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第十 夏送り

 縁側は、まだ夕の熱を残して空気がぬるい。

 サッシを開け放って、もうだいぶ涼しくなった風を入れる。鈴虫の声が庭で聞こえる。

「もうしばらくしたら、夜に窓なんか開けられない季節が来るな」

 僕は呟くと、台所に振り向く。

「どうしようか、蚊取り線香要る?」

 要らないよ、と狩穂の声が返ってくる。そうか、と僕は縁側に置いたままのゴムサンダルに足を下ろす。

 洗濯物干しにしか使わないこの安っぽい履物は、少し小さい。狩穂は身長が一六八センチと比較的大柄で、十センチしか差がない僕とはそんなに足の大きさは違わないはずだけれども、気のせいか年々、身につけるもの全般のサイズが違ってきてしまっている気がする。

 横にちょこちょことキヨトシがやってきた。持っているのはペンライトサイズの懐中電灯と濡れ雑巾だ。

「……濡れ雑巾?」

「あと、大物持ってくるから、清敏くんはこれで上がり口拭いておいてね。それから庭の蛇口でバケツに水入れてって」

「うん」

 僕は立ち上がると、横に置いてあった古ぼけた青いバケツを持ち、庭の隅の水道に向かう。盛んだった鈴虫の鳴き声が、近づくと急に止む。水音を聞きながら空を仰ぐと、秋の満天の、けれど少し寂しい星空に気付く。

 木枯らしが吹くまで、遅くともあと二ヶ月くらいか。バカバカしいクリスマスはその一ヶ月後に来る。でも今は夏が踊り疲れた様子で昼間だけ居座っていて、秋はそれに苛立っている。そしてある日突然、夏はどこからも消えてしまう。

 晩夏初秋って、そういう中途半端な時期なんだよなあ。

 バケツに水が溜まると、僕はそれを持って縁側の飛び石まで引き返す。台所から薄暗い廊下をやってくるのはなんだろうと思うと、二十五センチ直径の丸盆だ。上には切ったスイカと種を入れる小皿が二枚。それでそのスイカ盆は床上十二センチを低空飛行していて、僕の横で浮いたままぴたりと止まり、それから十秒間くらい右にも左にも動こうとしない。

「おい」

 僕が言うと、停止したままの丸盆の下から、遠慮がちに「はい……」という声が聞こえる。

「後先考えてからもの運べよな、インディペンデンスデイごっこかよ。盆の真下に入り込んだはいいけど、この重量でお前、どうやってこれ下ろす気だったんだよ」

 僕はひょいと丸盆を取り上げる。下で返事をしたのはキヨトシ。物理的法則を超自然的というよりむしろデタラメな力でフォローするにも限度というものがある。そもそも、HAってのは物理学というものに関心はないのだろうか?

 狩穂がビニール袋とマッチの箱を持って登場する。

「じゃあ納涼花火大会を始めましょうか」

 やけに落ち着いた声だ。うん、と僕はマッチを片手に早速ビニールの中を漁った。五本セットの小束が二十くらいある、花火だ。

「……よくこれだけ集められたな」

「半月前くらいに、雑貨屋の売れ残りセールを狙った、偉いだろ」

 嬉しそうに狩穂は笑って、懐中電灯をつけた。あ、そうだ、と僕はキヨトシに言った。

「お前火の近くには近づくなよ。花火は少し離れて見てろ」

「どうして?」

「火の粉でも身体に点いたらあっという間に火事になっちゃうからな。お前のふわふわの身体ってウレタンとかそういうのだろ。しかも中身はコンピューターだから、水被らせるわけにもいかないし」

 はあい、とキヨトシは素直に引き下がった。と思ったら、僕の肩に乗ってくる。

「……そんなに花火見たいのか? 線香花火だぞ?」

「うん!」

 隣りでは狩穂がマッチに火を点けていた。

「今の子供ってさ、マッチの擦り方知らないんだってさ。で、それにびっくりしてたら、ライターもろくに点けられないっていう。禁煙者増えたしねえ」

「へえ。そんなこと言ってたんだ? ダレ情報?」

「こないだ世話になった神楽町さん情報。ボーイスカウトで指導してるんだって」

 なるほど、だから突然のトラブルにも的確に対処できて、面倒見もいいのか。僕は腹の中で口笛を吹きたい気持ちに狩られた。じゃあ、キャンプで飯盒炊爨はんごうすいさんもできてないのか。こんな調子じゃ、例えばお墓参りとかそういう子はどうするつもりなんだろう。

 マッチの火を花火の黒い先端に触れさせる。炎の赤い舌がちろちろっと少し反応したかと思うと、もう煙を上げながら火薬は光を吐き出し始めた。

「うわあ!」

 僕の背中で歓声が上がる。キヨトシは遠慮なく身を乗り出して――しかし転落防止に僕の耳を引っ張りながら--花火に見入っているらしい。興奮でもしているのか、身体をゆすりながら奇声さながらの感想を言い出す。

「ねえねえ、パッとしててすぐ消えて、音が出て、また次の火が出て、煙が出て、また火が出て、これ何? ねえ、面白くてきれい! すごいすごい、なんでこんなのあるの? 火を点けたら普通わーって燃えて終わりでしょ? 終わりじゃないの?」

 ピグミーマーモセットだよなお前は、と言いたくなる言葉を僕はぐっと押し込んだ。あまりこいつに新しい言葉を覚えさせないほうがいい。何それ何それ、どういう意味? 教えて教えて、としつこく聞くに決まってる。

「楽しいだろ」

 僕は笑ってスイカに手を伸ばした。狩穂も自分用の小皿に今、スイカの種を吐き出したところだ。

「こういう家庭用花火とかってさ、普通もっと夏の暑い時期にやるんだけど、うちはいつも今の時期だよね。納涼花火大会って言うよりも、夏送りの花火」

「夏送り?」

「うん。うちの田舎がそういう風習があってね。打ち上げ花火みたいな派手なのじゃなくて、なるべく音も光も出ない、線香花火でやるんだ。盆に帰ってきた後、何か未練か問題が起きたかであの世に戻れなくなった先祖の霊を、こうやって送り返してやるんだ。煙の行き着く先があの世で、それを辿ってもらうんだってさ」

「ふーん」

「子供の頃は、アタシも清俊も浴衣にわざわざ着替えて、しまった風鈴とかつけて家族総出でやったもんね。もう今は、姉弟二人で季節遅れの花火大会するだけになっちゃった」

 キヨトシは興味深そうに僕の耳を揺らしている。おおかた大袈裟に頷いているんだろう。

「お前を贈ってくれた祖父ちゃんじゃないほうの祖父母の里だな、正確に言うと母方の祖父母の田舎。何年かおきに夏とか正月に行ってたけど、歴史もあって楽しい場所だったよ」

 僕が続けると、キヨトシは耳打ちするように――でも通常の大きさの声で言った。

「そこって今度、ボクも連れて行ってくれる? 行きたい行きたい!」

「ああ、……しばらく行ってないし。父さん死んでからご無沙汰してたから、じゃあ、今度三人で行くか」

「本当? うわあ、嬉しいな!」

 キヨトシは興奮してぴょんと僕の膝に降り立った。もう花火を何本か手にして火を点けていた僕は慌てた。

「おい、火、気をつけろよ」

「だいじょうぶ、だいじょ……」

 大丈夫と言ったときには手おくれだ、という字あまりの交通安全標語を思い出す。キヨトシの身体に火の粉がついてジリジリジリ……と燃え出した。

 わああ、と僕は叫ぶ。狩穂がさっき床を拭いたばかりの濡れ雑巾をキヨトシにぶつけて、火はすぐに消し止められたけれども、HAの真っ白な身体に三、四箇所黒い焦げ痕が斑点みたいについてちょっと汚らしい。

 焦げたのが惨めだったのか、ご使用済みの濡れ雑巾で消火されたのが惨めだったのか、僕は武士の情けで聞かなかった。でも今度ばかりは堪えたらしく、ピグミーマーモセットなキヨトシはしょげて大人しくなって、これがちょっとかわいそうでもあった。

 花火はまだたくさん残っているので、僕は雰囲気の切り替えがてらに話を切り出した。

「……で、姉上、今日大学で演劇のチケット二枚貰ったんだけど」

「演劇?」

「うん。ジゼルだかコッペリアだかを下敷きした現代喜劇らしい。でも僕は卒論で時間が取れないから、姉上どうだろうか」

「んー、ジゼル……コッペリア……か。ああ、いいけど。でも二枚でしょ?」

「うん。で考えたんだけど、あの神楽町さんでも誘ったらどうだろうか」

「はあ?」

 狩穂は手に持った線香花火を取り落としそうになった。ああ、突飛だなあと僕は反省した。こういうのを狩穂は下手するとすごく嫌がる。どんな善意が篭っていても、人からなんらかの意図でもってお膳立てされるのが大嫌いなのだ。ちなみに僕は今回善意でお膳立てする気はまったくない。

「神楽町さんと半日くらい遊んでたら、その間にこの間のお礼の何かを渡せるでしょ。夕方遅くなると迷惑だろうから、昼間だけつき合ってもらう分には構わないかってさ、ただの取っ掛かりになれば」

 そうだね、と一言だけ返事をしてから狩穂はしばらく黙って線香花火を見つめていた。

 僕も自分の花火を続けた。

 キヨトシは静かに丸盆の奥に引っ込んで、安全圏から花火を見ていた。

 花火をその後三本終わらせたところで、狩穂が口を開いた。

「ほかに何か手があるわけでもないし。神楽町さんってボランティアとか好きだからさ、お礼をそんなに受け取りたがらないタイプなんだ」

 ああ、やっぱり、と僕は心の中でため息をついた。狩穂もあんまり神楽町さんを嫌いではないらしい。ただ、どうにも遠慮の心みたいなのがあるようだ。

「ヨーロッパの舞台とか好きって言ってたから、お礼への餌としては上々かもしれないね」

 狩穂は別の花火にまた火を点ける。一瞬だけの光の花が、闇の中に咲いては散っていく。

 僕は最後のスイカを手にして、しゃくり、と齧った。煙の味と、甘い水分が口の中で絡んで、なんだか変な気持ちだった。

 いいデートになりますように、と僕は心の中で祈った。


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