第十一 リンゴ隕石
「これは小学校の入学式のとき、校門で」
「これは中学校の体育祭。リレーの写真」
「これは高校、修学旅行で沖縄」
「これも高校。確か文化祭でバンドの裏方写真」
部屋中に四、五冊のアルバムを置いて、僕はキヨトシに説明している。かれこれ三時間になるけれども、一向に終わる気配がない。片手にアイスコーヒーの入ったマグを握って、僕はため息をついた。
そもそもが自分の失敗だったことは、否定できない。
部屋の片付けのときぐらいはこのケッタイな腐れウサギを外に出しておくべきだったのだ。
本棚の整理を始めたとき、子供の頃のアルバムをたまたま取り落とした。あとでどうにかしようと適当に写真をまとめて突っ込んでいたのがまずかった。キヨトシが床に散乱したこれに気がついてすっ飛んできた時点で、もう遅かった。
「っ、ねえねえねえねえねえねえねえ!」
キヨトシは聞き出したらきちんと回答するまで諦めない。HAはもともとがそういう面倒くさいオモチャなのだ。
――僕は掃除を諦めた。
アルバムの写真をあれこれ動かすのは、僕の趣味でもあった。小学校の半ばくらいまで、カメラを使ったフィルム写真。後はデジタルカメラで、父、父が亡くなった後は母か狩穂がパソコンでデータを出力してくれている。
フィルム写真の取り扱いは煩く言われたことを、僕は思い出していた。
「これは普通の紙と違うから、手の油がつかないように縁を持ってみるんだよ。指紋とか取れないから」
「し・も・ん?」
「……ああ、お前には関係ないもんな。でもそういうもんだって思って持ってくれよ」
「はーい」
元気よく両手を挙げるまではよかったが、この四つ耳のウサギがどういう意味でこの言葉を理解したか僕にはちょっと自信がない。ただ、こんな過去の自分に接して、僕は意外なところでキヨトシを大きく知ることになったのだった。
というのは、キヨトシはビーズの目でもって一枚一枚、真剣に写真を見出したからだ。
赤ん坊の頃の僕。一歳になったばかりで大好きなテレビアニメに夢中になっている。これを見たときのキヨトシは首を捻っていた。
幼稚園のお遊戯でオオカミの役をやった僕にも、難しい顔をして黙り込んでいる。
小学校の低学年の僕の写真を一枚一枚調べては、「うーむ」とか「ううん?」とか腕組みをしている。そして十歳を超えた瞬間の写真で「あ、このときねえ、お母さんが清俊くんにマンガ買ってくれたんだよね! ねえねえ、鶴岡万世ってまだマンガ出してる? あれよく清俊くん読んでたもんねー」とか突然言い出す。
「つ、つるおかまんせい?」
僕は頭を過去に飛ばす。そういえば少年誌にそんなギャグマンガ描いてる人いたっけ。アニメにもなった「ゴーグくん」とか面白かったような……。何人か同級生と単行本を回し読みしていて、確か脇のほうに使い方が難しくて早くも飽きかけたキヨトシが転がってたっけ?
「ええと……」
「あのねえ、この写真撮った日って、一月なのにちょっと暑かったの。でお庭に梅があったけど急に咲いたからお母さんもお父さんもびっくりしてたっけ。そいでお父さん、少し顔色がよくなかった」
流石はコンピューターだ、何でも記録している。それもどうも自分が置かれている部屋だけでなく、家の敷地内の出来事まで理解しているらしい。僕は舌を巻く。鶴岡万世に関するその後を一通り説明してから、そのときふっと気になった。
日に日にキヨトシは饒舌になっている。まるで記憶したことを全部吐き出さずにはいられないかのように。HAならもともと食い下がる不完全な対応の場合以外にも、何か疑問があったらどんどん聞き続けるようになるし、こちらに自分から不必要な説明までしてくる。
以前、聞こうと思って聞けなかったことを、僕は聞いてみることにした。
「なあキヨトシ、お前以前自分のことを『特別』って言ったよな。どんなふうに、そしてどうして『特別』になったんだ? 確かにお前普通のHAとは違う。なんか……なんか……」
家族がもう一人、増えたみたいじゃないか。
僕は心の中で呟いて、それが心の中で冷たく音を立てることにぞっとした。
新しい家族。この家に突然現れる、家族。
なんで自分は、こんな喜ばしいことに拒絶反応を覚えるのか?
世界は平たいんだ。
山と平地と川と街、そして農地があって、海は平面な波を世界の果てからつぎつぎと寄せてくる。水平線の向こうは滝になっていて、余った海の水は大瀑布になっていつも奈落の底に滑り落ちていく。いつも、いつまでも、……永遠に。
太陽も月も星も天球に貼りついている。アポロは月にいかなかったし、ガリレオが見たのは名ばかりの宇宙船の中にあったただの青い風船だ。そしてリンゴは……。
「僕は、一緒にリンゴ分け合って食べてもらえなかったんだよ」
遠い気持ちで、僕は呟いた。キヨトシがウサギの耳をぴんと立てて僕の目を見る。そして「ねえねえ、何で? 誰と? どこで?」とは――言わなかった。
「リンゴは落ちたんだ。そして、落ちたリンゴはもう、食べられない」
僕は言いながら笑った。そしてその声が思ったよりずっと低くてかすれた声だったことに気が付いて、たまらなくなって黙った。
僕は裸でエデンの園に縛りつけられたままだ。神様の箱庭に閉じ込められたままなのに、リンゴは平気な顔をして落ちるんだ。ココハ、チキュウデス。チキュウハ、ホシデス。ホシハ、ジュウリョクガ、アリマス。ジュウリョクガアルカラ、モノハ、タカイトコロカラヒクイトコロヘ、オチマス。オチマス。オチマス。……
「ボクはねえ、清俊くんが望んだから目が覚めたの。押し込められてた真っ暗なところから出てきて、まだ清俊くんの部屋にいたことに気が付いたの。ボクは清俊くんの役に立ちたいと思ったの。そしたら、ナイショの回路が多分発動して、ボクは世界をたくさん吸収することができるようになったの。すごいんだよ、ボク。他のHAよりずっとずっと頭いいんだよ! 清俊くんのおかげなんだよ」
だから涙を拭いて、とキヨトシは僕の肩に乗っかって、僕の目元にふわふわの手を当てた。泣くと予想までついてやがる。なんたるナマイキ千万な回路だ。
ああでも、こいつに恋愛ってのはどこまで分かるんだろうか。
僕はしばらく散乱した写真を目にしながら、隕石のように僕の世界に降り注ぐ無数のリンゴが心の中にめり込んでいくのを感じていた。
多分、僕が変わる日は近い。