第五 あの日のフィールド
僕の小学校時代のクラスメート、正臣の住所というのは――自分でも物持ちのよさにあきれ果てたほどのものだったが――修学旅行の目録にあった連絡網で確認できた。卒業アルバムだとかには僕らの学区は子供たちの連絡先を載せてなくて、粗末と言っていいほどの手作りの目録だけ、何の理由かは分からないけれども全児童の住所と電話番号が載せられていたのを、僕は覚えていたのだ。
正臣の住所、とは言っても、正しくは正臣のご家族の現住所というだけのことだから、僕は電話をかけるとき、ともかく小学校時代のキヨくんがおかしな物売りになってしまったかと家の人に誤解を受けないことだけ気をつけていた。
サッカーの高い対外成績を誇った正臣は、僕とは違う中学を卒業後、当然のように強豪高の引き抜きに応じ、地元を出た。高校三年間みっちり鍛え上げ、夢でもなんでもなくJリーグに迎えられるものだと僕たち元クラスメートは思っていて、正臣の活躍をちょっとだけ期待していた。
僕が、父が亡くなったのをきっかけに三年間親戚の家に近い別の中学に行ったのが、僕のところにストレートに連絡が来なかった理由になったのだろうと思う。
他のクラスメートたちは多分もう五年も前に知ってるよ、と、電話口に「直接」出た正臣は、少し寂しそうに答えた。
膝の深刻な故障に加えて、靭帯損傷。
もう二度と、まともにフィールドを駆け回ることはできない。
――高校二年の、練習合宿での出来事だったという。
「そりゃ、俺の不注意だったから仕方ないんだよ、まだ治ってないのに隠して試合に出ようとしたり、ぬかるんで足場が悪いグラウンドで欲張ってトレーニングを続けてたりしたから。回りの誰一人悪くなんかない、俺が悪かったんだ」
それにこんなことは結果が全てのサッカー選手にはよくあることなんだ、と付け加えた。
プロのサッカーリーグ。オリンピック。そしてワールドカップ。こんなものに続く道が一瞬で消えた。
よくあることなんだ。
そんなことを、一週間前正臣は電話の向こうでびっくりするほど落ち着いた声で語ってくれて、僕はなんと応えていいのか分からなくなった。
「キヨ、おい、聞いてるか?」
耳元で言われて、僕は我に返る。ああ、そういえば今ここは、グラウンドじゃなくて正臣が知っている居酒屋だったっけ。
勧められた鶏肉のつくね揚げを僕はひとつ口に放り込んだ。
「うん、聞いてる聞いてる」
「どうも俺はコーチと方針が合わなくってさ」
正臣は声を低める。誰が聞いているか分からないから、こういう話は確かに内密にするしかない。
「どういった方針?」
「一言で言えばなんか学芸会とサッカーを履き違えてるようなとこがあるってこと。センターフォワードが十一人いると思えよ。あほらしくて従ってるのがどうでもよくなる」
「学芸会でも全員桃太郎にはならないだろう?」
「キミは本当はセンターフォワードに向くんだ、でも他にもやってみようか、ディフェンスなんか背が高いから活躍できるよ、って女相手みたいに口説き文句を言わないと今の子は納得しないのかねえ」
つまみも横にやってビールを煽る正臣は少し陰影が出来たような顔だ。スポーツに携わっている身だというのに、まだ大学生をやっている僕より三つ四つ年上に見える。
「何よりもまず、三度の飯よりもサッカーが好きでいろよ、って俺は言いたくって仕方がないんだけどね。事実、俺ずっとそうだったし。教科書なんかどれもこれも対戦相手のデータの復習だらけで見られたもんじゃないぜ、国語だろうが算数だろうが。そーゆーのが、今のうちの少年サッカーチームにはないんだよ」
おぼろげに覚えている。
正臣は本当にサッカーのことでいつも頭がいっぱいだった。給食の時間に続く昼休みの時間を少しでも早く確保するために、給食は最初の五分、時には三分で全部平らげていた。体育の時間に規定の授業が自由になると、まず何がなんでもサッカーをやりたがり、教室にいなければならない自習の時間までともすればグラウンドに下りたがった。
僕たちはそんな正臣が楽しかった。正臣も、サッカーにイカれた自分が楽しくて仕方がないようだった。誰よりも速く駆けて、誰よりも上手にボールを操り、誰よりも俊敏に仲間にパスを回し、誰よりも鋭くゴールする。
十一人でやるサッカーに、そんなに自分ばっかり一番でいなきゃいけない理由がどこにあるのか、と聞いたら、あの少年の自分の彼はこう笑っていた。
――だってさ、俺も仲間もプレーの一番に信頼があるし、そうじゃなきゃチームワークが大事なサッカーってとてもやってけないだろ?
「だってさ、俺もあの子たちもプレーの一番に信頼があるべきだと思うし、そうじゃなきゃチームワークが大事なサッカーってとてもやってけないだろ?」
同じ意味を、少しだけ言葉を変えて彼は今日も言った。少しだけ浮かべた笑みが、大人の微笑みだと僕は思った。
僕は青いシャーペンを取り出した。
「これさ、覚えてる?」
「……なんだっけ?」
「小学校のとき、正臣に貰ったよ僕」
「そんなことあったっけな?」
「うん。これは妖精が――いや、覚えてるかなって、探してきたんだ。もしよかったら、景気づけっていうか、これからもっと正臣が元気になりますようにって意味で、返すよ」
僕は正臣がうんともああとも言わないうちに、その「kick star☆」を彼に押し付けて席を立った。
「鶏のつくね、美味しかったよ。今日の用事はそれだけだから。正臣今度また飲もうや」