第三 冷たい牛乳とよだれと午睡
帰宅した頃には、もう西に傾いた夕陽があらゆるものに長い影を与えて沈もうとしていた。乾いて暖かなオレンジ色の夕風が、開いた窓から緩やかに家の中に吹き込んでいた。秋の夕風は、僕はとても好きだ。
その風に銀髪を揺らしながら、窓際に腰掛けた狩穂がうたた寝をしていた。風は吹き止まず、けれど起こさずに、姉の傍を通り過ぎていく。
つけっぱなしのオーディオからはワーグナーが低く流れていた。女でワーグナー好きとは珍しい、と、誰かが感想を漏らしたことを思い出す。モーツァルトやショパンあたりを楽しそうに聴くのが女の子らしいのに、と僕も思う。でも、ワーグナーを聴きながら寝てしまうのも、伏せた顔の下にあるのがシュトルムの研究書物であることも、狩穂らしいといえば狩穂らしい。
狩穂はアルビノとして生まれた。先天性色素欠乏症、という、フィクションの世界ではおなじみの珍しい肉体の持ち主だ。全身の色素が薄くて、体毛が生まれつき白かそれに程近いプラチナか、銀。メラニン色素が存在できないので、従って目の虹彩も黒ではなくて赤い。そしてこのアルビノは、多くが視覚障害やどこかに病を持っていて、皮膚ガンの危険性を常に帯びている。
ところが、狩穂は知る限り何の障害も持って生まれてこなかった。むしろ僕よりも体力があり、念のため夏の屋外での長期外出などを避ける以外はそれらしい振る舞いはせず、有り余る運動神経で学生時代はスポーツ万能の銀髪女として恐れられた。
男という生き物は、女がやたら強い態度でいるとみっともないほど隷属する習性がある。そして情けないほどに媚びるものだが、狩穂は、自分の傍に人が大勢いるのをあまり好まなかった。それは女でも男でも同じだった。だからしょっちゅう、狩穂は一人で楽しげに行動していた。
「あたし、他人の視線に過敏なんだよね」
昔何かのついでに珍しくそんな本音を吐いたのを、思い出す。どういうこと、と僕が聞くと狩穂は荒々しく笑って続けた。
「中学進学のとき、髪を黒に染めろって学校から言われてさ。それも、入学初日に。あたしの髪黒く生えてこないのを資料で入学前から知ってて、わざわざそんなこと言うんだよねえ、クラスのみんなの前でさ。あー、これはあたしこれからグレるかもしれない子らのためにこうやって見せしめにされてるんだな、と思ったら、死んでも言うこと聞いてやるもんかって絶対染めなかった。その代わり勉強は教師に文句言わせないように頑張ったけど」
そんな目で見られるのがイヤだったんだ、と狩穂は笑う。羨望や奇異なものを見る目は慣れても、何をやっても憎しみや軽蔑や怒りの眼差しを向けてくる人間にはただもう笑うしかない、という意味での笑いだ。狩穂の笑いは、そういう意味も含んでいて、だからこそ並の男は存在がかすんでしまうし、姉はますます逞しく男気に溢れる態度になっていく。
「おーい、まだ陽は強いからこんなとこで寝てんなよ」
僕は耳元に口を近づけて言う。姉はウサギのように赤い目を開くとしばらく焦点の合わない呆けた眼差しをどこか壁のあたりに投げていたが、ひっかけていた薄いストールを纏いなおすと、頭を起こした。
「ねえ、あの耳が四つあるウサギ、ちゃんと牛乳持ってきてくれてる?」
……僕は、何を言われたか分からなくて、今日の深夜アニメにそんなのあっただろうかと必死で新聞のテレビ欄を思い出そうとした。
「今日は『天女五人』の二期が始まるくらいしかいいのないよ。ウサギってあれに出てこないだろ」
「何言ってんの。牛乳持ってきてっての、言うこと聞いてるかって聞いてんだけど」
「いやだから、ウサギに耳は四つもありません」
「牛乳だよ、もう」
話がまったく通じない。
僕は姉が面倒くさそうに指差した先を見て、おや、と眉を上げた。
部屋の隅の机の上に、姉が好きなモーモー北海道というブランドの牛乳が置いてあった。それも触るとまだ冷たい。紙パックも少しだけ汗をかいた状態だ。僕が帰ってくる少し前にここにぽんと誰かが放ったのだ。
もしかして姉のくだらない一人芝居かな、とは真っ先に思った。でも姉は僕がさっき起こす前、そして起こした直後を考えるとそんなに狂言を回すようなことはしていない。第一、開きっぱなしのシュトルムの研究書の上には水溜り――よだれだ、ホルスタインさながらの。そして姉は今頃その事実に気が付いて急に金切り声を上げた。
「四つ耳のウサギがさ。突然現れたんだよね」
腕組みをした狩穂の渋い顔。眉間に皺が寄ると、姉の場合は特に酷くそれが深く刻まれるので、美容のためにもあんまりしかめ面はしないほうがいいとはいつも僕は思う。
「耳が四つってどんなお化けですか姉上」
「お化けの癖に小人サイズだから、もうどうしようもないわけよ。それがね、一セットは長いウサギの耳なんだけど、もう一セットはクマみたいな丸い耳なんだよ。でー、身体はテディベアみたいなふわふわもこもこの真っ白で、最初背中の部分になんかのでっぱりが引っ付いてると思ったのは、黒い、カラスみたいな羽だった。左側に片方だけついてんの」
狩穂は、上手とは言えないイラストを広告の裏に描きながら説明する。つるつるしたコート紙のせいで鉛筆が滑って灰色の発色になっていて、目にもあまり素晴らしくは映らない。
「大きさは?」
僕は気乗りのしない顔で聞く。狩穂は両手で水をすくうようなマネをした。
「これに乗っかるくらい」
「あー、小人さんだな、よし分かった今晩は二人でネットで精神科の調査だ」
「適当な年号と地域名言ってみな、わが弟よ」
「……1453年、フランス或いはイギリス」
「百年戦争の終結」
「姉上は正常でしたごめんなさい」
僕は即座に頭を下げる。こういう訓練は家庭の中で本来繰り返し鍛えられる――のだが、姉の記憶力と姉の認識力の異常ってもしかして何の関係もなくないか?
「現に僕は見てないし、信じろって言われてもそりゃ無理だってもんだよ」
僕は無駄な抵抗を試みた。姉は思った通り知らない振りをした。
狩穂は、そのデタラメな容姿の小人だかぬいぐるみだか知らない生き物を発見直後からいろんな用事を言いつけてこき使い、僕がアキバで駆けずりまわっていた頃、優雅なシエスタに突入したらしい。確かにやたらに冷えていた牛乳とだらしないよだれの跡は、狩穂以外の何かがここにいたことの証明だ。
「……姉上、も、もしかしてあなたは彼氏でもご紹介したいのでしょうか……」
僕はおずおずと言った。回りくどいけれども、もしかしたらそういうことなのかもしれない。家にウサギだかクマだか知らないけど隠しているのか、と。きっと家庭的で平和な人に違いない。うん、きっとそうだ。
だが、僕のこの絶望的な気遣いを、狩穂はあっさりノーカウントにしてしまった。
「彼氏? あー、男なんか面倒くさいわあ」