第九 チケット
英国文化史・・・・自習、という表示を、教室の入り口にある札で確認する。
教養講義のこれは、今はレポート採点に教授が忙しいらしい。もっともそんな用事がなくても就職活動で半分くらいは来ていない状況なんだけれど。
着席した僕と時和の脇には、劇団に入っている女が二人ほど、衣装カタログを机の上に上げてあれこれ話し合っていた。横から聞こえてくる話によると、最近は既製品の衣装でも面白いものが増えてきているらしい。高校時代に演劇部の女がヒロインのドレスを三日徹夜で仕上げたと自慢していたのを思い出した。もしかしてそういう女が就職するような業界なのだろうか、縫製の業界って。
ただ、このおおかたは勘違いの偏見に塗れた質問を彼女らにぶつけることは、残念ながら僕にはできない。目が合ったら最後、僕ら二人ともが最低でも今度の講演チケットを買うまで放してはもらえなくなるから。運が悪いと自分たちの劇団や仲のいい劇団のパンフレットを更に五、六枚とそれに付随するチケットまで買わされる。いらないってはっきり言えばいいのだけれど、団員に課せられたノルマの話を聞いてから言えなくなった。
あーあ、結構可愛い顔の奴なんだけどな、と、まるで僕の心を読んで話を合わせるように、時和が言う。そうだね、と僕も曖昧に笑う。――そして、沙雪の方がそれでも一万倍可愛かったけれども、と心で呟く。
ほかの女なんて目に入るわけがない。どんな美人も可愛い女の子も、沙雪に比べたらかすんでしまう。顔と身体のパーツはどれも驚くほど整っていたけれども、全体としては落ち着いていて、変な話だけれども極端に人目を引く容姿でもない。大きすぎない目、小さすぎない口、すっきり通った鼻筋、優しい輪郭と白過ぎない肌。
容姿が整った女にありがちな、人形みたいな不自然さや嫌味さもそこにはない。発言にも中身にも矛盾がなくて、筋が通っている。頭のいい裕福な年配の人に可愛がられる、と僕はかねがね思っていたけれども、多分そんな幸運を無造作に捨ててしまうだろうほど芯のしっかりした、沙雪はそんな女だった。
「お前、時々遠い目するよな」
横合いで時和が言う。そうかな、と僕は今度も曖昧に応える。うん、と時和は頷くと腕組みをして――それから、今日の昼飯なんにする、とでも言いそうな調子でこう言った。
「……キヨって、好きな女いねえの?」
もう一度だけ説明しておくと、時和は狩穂と同じくらい、異性には全然興味のない手合いだ。パソコンが恋人、完全に自分を自立させている男に、一体生身の女の何が魅力に映るって言うんだろう。
時和は僕の素人臭さは好きでも、女のそれに対してはあまりお好みではないらしい。狩穂の日常を話したりすると、明らかにほかの男とは反応が違う。「女のテキトーさ、いい加減さってメスの本能に根ざしたもんだなって本当に思うな」と平気で言う。
ほかの連中は姉がいると聞くと、狩穂のプロポーションだとか顔だとか、そんなことばかり聞く。写真を持っていったら沈黙した。アニメキャラのアルビノと同一視しているような手合いもいたかもなあ、と僕は苦笑するしかなかった。
時和はそんなときでも醒めた目で「お前と姉ちゃん、別々の親に似てるんだな」と言っただけだった。弟としての欲目もだいぶあるけれども、狩穂は割と美人の部類に入る顔立ちではあるとは思う。けれどクラスで一、二を争うようなブス女であったとしても、多分同じ言葉を吐いただろう。
そんな時和がぼそりと言ったのだった。いねえの、じゃなくて、いるんだろ、と言わないのがこいつならではの優しさだ。僕が嘘をついて逃げるスペースもちゃんと用意してくれている。
けれども、今日の僕はそれが少ししゃくに障った。
「いたけど、もういないから。そういうこと時和に言ってもわかんないだろ」
「……わかんないって?」
「パソコンフェチ様に生身の女の話してもしらけるだけだろ」
「俺の話をしてるんじゃなくて、お前の話してるんだけど。何だ、別に話したくなかったんならもういいよ。大事な思い出なんだろ」
最後の言葉が尖る。時和は滅多なことでは腹を立てないけれども、機嫌を悪くすると語尾が少し裏返る。けれども、僕はそれを分かっていて続けた。
「ああそうとも大事な思い出だ。時和にはカンケーないからカラスみたいに余計な嘴突っ込むなよ」
「カラスだって?」
時和の顔が、さっと紅潮した。僕も立ち上がった。
「カラスだよな。僕にもねえプライバシーってもんがあんの。それをズケズケと聞かなくていいところまで聞いてきて土足で入り込んできて、そんなのゴミ溜めを漁ってるカラスと同じだ」
「お前の綺麗な思い出とやらはゴミかよ。あー、分かった分かった、お前がゴミとして捨てたなら、俺はそれを宝にしてやるよ。カラスの俺にはお似合いだからな!」
「大きなお世話だ、お前は錬金術師か? お前にとってのゴミが、宝とやらになるはずがないよ!」
隣りにいた劇団員の女たちは、びっくりした顔で僕たちをみていた。僕は肩をいからせて荷物を引っつかむとドアをガラリと開け、足音も荒く講義室を後にした。
時和は、追ってこなかった。
……頭の奥に、あのお盆のような真平らな世界の雛形が見える。ああ、世界は平面だ。海の果てはぐるりと大きな滝になっていて、そこから溢れ出した水はどんどん落ちていく。高く舞う水しぶき。それに煙る世界の果て。
僕は、僕が信じてきたもの、残しておきたい思い出だけをいつまでも残していく。沙雪の顔、声、匂い、全部覚えている。いなくなっても、ずっと覚えている。何を好きだったか、何が嫌いだったか、卒業式、入学式、体育祭や文化祭、修学旅行、受験と合格発表、そうだ、そんなものを誰にも「知ったふり」なんてさせない。
――手に、届かなくなってしまったけれども。もう永遠に。
校舎から出ると、校門の近くに水道の蛇口が見える。僕はそれで何度か顔を洗った。顔が何か、汚れている気がして気持ち悪い。
そして気がついた。ああ、僕のほうこそ顔が怒りで赤くなっていて、しかもどうも、少しだけ泣いてしまったようだ。沙雪のことを人前で思い出すのはこれはやめたほうがいいかもしれない。
何度か顔のほてりを水で抑えていると、後ろで気配がする。
「――チケット、買わされちったよ、キヨ」
時和の低い声だ。もう、落ち着いているらしい。僕は顔を上げずに水道の蛇口を捻った。
水が止まり、足元をさらさらと残りの水が排水溝に流れ込んでいくのを、僕は見つめる。
「お前好きな子いるんなら二人で見てこいよ、ってカッコイイこと言いたかったんだけどな。まあでも、自習の場を乱したのは俺にも責任があるから、二枚。金はいいから、お前が責任持って誰かに渡してくれよ」
「……ああ」
「多分、あいつだろ?」
「あいつって」
「お前の好きだった女。姓は忘れたけど、確か沙雪とかいう」
「……」
「まあまあな見た目だったしな。それでいて男の気配もなくて、聞けばお前と高校も中学も同じだって言う。キヨは飽き性でもないし、多分そうだろうなって」
「……何でもお見通しなんだな」
「まあね。学生結婚ってデキ婚かなあって女共が妬み半分で言ってたのも記憶に新しい」
「デキ婚なんて沙雪がそんなだらしないことするはずがない」
「まあ、そうだろうな。で、お前コクったことあったの?」
「……」
「ないのかー。あー、そりゃまあ……あの手の女は失望結婚したな」
「失望結婚って?」
ここまで来て、僕は思わず振り返った。途端、時和が僕の胸ポケットに演劇のチケットをねじ込んだ。
「よろしくな。つまり、自分を好きな男がいて、コクってくるのをずーっと待ってたけど、何年経ってもただ進学先を合わせるだけでいっこうにコクって来ない。『アタシって、運命の女に出会うための福の神扱いなのかしら?』って思い悩んで、そんなときに別の男から結婚指輪片手に言い寄られたら、そりゃそっち行くわー。女のプライドはその辺にあるから」
「福の神……なんて、そんな……」
「お前がどう思おうが、女はそう思ったら簡単に行動するぜ。お前の想いが五年だろうが十年だろうが、そんなのカンケーねーのよー。分かったカー」
カー、ともう一声だけカラスの鳴きマネをして、時和はにやりと笑った。
「……悪かったよ、カラスなんて詰って」
「ああまあいいさ。お前の乙女のようにピュアピュアなハートは俺もちょっと心配だったから。そのうちもっといい女に出会えるから元気出そう」
その後僕らは遅いビアガーデンに行き、サラリーマンに混じってしこたまビールを飲んだ。僕はちっとも酔えなかったけれども、そこに何かつっかえが下りた気がして、少しだけ心が軽くなった。