い回しやことわざだって正しく使える。漢字だって読めるし書く事もできた。


 日本に着いたらどうしても、すぐにやってみたい事があった。空港にならばある筈だ。飛行機を降りて、前もって用意しておいた日本円を握りしめるとトイレに行くと言って両親のそばを離れた。


 しばらく探したけれど、目的の物が見つからずインフォメーションのカウンターに座る女性に話しかけた。どこからどう見ても白人のクリスが流暢な日本語で話しかけると、少し目を見開いて驚いた後にすぐに笑顔になり丁寧に場所を教えれくれた。クリスはあまり遅くなると両親が心配する事が解っていたので足早に目的の場所に向かう。そして、とうとうソレを見つけた。


 緊張で震える手で、そっと100円玉を入れ夢で憶えてしまった携帯電話の番号を押す。面倒くさがりの人だったから、きっと何年たっても携帯の番号を変えることはないだろうと考えて、賭けてみたのだ。夢の中の自分の最後の記憶は1998年だった。これはクリスが生まれた年と同じだ。もう十五年経っている。ププププと音がして呼び出し音が鳴り始める。12時を過ぎたこの時間ならばお昼休みの時間だろうからきっと出るはずだ。夢でみる彼女の人生が本当に現実だったのかどうしても知りたかった。呼び出し音を数える内に、心臓の音が大きくなり、息をつめる。4回、5回・・・・・・・もうそろそ自動音声に変わってしまう、そう思い受話器を置こうとした時だった。


『もしもし』


 年を重ねたせいか、夢の中よりももっと低く落ち着いた声だった。けれど、何よりも恋しくて恋しくてたまらない声だった。間違えようもなく彼の声だった。クリスは咄嗟に声が出なかった。もし、万が一この電話が繋がったらと色々シュミレーションを繰り返したのに声を聴いたとたんに全てどこかに飛んでいってしまった。


『もしもし?どちらさまですか?』


 携帯電話のディスプレイには公衆電話と出ているはずだ。誰だか分からない相手に対する不信の色が声に出ている。クリスは反射的に謝り、間違えたと伝えて勢いよく受話器を元の位置に戻してしまった。本当は、もっと彼の声を聞いていたかった。けれど同時に怖くなってしまった。クリスの賭けは成功したけれど、これで証明されてしまったのだ。あの毎晩見る夢は、現実にあったことなのだと。


 その後、クリスは泣きながらベンチに座っていた所を、心配して探しに来たダンにみつかり、15歳にもなって知らない空港で迷子になって泣くなんてと笑われてしまった。本当は現実と夢の区別がつかなくなりかけて泣いていたのだけれど、罪悪感から逃れる為に父の腕に縋るように自分の腕をからめた。今の生活に不満などないのに、過去の家族に心が惹かれ懐かしいと思い、恋しく思う。それは両親に対する裏切りのように思えた。


 新しい生活は、横浜市で始まった。ダンの勤める会社がみなとみらいにあるからだ。会社が用意してくれた家は市内の住宅街にある一軒家で、外国人がなるべく住みやすいように配慮された輸入住宅だった。学校はこの近くにある私立の高校に編入することになっている。9月でキリがいいと思っていたけれど、そういえば日本は4月が一年の区切りなのだと思い出し、ため息をついた。途中編入は気が重い。人間関係が出来上がってしまっているところに入るのはただでさえ難しいのに、クリスは外国人という肩書までついてきてしまうのだから。


 憂鬱のため息をつきながら、クリスは新学期の朝を迎えた。日本に着いてから、毎晩の夢がさらに鮮明にはっきりと頭の中に残るようになり、日毎に想いが膨れ上がっていく。会いに行きたいという思いと、自分はクリスティン・マイヤーなのだからという思いが交互に押し寄せて、ひょっとしたら自分は病気なのではないかと疑うほどだった。


マーガレットと一緒に、学校の門をくぐった。職員用の玄関から入りまだ馴れないマーガレットの為に用意しておいた携帯用のスリッパを渡す。マーガレットは日本語が話せないし、読めないので説明をしながら職員室を探すことにした。大抵、玄関の近くにあるからと辺りを見回せばやはりすぐに見つかった。


マーガレットには、小さい頃から日本に興味があって自分で日本語や文化を勉強したことにしてある。英国人にとってはまだまだ日本という国は未知の国で、侍や芸者が当たり前のように歩いていると思っている人もまだ多い。マーガレットはそんなことはなかったけれど、やはり文化の違いには戸惑いのほうが大きいようだった。靴を脱ぐ習慣にも中々馴れることが出来ないのだ。


職員室の引き戸をノックして、挨拶をしながら開ける。


「おはようございます。今日からお世話になります、クリスティン・マイヤーです」


ギョッとしたような顔をした、中年の男性教員が慌てた様子で誰かを探して呼び寄せた。そしてクリスと、マーガレットの前に立つと大量に滲み出る汗をポケットから取り出したハンカチで拭いながら取り繕うような笑顔を浮かべた。


「ぐっ、ぐっともーにんぐ。ないすちゅみーちゅー」


完全に舞い上がってしまっていて、日本語のような発音の英語になってしまっている。笑ってはいけないと、クリスはグッと息をつめた。舞い上がってしまうのは仕方がないのだ、夢の中の自分だったらもっと酷い醜態をさらすに違いなかった。島国の日本では中々外国の人間とコミュニケーションをとる機会がないのだから。


「先生、お気遣いありがとうごさます。あいにく母は日本語を話せませんが、私は話せますので後学の為にも日本語でお願いします」


「おぉ、随分と流暢な日本語だね。これならあまり心配しなくても大丈夫のようだ。初めましてマイヤーさん。担任の兎澤 誠です」


中年の教員の後ろから、ヒョロリとした若い男が顔を出し、右手を差し出しながらそう挨拶をした。


クリスは、思わぬ出会いに耳を疑った。「とざわ」と名乗ったこの男を知っていた。まさかと思いながらも、声が震えないように喉に力をいれて尋ねる。差し出された右手を軽く握ると、クリスより体温が高いということが分かる。記憶に残る手とは随分変わってしまったけれど。すぐに解かれてしまった手が名残惜しく感じた。


「初めまして、よろしくお願いします。とざわ先生の『とざわ』は、どんな漢字をお書きになるんですか?」


とざわのとが兎と書くなら間違いない。珍しい苗字だし、誠と名乗った。


「漢字が好きなの?ちょっと待ってね。あぁ、これで分かるかな?」


胸ポケットから印鑑とメモ帳を取り出すと、メモ帳に印鑑を、押して見せてくれる。兎に澤で兎澤。

心臓が跳ね、自分のものなのか、夢の中のものなかのか、なんともいえない感情が胸のうちで暴れだす。勝手に震えだす唇を噛みしめ、溢れ出そうとする涙を堪える為にキツク目を閉じた。


クリス様子がおかしいと気付いたマーガレットが、そっとクリスの肩を抱き寄せ、頭に頬をすり寄せる。


感情を振り切るように、何度か瞬きをして自分を落ち着かせる。そうしてマーガレットを安心させるように笑顔を作って見上げなければならない。今までふとした瞬間に過去に引き寄せらてしまった時に何度も繰り返してきたことだ。大丈夫、普通にできるとクリスは自分に言い聞かせた。


顔を上げれば、心配そうな兎澤の瞳がクリスを覗きこんでいてその瞳にまた心が揺さぶられた。上手くコントロールがきかない激情の波に襲われ、クリスは再び目を閉じ、意識を手放した。


 ―夢の中のクリスは松原 深雪という名前だった。東京で産まれ育ち、父親はサラリーマン、母親は専業主婦という中流家庭に育った。特に辛い思いもしなければ、秀でた才能がある訳でもない、凡庸な育ちかたをしたと思う。


深雪が高校生の時だ。当時大学生だった兎澤 進と出会う。深雪にとって運命の人だった。春の日溜まりのような穏やかな気性で、常に微笑みを口元にたたえている人だった。とても理知的で賢く、いろいろな物事を知っていた。深雪が知らない物事を柔らかい声音で分かりやすく丁寧に教えてくれた。物事を教わるささやかな時間が大好きで、そんな一時のあとは自分が少しだけ賢くなったような気がした。


深雪が短大に進路が決まり、進は大学院へ通うはずだった。けれど深雪が高校を卒業する前に、進の父親が倒れ、家業を継ぐために進は新潟で酒藏を営む実家へと帰らなくてはならなくなった。進は深雪に一緒に来てくれと言ってくれた。実家に帰ったらきっとあっという間に見合いをさせられ、進の意思は関係なく結婚を決められてしまうだろうと。結婚をするならば深雪となければ嫌なのだと。深雪は進を選んだ。両親は反対したけれど、結婚をするなら深雪も進しか考えられなかった。まだ18歳だったけれど、進についていかなければ生きていられないと真剣に思っていた。


父は深雪が親元を離れて、他県へ嫁ぐ事を嫌がり深雪を家に閉じ込めるほど反対をしたが、結局進と深雪の想いに負けた形で二人を認めてくれた。


進の実家は、結婚と後継ぎが大事で、嫁に関しては進が気に入ったならば細かいことは気にしないという、実に封建的なのか、おおらかで先進的なのか判断に迷う家風だった。


深雪はここでも恵まれていた。歴史ある酒蔵で、厳格な家だと思っていたのに、舅も姑も若い深雪を可愛がってくれた。舅はどんな意思の力が働いたのか、半年の命を宣告されたにも関わらず二年間闘病生活をおくれた。進の結婚を喜び、しっかりと次代の跡継ぎの誕生を確認し、名前を『誠』と名付けてから息を引き取った。姑は舅が亡くなった夜、深雪に何度もありがとうと言ってくれた。舅に孫の顔を見せてくれてありがとうと。その日の夜の事は、その後何度も思い返し、そのたびに姑に対し感謝の念を改めて心に刻んだ。


決して深雪はよい嫁ではなかった。ぼんやりと日々過ごしていた深雪は、嫁いだ当初、ろくに料理も掃除も出来なかったのだ。実家で暮らしていた頃は全て母親がやってくれていた。それを疑問にも思わなかった。そんな深雪に文句も言わずに家事を教え、家業の仕事を仕込んでくれた。少々面倒だと深雪が思っていたことも、きっと気づいていたはずなのに同じ失敗を繰り返しても根気よく教えてくれた。そんな役立たずだと自覚のある深雪にありがとうと言ってくれた姑の思いにこたえなくてはと思ったのだ。


深雪が29歳の時だ。前日にその年始めての大雪が降った朝の事だった。その日は息子の誠のピアノの発表会だった。けれど、東京から商談の為に来客があり、進と姑は商談が終わり次第会場に駆けつけることになった。誠は父親と祖母がプログラム最初の連弾を見れないことに気づき、少しむくれて駄々をこねたが、大事な発表会に遅れてはならないと深雪に諭され、埋め合わせを父親に約束させて車に乗り込んだ。


深雪は雪には馴れていた。車がなければ買い物もままならないこの土地では、たとえ大雪でも車を動かすことに躊躇いはない。ましてやこの日はもう雪はやみ、空は抜けるような美しい青空をみせていた。


国道の交差点で信号待ちをしていた時だった、スピードを落とさずに曲がろうとした大型トラックが凍結した道路を曲がり切れずに深雪と誠が乗る自動車に突っ込んで来たのだ。気付いた時にはもう遅く、深雪にできた事は助手席に座る誠に覆い被さる事だけだった。


即死だったと思う。意識はそこで途切れ、その先の夢は見たことがない。


クリスが目を開けると自分の部屋の中だった。ぼんやりと目をしばたかせる。長い夢をみていたような気分だった。そうして、自分のまだ成長途中の手のひらを見つめる。


『初めましてマイヤーさん。担任の兎澤 誠です』


 夢の中の進にそっくりの声で、そう言ったヒョロリと背の高い男の顔を思い出す。小さい頃の面影が残っていた。深雪と一緒に亡くなったのだと思っていた。深雪が心から愛し慈しみ育てた命が、そこに存在していた。暖かい手をしていた。


トラックが迫って来た時の、もう駄目だという思いと、誠だけは助かって欲しいという思いが、ここ最近繰り返された夢の中でもっともインパクトのあるものだった。


深雪の願いがくクリスを日本まで連れてきたのかも知れないと思う。深雪は死に際に自分の命も誠の命も諦めていたように思う。だから、自然とクリスが会いたくて恋しいと思うのはいつも進だった。深雪の伴侶であり、穏やかな時間を過ごした相手だ。そして突然目の前に現れたのはどこかで諦めていた誠だ。心の底から神に感謝を捧げたい。深雪は最期に自分の子供を守れたのだから。そして、今クリスに誠を出会わせてくれた。これを神の奇跡と言わずになんというのだろうか。クリスはきっと成長した誠に出会う為にここにいるのだ。


ひとしきり喜びにひたり、ふと疑問がムクムクと沸き上がる。何故、誠は横浜で教師をしているのだろうか。誠は兎澤の跡取り息子のはずだ。あの姑が大事な跡継ぎを手放すとはどうしても考えられない。何か事情があるのだろうが、姑が納得できるような事情をクリスは思い付けなかった。



明日からは毎日誠に会えると思うとクリスは嬉しくなった。なかなか成人した息子の働く姿なんて見る機会はないと思えば少し得をした気分にもなる。親だと名乗ることは出来ない、誠だって自分より年下の英国人に、お母さんよなんて言われても困るだろう。15年間離れていたその時間を違う形で埋めることはできるはずだと考えた。

とりあえずは、じわじわと仲良くなって、進や姑の今の状況を聞きたかった。流石に、お父様とおばあ様はお元気ですかなどと聞くことはできない。


ベットの上で、拳を振り上げ自分を鼓舞する。今日はあまりの衝撃に、とんだ醜態をみせてしまった。明日は動揺しないように頑張ろうと、クリスは心に決め、いつもどおりに鏡の前で自分の姿を確認する。そして、心配をしているであろう両親を探しに部屋をでた。


 次の日、意気揚々と学校へ登校すれば、クリスの名前は学校中に知れ渡っていた。クリスが心配したような人間関係でつまずく事もなかった。何しろ、転入初日に倒れた病弱な美少女として皆が扱ってくれたのだから。これ幸いをクリスはそれに乗っかることにした。自分が目立つ容姿をしている事も解っていたので、誠にさりげなく近づけるように情報収集を欠かさなかった。


 言葉の壁のないクリスは、瞬く間にクラスに馴染んだ。誰もが、クリスの語学力に驚き、日本に対する知識の深さに驚いた。けれど、そんな事は最初の間だけでその内にはクラスメートの一人として気安い関係に落ち着いたのだった。


 まず、分かった事はこの高校の教師のなかで誠が一番若いということで生徒に大変人気があると言う事だった。新卒でこの学校に来て二年目、クリスのクラスが初の担任だという。クラスの中には本気で誠に惚れてしまっている生徒もいた。かなりの競争率の高さらしい。現在一人暮らしで、彼女はいそうにもない。数学の教師だが、ピアノの腕はプロ級らしい。因みに担任もろくに持った事がない誠がクリスを任されたのは、留学経験があり、日常会話に困らない英会話能力があるからとの事だった。


 なかなか人気が高く、特定の女生徒が近づくと他の女子に睨まれる為、クリスは一計を案じた。誠のファンの少女達を集めて、独身の誠の為に持ち回りで弁当を作って来る事を提案したのだ。一人だけならば問題にもなるだろうが、大勢の持ち回りならばコミュニケーションの一貫として受け入れられるかもしれないし、上手くいけば弁当を一緒に食べることもできるという、クリスとしては一石二鳥の策だった。駆け出しの教師の月給なんてたかがしれている。お昼を一食浮かせられるならば、誠にとっては嬉しいことに違いない。案の定、可愛らしい生徒達の申し出をコミュニケションの一環として学校側は認めてくれた。


 誠の為に弁当を作るというこの案に乗った生徒は30人、一年から三年までと幅広くファンを獲得しているようだ。多分恥ずかしがって名乗り出ない女の子もいるだろうとクリスは誠の人気ぶりにちょっと鼻が高かった。深雪の息子が人気者で皆から慕われる教師になっている事が我が事のように嬉しかった。


 とうとう、クリスが弁当を作る日がやってきた。クリスは日本に来てからというもの、料理の勉強をかかしていなかった。夢に見た深雪の作る料理を完全に再現できるように。英国では日本独特の調味料も食材も高価でおいそれとクリスに手が出せなかったのだ。姑に一から習った料理の数々を憶えている限り片っ端から作った。ついでに慣れない食材に手をこまねいているマーガレットの為に夕飯作りを引き受けたのだ。包丁を握ったことすらないはずのクリスが馴れた手つきで料理を作るのを見て、マーガレットは驚いたが、元々細かい事はあまり気にしないのか、クリスは天才なのねと納得していた。


 誠は昔から洋食よりも、和食のほうが舌に合うようだった。子供らしくハンバーグは好きだったけれど、姑の作った煮物が好きだった。記憶を辿りながら、クリスが作ったのは筑前煮とだし巻き玉子。栗巾着に、五目寿司をつめたお稲荷さんだ。このお稲荷さんは誠の運動会の時の定番だ。果物に柿と梨も忘れないで用意した。きっちり重箱二段に詰めて用意したお弁当に周りは目を丸くして驚くので苦笑するしかなかった。女の子の胃袋は随分小さいらしく、皆が用意するお弁当箱はとても小さい。大食漢の進の息子で25歳の若さなら絶対に足りないと断言できる。兎澤家の男連中は本当に良く食べるのだ。実際、お弁当の会が終わった後に購買でパンを買っている誠を見かけたことがあった。


 「これ、どうして?」


 クリスのお弁当を少し食べて、情けなく眉尻を下げて半泣きになってしまった誠はすぐに重箱の蓋を閉じてしまった。何度も味見をして、美味しいと思ったのだが何か失敗してしまったのだろうか。英国人のクリスと日本人の深雪とでは舌の作りが根本的に違うのだろうかと不安になりながらも、あらかじめ用意しておいた理由をのべた。


「日本の食べ物中で、お稲荷さんが一番好きなんです。先生お嫌いでした?ごめんなさい」


「いや好きだよ。うん。でも、今はちょっとお腹の調子が悪くてね。折角作ってもらったお弁当だから後で頂いてもいいかな?」


 さっさと重箱を風呂敷に包むと、もう一度謝りながらお弁当を広げたばかりの生徒達を残して誠は立ち去ってしまった。誠の姿が見えなくなると、途端に女生徒達が口々に話をはじめた。


「おっどろいた!!クリスってば!なんであんなに地味なお弁当なの?おばあちゃんのお弁当かと思ったよ!クリスのお弁当見るのを楽しみにしてたのに!サンドイッチとか、フィッシュ&チップスとか!」


 おばあちゃんのお弁当ってとちょっとクリスは傷ついた。


「そうよ、クリス。男の人はもっとガッツリした肉料理よ!でもクリスって料理上手なのね?私煮物なんて作ったことないわよ」


 もう15年も経つのだ。誠も10歳の幼い子供ではない。好物も変わったのかもしれないと、クリスは新たに誠の好物ぐらい把握しておかなければと決意した。あんな風に一口ずつしか食べて貰えないなんてちょっと悲しかった。お腹の調子が悪いと言っていたから仕方がないのだと、無理矢理自分を納得させるクリスにちょっと言い過ぎたと慌てた生徒達が、クリスを慰めはじめたのだった。後日返された重箱は綺麗に洗われ中に飴と「ごちそうさま」と書かれたメモが入っていた。食べてくれたのかは分からないがクリスは嬉しかった。けれど、その後クリスがお弁当を作る日だけは誠は一緒にお弁当を囲んでくれなくなった。受け取ってはくれるのだが、誠が食べる姿を見られないというのはクリスにとって悲しいことだった。いつも空になった重箱がかえってくるので食べてくれているのは間違いないはずではあった。


 それからクリスは頑張った。誠が顧問をつとめる文芸部に入ったし、分からない事を無理矢理作って勉強を教わりにいったりもした。あまり回数を重ねると目立つので、あくまで普通の範囲でだが積極的に話しかけた。


 けれど、卒業式はあっという間にやってきてしまった。誠と離れ離れになってしまう事に胸がいたんだ。遠まわしに聞く、進や姑の話も聞けなくなってしまう。クリスは悩んだ。せっかく再会できた、深雪の息子と縁を切りたくなかった。悩んだ挙句に卒業式までに5キロも痩せてしまった。そうして決心した。どうせこのままいけば、卒業式で縁が切れてしまうのだから、多少強引でもいいから無理なお願いをしてみようと。


 卒業式が終わった次の日、クリスは決死の思いで誠を学校の近くのカフェで待っていた。卒業の式の後に手紙を渡したのだ。強引に渡して逃げ出してきてしまったから、誠が来てくれるかどうかわからなかったけれど、何時間でも待つつもりだった。手紙に書いた時間は夕方の6時。勤務が終わった後に来れるように配慮した時間だった。


「おまたせ。本当はこういうのダメなんだぞ。4月になるまでクリスはうちの生徒なんだから」


 入口から入ってきた誠に、遠い昔の記憶が蘇る。同じようなちょっと困ったような顔をして進はデートの待ち合わせ場所にきていたものだった。ツキンと胸が痛む。この気持ちはクリスの物なのか深雪のものなのか明確にならないほど、気持ちが引きずられていた。来てくれた事に、クリスは勇気をもらえた気がした。誠はクリスの目の前の席に座り、カフェオレを頼むと姿勢を正してクリスを見た。


「それで?大事な話ってなぁに?」


「はい、兎澤先生。お願いがあるんです。私まだ未成年なんですけど」


「うん知ってる。それで?」


「とってもお酒造りに興味があるんです」


「は?お酒造り?って、え?」


 なぜか鳩が豆鉄砲をくらったような顔を誠がしていたが、自分の想いのたけを伝えようとするクリスは気づかなかった。


「兎澤先生のご実家は、歴史ある酒蔵だとお聞きしました。一度見学させていただけないでしょうか?」


「え?いきなり実家?」


「はい、是非。ご迷惑でなければ春休み中にお訪ねしてもよろしいでしょうか?」


 誠が話さえつけておいてくれれば、何食わぬ顔をして進に会いに行ける。一目でも会いたかった。日本に来て二年半我慢したけれど、やっぱり会いたいという想いは止める事ができなかったのだ。


「あーいや、うん。いいよ」


「本当ですか?兎澤先生!!ありがとうございます!!」


「ちょっと待って、今スケジュール確認するから」


「え?いいえ、そんな。兎澤先生はお忙しいでしょう?私、一人でも大丈夫ですよ?」


 スマートフォンを操作して、スケジュールを確認し始めた誠を慌てて止める。これ以上息子に迷惑をかけるつもりはさらさらなかった。


「そういう訳にはいかないでしょ。それに、俺もクリスに大事な話があるんだ。あぁ、来週末なら三日間の連休貰えるからクリスがよければ一緒に行こう」


 ほんのりと頬を染めながらそう言う誠に、4月にならなければ生徒だと言っていたのに大丈夫なのかとクリスは首を傾げたが、進に会えるという喜びが勝ってそれについて考える事をやめてしまった。


「はいっ!大丈夫です。兎澤先生のご実家は新潟県でしたよね?とっても嬉しいです」


「クリスのご両親には俺が電話をしておくよ。酒蔵の見学をしたいって事でいいんだよね?」


「はい」


「それじゃぁ、色々と知っていた方が便利だから、携帯の番号教えて?」


 そうして、番号とメールアドレスを交換する。これで誠とも何かあれば連絡しあう事が出来て、繋がりが絶たれることはなくなった。クリスは勇気をだして無理だと思われたお願いをしてよかったと心から安堵したのだった。


「それで?先生からの大事なお話って?」


 そう促すと、誠は困ったように眉を下げると、急に小さくなった声で実家に行った時に言うよといい先送りにされてしまった。自分に都合の悪い事については、小さい声になる所は幼い頃から変わっていないらしい。その、誠に都合の悪い大事な話とやらに想い当たるところはなかったが、兎澤の家で聞けばよい事なのだから深く考えてもしかたがないとその時まで忘れる事にした。


 そうして、待ちに待った日がやってきた。社会見学も良いだろう、誠が相手で実家に行くのならまぁ変な事にはならないだろうと両親はこころよく送り出してくれた。誠の車でいく事になり、ちょっと心配したけれど、思っていたよりも誠は運転が上手く安心して隣に座っていられた。途中何度か休憩をとり、いよいよクリスの良く見知った道を車が走っていく。


 緊張のあまり、息と止めてしまいそうだ。隣で誠がなにかを言っているけれど、全く耳に届いてこなかった。初めての景色なのに、とても懐かしい。十年暮らした土地は田舎らしくあまり変わっていない。遠くに古い酒蔵が見え始め、クリスは喜びのあまりに卒倒するかと思った。


 まだ雪の残る駐車場に車が止まる。車を出れば冷たい風が頬にあたる。このピンッと弓をはったような研ぎ澄まされた空気が好きだった。山から吹き下ろす湿った風の臭いもなにもかもが懐かしいと感じる。丁度、車が止まった音を聞いてか一人の男が藏の中から出てくるところだった。


 姿を目にした瞬間に、クリスの中の何かが弾け飛んだ。記憶の中の彼よりも老けていたけれど、かつて深雪が愛した男がそこに立っていた。


「進くんっ!!進くん進くん進くん進くん!!!」


 気づけば猪突猛進の勢いで雪の上を駆け出し、抱きついていた。


「会いたかった。会いたかったの。やっとここまでこれた!!」


 金色の髪の少女にいきなり抱きつかれ、戸惑う進にクリスは勢い余って首を引き寄せ、背伸びをし唇を重ねる。そうして、勝ち誇ったように夢の中の台詞を口にした。


「いやね、死んでも生まれ変わってまた一緒になろうってプロポーズ忘れたの?忘れなかったわよ私は」


「深雪?!まさかっ?!」


 呆然と呟く進にもう一度キスをすると、クリスは進の肩に額をこすりつけた。

 小さい頃からずっと夢みていた人に、クリスは恋をしていた。もう、刷り込みと一緒だ。もの心つく前から深雪として進の夢を見ていた。良いところも悪いところもすべてひっくるめて深雪は進を愛していた。クリスもまた進に恋をするのは当然の成り行きだった。深雪は進のプロポーズを現実にするためにクリスに夢を見させていたに違いないのだから。一目あうだけなんてどだい無理な話だったのだ。進と会えると決まってからプロポーズの夢を頻繁に見るようになったクリスは、やっと自分の夢の意味を正しく理解することになった。


 突然始まった父親とクリスのラブシーンに固まる誠にクリスは気づかなかった。

 お弁当作戦の結果、見事息子の胃袋を掴んでしまったことをクリスは知らない。

 大事な話があると言った時の誠が何故頬を染めていたのかもクリスは知らない。


 遠くで深雪にとって懐かしい夕方の町内放送が始まっていた。



読んで頂きありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] まさかの父・息子・生徒(中母)の三角関係?!←妄想
[一言] 久しぶりに読み返して思った。 甘い。超甘い。というか、一歩間違えるとただヤンデレだ。 いやまあ、愛情の受け皿があるから問題ないだろうけどさ。 あと、前世の時も奥さんの側から壁ドンとい…
2016/05/20 01:21 退会済み
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