第一 夢から醒めない。
箱の中には何があるのだろう。
自称箱の主の主張を、本当だと思っていいのか。
そもそも箱は何のためにあったのだろう。
幸福のためか、不幸のためか、パンドラの好奇心のためか。
そんな奇妙な箱は、あなたの心にもありませんか。
いつのクリスマスだったか忘れた。確か、金持ちだった祖父がまだ生きていた頃のことだ。
特別に十時くらいまで起きていていいと言われて、僕は夜更かしにドキドキしながら廊下のツリーを見ていた。大人の背丈ほどもある贅沢な代物で、小さなランプが無数に点滅し、サンタのスノーボールだのトナカイだの綿だのを彩っていて、あたりは全然暗くなかった。
暗くない事情は他にもあって、この長い廊下の両端にクリスマス用の燭台を何対も置いてあり、そこに太く長い蝋燭が整然と灯っていた。廊下の壁は鏡か暗いガラスになっていて、蝋燭の光はそのせいで二倍の明るさになった。僕はほの明るい世界の中で、たった今祖父に貰ったばかりのプレゼントを開けたのだ。
箱は多分一辺十五センチくらいの立方体だったと思う。子供心にも、期待していたゲーム機を梱包した形でないとは思っていた。じゃあなんだ、と、逆に好奇心をそそられたのだと思う。
女の子向けの何かだったのだろう、とは、当時の記憶のままだ。
つまり僕はその箱の中身が何であったかを忘れてしまった。女の子向けの――例えばそれは、美少女の着せ替え人形とか? アンティークドールにしては小さすぎるしインパクトに欠ける。宝石箱のニセモノみたいなものだっただろうか。それもまた違う。
あれこれ考えて結局わからないまま、僕は記憶の箱をそっと閉じて、眠りの世界から現実の世界へのドアを開ける。――
目覚めたくは、なかった。
身体が重い。髪の毛一本の重さすら感じとれるくらいに。空気に色がついて見えるくらいに。光の一射しすらも重さがあるんだとは、カーテンの隙間から漏れ出る光によって分かる。
目覚めたくはなかった。
僕は目だけ動かして時計を見る。七時十分。あと五分で姉の狩穂が二階のこの部屋に上がってくる。朝からがなり声を聞きたくはないんだけれども、どうしても身体が動かない。もぞもぞと布団の中を身じろぎしながら、必死で世界から逃げ出すことを考える。地球は回っているんじゃない、お盆の上に海と大陸が載っていて、海の果ては海水が滝になっていて、そうだ、僕はその永遠の闇に続く大滝に向けて今船出をしなければならないのだ。船、船をチャーターしなければならない。でも、どこで。海に出るには船がいるというのに、こんなところで時間を潰しているわけにはいかないのだ。……
『この人なんだよ』
頭の中に突然、声が湧き出てくる。唐突だ。僕の海水の大滝は瞬く間に消え去った。代わってその声が、いくつもいくつも輪唱のように心の中に広がっていった。この人なんだよ、この人なんだよ、この人なんだよ……。
「そんなのしらねえよ」
僕はたまりかねて呟いて、手で顔を覆った。しらねえよ、そんな奴。ゴミ箱にでも捨てて来い。
その言葉を言えないまま、「あの瞬間」は去ってしまった。彼女の幸せな笑顔とともに。見たこともないほど嬉しそうな顔で、持ってた荷物全部取り落としそうになるくらい、それどころか腕そのものがとろけてどこかに消えてしまいそうになるくらいの、それは極上の。これから天国に飛んでいくの、とでも言いそうな顔で。
「――寝言の時間は過ぎたぞ、清俊」
低い、ざらついた姉の声が突然顔の真上で聞こえた。――ああ、そんな僕は地獄からやってきた鬼の顔を毎朝見ることになっているのだ。観念しながら目を開くと、いつもどおり見事な銀髪をすだれ状に垂らした姉の、猛禽のような色素の薄い双眸が僕を捕らえていた。色素の薄い口元からいつ虎かライオンみたいな牙が覗くか気になる。
――と、僕は次の瞬間、ベッドから転がり落ちていた。さっきまで頭があった枕が、狩穂のストレートをまともに受け止めてへこんでいるのが、体勢のせいで死角からでも分かる。
「あ、アーメン」
僕は十字を切るようにして立ち上がった。と、そのがら空きの腹に姉の脚が突き刺さった。うお……いてえ。
沈み込んだ僕の頭をポンポンはたきながら、頭上で狩穂は軽く笑った。
「だから早起きしてろって毎日言ってるのに、バカな奴」
「くそ……」
「ほら、もう目が覚めただろ。早く降りてきなよ。今日は『リデル』のハムステーキとうずらの目玉焼きだ。味噌汁の具はアオサで、ご飯は麦混ぜ飯だ」
リデルというのは、近所にある肉屋で、自家製のハムが絶品だ。狩穂はメニューを言い終わると満足したように、銀髪を振り乱しながらあっさり部屋の外に出て行った。
僕は、ふう、と息をつく。
寝言をもう一度思い出してみる。悪い癖だ、せっかく狩穂が現実に引き戻してくれたというのに。
あれからもう半年も過ぎているっていうのに、僕はいっこうに自分の現在に慣れていない。沙雪の顔を見ることのない今の自分に。
よく、心の中にぽっかり穴が空くという言い方があるけれども、本当にあれが現実のものになるなんて以前は思ってもいなかった。他のどんな友人の失恋話を聞いても、自分だけはそんなくだらない感傷に浸ることはないなんて高をくくっていた。
それで? ――ああ、そうだ、僕は自分の平凡な弱さを思い知ることになったわけだ。
沙雪は帰ってこない。少なくとも僕の知っている完全フリーの綺麗な姿のままでは。
もう、二度と。
(続く)