第二 ホーリー・アニマルズ
学内の空気は、日に日に薄く淡くなっていく。息が出来ないほどではないけれども、強い興味も関心も沸き起こらない。ああ、あと半年もすれば卒業なんだ、と僕は、そろそろ真面目に取り掛からなければならない卒論のことで暗い気持ちになった。変人で知られる担当の教授は自分の研究が今山場らしく、卒業生も院生すらも放り出してどこかに雲隠れしてしまった。本当に半年後卒論に目を通してくれるかどうかもちょっと怪しい。
学内を暇そうにぶらついているのは僕だけじゃなくて、親友の時和もそんな感じだった。講義室の最後列に腰掛けると、長机一本を占領して、今日はパソコン雑誌やどこかのサイトからダウンロードした資料をクリップで留めてあれこれ眺めている。
「どうしたんだ、結構な店開きだな」
「うん。これから秋葉行って新品のハニーを購入する予定」
「また買うのかよ、何代目?」
「稼動してるのは六台かな。今度のはサブのデスクトップ……」
「時和閣下の部屋はジャングル過ぎてもう新しい猛獣は入りきれないことだと思いますが」
「猛獣言うな、愛しいハニーだぞ」
愛しいハニーとかいう感性を、どうやったらこの液晶と文字盤とそっけない四角い箱から考えだせるのか、どうしても僕はわからない。時和はびっくりするほど男っぽいでかくて毛深い手で、しかし何度見ても慣れないほどに美しく整った字でもって資料に思いついたことを書き込んでいく。
時和宅のパソコン部屋は、僕はジャングルと呼んでいるし彼もそれを気に入ってくれているが、正直なところなぜ六畳間にパソコンを五台も置けているのかよく理解できない。これに精巧なフィギュアを数十体収めたガラスのショーケース、背の高い本棚、加えてベッドに冬場はコタツまで出せる。更に、そのベッドやコタツ布団は内側からダストを吸収するとかいう謎な布団カバーやらシーツやらを利用しているので寝ても殆ど埃が立たない。
この部屋に唯一見当たらないのは所謂タンスの類で、着替えは埃が立つからとの理由で服部屋を隣りに作ってあるとのことだった。つまり、時和はやたらに清潔好きな男でもあった。目をつけた機械はハニーと平気で言うけれども、生身の女はそんな具合だから当分必要はないんだろうな、と僕は思う。
「ダメだどーしても絞りきれん、今日キヨって午後暇?」
「ああ……、まあね」
「カレーおごっちゃるからアキバついてこね?」
ついてこね? という誘いで僕が断りきれたことは一度もない。時和は秋葉原にしょっちゅう出入りしているせいで、僕の気に入ったものを格安な値段で探してきてくれる名人でもあり、連れまわしてくれるとなるといつのまにか候補リストなんてものを作っていて、あちこちで「これ要る? いらね?」と聞いてくる。僕はさほど金を持ってついていくわけでもないし、時和は購入を無理強いしたりはしない。ただ、欲しいと思っているのになかなかないものを、しかも好みに合う手ごろな値段で探し出してくれる友は、校内を探しても多分彼のほかには一人もいない。
時和は僕のアキバ素人なところが気に入るらしく、時々直感で物を選ばせることに楽しみを見出しているらしい。この携帯、白と青、どっちにする? はあ、白? いやこれ地味だし、あーでもこのデザインだと色味強いほうが服とか選ぶか、よし分かったキヨの言うとおりにする。……みたいなことも実際よくある。僕はこんなときメカの機能の話は一切しない。
そんなわけで、親友とは常にwin-winな関係でなければならないというのが、僕の信条のひとつでもあったりするのだ。
電車の音と、微かな潮の香りと、車と人のざわめき。万世橋ってのはいつもそんなものに彩られている。時々現れるメイドカフェの女の子たちも今日は見ない。
僕らは、意外と手に持つものも少なくして橋の脇にあるベンチに腰をかけていた。陽は翳ったところで、暑くもなく寒くもない。目の前を中東人らしい濃い顔立ちの男のグループが通り過ぎる。彼らはどれも両手に戦利品を持っていて、声が弾んで楽しそうだ。
「カレーはまた今度でいいよ」
遠くに見える巨大な電光掲示板に目を細めながら、僕は言う。隣りの時和はうなだれた横顔を隠せない。
「アキバ中探しても手に入らないなんて」
「運が悪かっただけだって、気にするなよ」
「いや気にする。デスクトップだからって俺が甘く見すぎたんだよ」
「何が原因だったか分かる?」
「多分プレミアだろうな……HAの」
エイチエー、と言って、何かの疲れたシャレのつもりか、はああ、と大袈裟にため息をつく。エイチエー? と、僕は聞き返す。
「ネットで先行情報が一昨日流れたんだよ。売り出し直前だからもう爆弾発言みたいなもんだな。ホーリー・アニマルズって覚えてるか? あー、キヨは知らないかもな、あれは俺らが小学三年生の頃くらいに、幼女向けのオモチャとして売りに出されていたから」
「うん、知らない」
僕は首肯した。
時和の話だと、そのホーリー・アニマルズは、『聖なるペット』みたいな架空の動物という外見だ。ユーザーのプログラムで鳴き声も話し声も設定でき、上手いプログラムさえ組めば擬似対話すら可能という、いわば小さなロボット。容姿は、あるものは犬の容姿に白鳥の翼と猫の尻尾、体毛はピンクとかいうもの、あるものはウサギの頭に猫の身体、狐の尻尾、体毛は青とかいうもの。パーツも細かいものは別売りで、翼の数を四枚や六枚に増やすことも可能だし、ペット服もアクセサリーすらも作られている。――そして、購入時は十五センチほどの箱に収められていて、基本スタイルは全長十二センチで一体六万円。
とても、学童未満の年齢の女の子の親全員が簡単に手に入れられるものではない。
こうして、初期のメインターゲットへの市場アピールは大失敗に終わったが、このHA、ホーリー・アニマルズは、一部の大人マニア層に熱狂的な支持を広げた。製造元の萇苑はこのとき荒稼ぎの果てに、三年で大規模な脱税事件を起こして製造を終了するまで殆ど人気を落とすことはなかった。
「HAのマニア層がそれだけパソコン購入層に食い込んでるなんて調査不足だった」
デスクトップパソコンの売り上げを伸ばそうと、メーカーが伝のあった瀕死の萇苑にメインキャラのイラストを依頼した。これに萇苑は一も二もなく飛びついた。肝心の絵というのはどこに描かれたかというと、なんと外側からはまったく確認できない内部部品だ。パソコンを自分で弄ったり改造したりする人間にしか用のない空間に、こっそりとそのレアイラストは描かれたというのだ。
「せめてイラストの作者が別の人だったらよかったんだけどねえ」
キャラクターデザインを担当した人物はデザイナー兼漫画家で、こちらもかなり有名だ。
時和は普段から言う。金なんかどうとでもなる、世の中の勝者ってのは溢れるほどの時間を湯水のように使える人間だ、と。問題の勝者というのは翌日が平日であることも厭わず深夜からゲームソフトを買うために並んだり、オリンピックや世界陸上をぶっ通しで観戦しに海外に行ける人間なのだ、と。
「……別に、HAのファンだけとは限らないだろ」
「もう言わないでくれよ、余計気が滅入る」
時和はうなだれを隠せない。
そんな時だった。虚ろだった時和の目が急にしっかりした。なんだろうと僕は視線の先を見る。一台の車の前で、カップルが口論をしていた。買いすぎたとかなんだとか、穏やかではない。男はただ焦り気味に反論しているだけだったが、女の方は相当腹を立てているらしく、トランクを開けて中のものを掻き出している。
その中のひとつの箱に時和の目は釘付けになったのだ。
「あのう」
僕が確認するまでもなく、時和は無遠慮にカップルに近づいていた。男ではなく、興奮している女のほうに。そして箱を見て何事か話しあっているようだったが、一分ほどして財布を取り出した。
「ありがとう、本当に」
……路上で交渉が成立したことを僕は知った。ああ、ここはどこだろう。太古の日本で行われていた物々交換の様子さながらの、あまりにもあっさりとした取引だった。
やはり天動説は嘘っぱちなのかもしれない。僕は天を仰いだ。
箱の重さを慎重に測っていた時和は、納得したように僕に指図して、集配業者を捕まえてくるように言う。僕はそれに従って動き、近場を回っていたお兄さんを無理に引っ張ってくる。時和はお兄さんに、何か悪いものでも食べたんじゃないかと思うくらいの満面の笑顔で何度も頭を下げて、自宅への配送手続きをお願いする。
ケンカしているカップルは、車ごと、もういつの間にかいない。ちゃんと仲直りできたのだろうか。いや、残念ながら出来てないからこうして時和のお目当てのデスクトップパソコンを手に、彼は今自宅への配送書類を書いていられるのだ。
パソコン大好きな人間しか見ないような内部部品に描かれた、ホーリー・アニマルズのイラスト。時和はこれにはまったく興味はない。興味があるのは――実のところ、むしろ僕のほうかもしれない。
僕は時和の話を聞いて思い出したのだった。
子供の頃、金持ちの祖父が僕にくれたあの十五センチほどの箱。あの中に入っていたのは十二センチほどの、やたら喋る変なキメラのぬいぐるみだったことを。