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放課後の日陰者たち  作者: YAMAGUCHI
放課後の日陰者たち
5/5

リベンジャー・グリーンハウス

1.伏魔殿の伝説


 夏至近くの夕暮れ終わり、ついに太陽は水平線に接した。

 森の木々は徐々に彩度を黒へと傾けていき、完全なる陰へと変貌を待つかのようだ。

 私の懸念通り、上空では、積乱雲が東からむくむくと増大していき、いまや西の空をも覆いつくさんばかりとなっていた。雨の気配に、空気が湿っぽくなって、踏みしめる葉っぱも、なんだか、しなりとしている気がしてきた。

 そんな風に、頭の中に陰気なイメージばかりが思い浮かぶのはきっと、 

「はーなんで俺なんかがガキのおもりなんかせなきゃならんのだ」

 前を歩いている忌まわしき存在、脇坂のせいに違いない。

 私達は特訓場を降りて、山道を下っていた...なぜか、あのチンピラ刑事脇坂と一緒に。


 樫本の死から三十分後、脇坂刑事は、警察らしき人たちを伴って、ようやく特訓場の原っぱに来た。

 脇坂の容姿は、前と大して変わらない、よれよれのスーツに、クシャクシャの脂ぎった髪だった。

「おおすまんすまん。いやあ、こいつら連れてくるまでに時間かかっちまってよお」

 脇坂は来るなり、後ろの人たちを親指で指しながら、羽毛布団よりも軽いであろう謝罪をした。それから脇坂は、言い訳がましく遅れた理由を話した。彼曰く、後ろの警察の人たちは特異課ではなく、通常の警察組織の人間であり、その派閥の確執やらで、協力が遅れたらしい。

 どうやら、最初の謝罪は、彼らに対する嫌味だったようだ。

 その警察の人たちは、さっそく樫本の死体の前に集まって、捜査を始めていた。その仕事姿は、まさに勤勉そのもので、てきぱきしていて、見ているこっちが息苦しくなるほどだった。

 このきちんとした人たちと、薄汚い脇坂が、同じ組織にいるとはとても信じられなかった。

 せわしなく動く警察の人たちを横目にしながら、私達の方は、ブナの木の下に敷いたレジャーシート上で、脇坂刑事の取り調べを受けることになった。

 そこで私達は、今日起きた出来事についておそるおそる喋っていった。

 それについて、私達が一通り喋り終えると、脇坂はこちらの説明に含まれる疑問点について、鋭く追及してきた。なぜこんなところで特訓なんかしているのか、そもそもどうして秘狂クラブについて知っているのか、等々。

 そこで、秋月は仕方なく、田中周りの話について白状した。

 この話は前回の取り調べで、脇坂には、隠していた部分の話も含まれていた。そのことに、脇坂は、すぐに気づくと、鬼神のごとく怒りだした。

「お前らてんけ(天下がなまったらしい)のケーサツ舐めやがって!いいかあ、そうやって、隠し事ばっかりしてると碌な大人にならねえぞ! おい!目えそらしてんじゃねえぞ!この馬鹿垂れが」

 そこからは前と同じく説教コースに突入だ。なぜだか、話を隠していた秋月だけじゃなくて、無辜の民であるはずの私と洋子にもその怒りは飛び火した。脇坂の声は、とても良く原っぱに響くようで、警察の人たちも、何事かと、時折ちらちらとこちらへと目線を送った。

 そんな晒上げのような、取り調べは、数十分ほどで終わった。

 それから、解放されると、ぐだりとした脱力感が体を覆った。

 すぐ帰って、今日はシャワーを浴びて、ごはん食べて、もう寝てやるんだ。そんなことをやけくそに考えながら、秋月の持ってきたレジャーシートを片付けて、帰宅の準備を進めていると、

「おい、いいかてめえら」

 脇坂は、私達を呼びかけた。ふと、嫌な予感がした。

「帰りは俺が送ることになった。てめえらみたいなのを、放っておくわけにゃいかねえからな」

 そういうことで、せっかくの帰り道は、脇坂同伴の非常に気が重いものとなった。

 そうして、今現在まで、私達は会話なしに、粛々と山を下っていたのだが、その中腹辺りに差し掛かったところで、

「あの、脇坂さん」

 洋子が、意を決したように、前を歩いている脇坂へと話しかけた。

「なんだよ」

 脇坂は前を歩いているので、その顔は見えない。だけど、その声は、とても投げやりで面倒がってることがはっきり分かった。

「単刀直入にお願いします。秘狂クラブについて知ってること教えてください」

「やだね」

 脇坂は切り捨てるように即答した。そして、歩くスピードを少し上げた。

「無理を言っているのは分かっているんです、それでも」

 それに追いすがるように、洋子も歩くスピードをあげる。

「うるせえぞ、てめえ。いいかあ、機密事項なんてもんほいほい、教えられるもんじゃねえんだよ。それにだ。てめえらは、知らねえほうがいい。知りすぎるってのは、危険なだけだ」

「マノンとバンディの襲撃で、わたし達は死にかけたんです。その危険なら、もう晒されてます。だから、知っていること、ほんの少しでもいいんです」

 そうして、洋子は脇坂の前に回って、進路をふさげるように立った。彼女の正面を向いた顔は真剣な仏頂面だった。

「お、おい」

「 脇坂さん、私達の命がかかっているんです。どうかお願いします。教えてください」

 洋子は脇坂の手前で頭を深く下げた。

「そうだ教えろー」

 立ち止まっている脇坂の後ろから、秋月が小声で援護した。

 さっき脇坂にあんなに怒られたのに、ずいぶん余裕ありそうだ。

「はあああ」

 脇坂はどでかいため息をつくと、

「しょうがねえなあ。取り合えずおもて上げろ」

 呆れたように言った。

 洋子はおそるおそる頭を上げた。

 そうすると、脇坂はまた歩き始めたので、私達はあわててそれに続いた。

 脇坂は前を歩きながら、目線も合わせず喋り始めた。

「てめえら、俺を買いかぶりすぎだ。秘狂クラブについて、俺が知っている情報は、ほぼねえと言ってもいい。お前らの方が詳しいぐらいじゃねえか?」

 それを聞いて、肩を落としそうになったけれど、その話には続きがあった。

「ただ、それに関連するかもしれねえ話なら一つ、俺は知ってんだ。耳かっぽじってよく聞けよ...話は去年の11月中旬まで遡る。この街を根城としている、パンデモとかいう、サブいぼが立ちそうな名前の不良グループに、一人のガキが加わったんだ。そいつは、とんでもなく優秀な不良だったみてえで、まっ不良に優秀ってのはおかしな表現だが、ともかく入って3日で、すぐさまパンデモのリーダーになっちまったらしい。そいつは、リーダーになると、そのメンバーの一人を片腕においた新体制でパンデモを指揮を始めたんだ。そっから、パンデモは変わりやがった。より最悪に、より狂気的に、だ。そいつは、パンデモにいたならず者どもを、まるで、訓練された猟犬みてえに、狂暴かつ理性的な化け物にしちまった。それだけじゃねえ、その新体制になってからパンデモは前よりも積極的に犯罪に手を染めるようになりやがった。盗み、ドラッグ、放火、傷害...もしかしたら、見つかってないだけで殺人もやってたかもしれねえな。そんな調子で、パンデモは破竹の勢いで成長して、ついにとんでもねえ事件を起こしやがった」

 脇坂の話は、そのパンデモとやらの活躍に終始していた。今の所、この話のどこが、秘狂クラブに関連するのか見えてこない。それでも、その血なまぐさい不良たちの伝説には不謹慎な魅力があった。

「その事件は、忘れもしねえ1月の28日のことだった。夜も更ける頃に、奴らはこの街にある暴力団事務所を襲撃しちまったんだ。むかつくことに、その襲撃は大成功だった。そいつらは、不良とは思えねえ鮮やかな連携で、あっという間に事務所を制圧して、そこにあったものをごっそり盗んじまったんだ。その後の撤退も見事なもんで、パンデモの奴らは、誰一人欠けずに、隠れ家にしている廃ビルまで素早く逃げおおせちまったらしい。まさに、無駄のない完璧な犯罪...だったんだ。ここまではな」

 ここで、脇坂は一息入れた。

「異常なのはここからだった。そいつらのリーダーと、その片腕は、他のメンバー全員を廃ビルに集めると、信じられねえことに...その仲間を殺し始めたんだ。その二人は、信じられねえことに、ものの5分ほど、自分ら以外のメンバー32人全員が血祭りに上げやがったらしい。その後、そいつと片腕は、すぐさまその場を去っちまったそうだ」

 そんな、身の毛のよだつ虐殺事件が街で起きていたなんて全然知らなかった、なんて思っていたら、

「まってめえらが、この事件について何も知らないのも無理はねえ。何せ、あまりに猟奇的すぎるっていうんで報道規制がかけられたからな」

 脇坂が、補足説明をいれた。その声は、なんだか自慢げで、それについて知っていることに優越感を抱いてるらしかった。

「ねえ脇坂~そのパンデモの話は分かったんだけど、それが秘狂クラブとどう関係するのさ?」

 秋月が果敢に質問を飛ばす。そう、その質問は、さっきから私が抱いていた疑問でもあった。

 その質問に、脇坂は呼び捨て扱いされて、むかついたのか、不満げに答えた。

「関係大ありだ。まだ気づかねえのか?いいか、パンデモのリーダーのそいつは、本当の名前を名乗ることがなかった。だから、パンデモでは、便宜上につけた偽名があったんだ」

 そこまで言われて、私はようやく気づいた。ここまで言われないと、気づかないなんて、私の頭はどうやら、相当鈍いらしい。そう、そいつの名前は... 

「...もう、分かっただろ。そいつに付けられた偽名、それはメフィストだ」

 脇坂は、忌々しそうな調子で言った。

「そういえば片腕の方も、同じような理由で、フィッシュと呼ばれていたらしいが..」

「ちょい待って。今気になったんだけど、なんで、パンデモの事件について、そんなに詳細が分かってるのさ?だって、メンバーが全員死んだんでしょ?」

 秋月は、割り込むようにして、脇坂にまた質問した。

「まてよ、血祭に上げられたとは言ったが、全員死んだなんて一言も言ってねえ。まっ確かに、全員死んでもおかしくねえ虐殺だったが、奇跡的に一人だけ息があって助かった奴がいたんだよ。そいで奴には治療後、すぐに取り調べを受けてもらうことになったんだ。ちなみに、その取り調べは俺がやったぞ。何せ事件が異様すぎて、当時は特異課の管轄だったからな」

 その生き残った人に、私は少し同情した。よりにもよって、取り調べの相手が脇坂なのは、可哀そうだ。

「そして、俺が奴から苦労して聞きだしたのが、一連の事件の出来事と、その暴力団から盗んだアッシュのことだったんだよ。アッシュ、てめえなら知ってるだろ?」

 脇坂は、振り向いて、秋月の方をちらと見た。

「アッシュ?」

 対して、ぽかんとした表情で秋月は首を傾げた。

「てめーは、伏見んとこのガキなのに知らねーのかよ。はああ、アッシュ、ってのはなあ、知らねえてめえらに簡単に説明すると、服用した奴を日陰者に変えちまう粉のことだ」

 前から、日陰者がどうやって増えているか疑問だったけれど、まさか、そんな代物があるとは。

「アッシュを独占して使うがためにメフィストとフィッシュの野郎どもは、暴力団への襲撃と、仲間の虐殺をしたに違いねえ。あれにゃそれだけの価値があるからな。それに、そのアッシュ盗難後から、この街で日陰者が異常なペースで増え始めやがったんだ。そうなりゃ、日陰者の力を手に入れて暴れ出す奴ってのも出てくる。そいつらを、とっ捕まえて話を聞いてみれば、どいつもこいつも"悪魔と名乗る男にこの力を貰った"と口をそろえて言いやがる。その悪魔ってのは、おそらくメフィストが名乗っているに違いねえ。メフィストは、伝説上の悪魔の名前だからな。そう、そのメフィストの野郎は、アッシュを使って、この街を混乱に陥れてやがるんだ。ったく、俺たちの仕事はそのせいで増える一方だ」

 そこで脇坂はふう、とまた一息つくと、右手を額に押し当てた。

「そう、そのアッシュについて、一つ引っかかることがあるんだ。さっき言ってた、その生き残りの馬鹿野郎がアッシュについて、最後にとんでもねえことを言ってたんだ。"アッシュには、もう一つ別の使い方がある"ってな」

 最後に?...だったら...

「じゃあ、その彼っていうのは..」

「お察しの通り、自殺しちまった。ボールペンで自分の喉を刺してな」

 脇坂の声は夕闇に染み入るように響くようだった。

「まあ、俺が知ってんのはそれぐれえだ。下っ端のペーペーが知ってる情報なんて、大した事ねえだろ?」

 脇坂は、そう言って話を締めた。

「そんなこと、ないです。ありがとうございます」

 前を向いたままの脇坂の背に、洋子は頭を下げた。こういう所は、洋子はすごく律儀だ。

 その礼を黙って受け取ったのか、それとも気にしていないのか、脇坂は変わらず、私達の前を歩いていた。

「そんなこんな話してるうちに、ようやく山門まで来てたみてえだ」

 脇坂の言う通り、特訓場に来るときにも通った山門が正面に見えてきた。

 そこまで来ると、もう山の下部分で、傾斜もなだらかで、道も真っすぐになっている。

 前を歩いていた脇坂刑事その、しゃく、しゃくと落ち葉を踏みしめていた足がふいに止まった。

 どうしたんだろう?

「山門に、誰かいやがる」

 脇坂刑事は硬い声で、言った。 その直後、首の後ろに、ちょん、と何かが触れたような感覚がした。

 右手を首の後ろへと回す。

 触れたそれは、小さな水滴だった。

 ついに、雨が降り始めた。


2.温室育ちの復讐者リベンジャー・グリーンハウス


 最初は、ぽつり、ぽつりと、降っていたその雨は、すぐに、ざあと強く地面を叩き始めるほどの土砂降りへと変貌した。

 少し遅い夕立は、私の視界を邪魔する流れ星になった。その覆われた視界から、山門を睨むと、確かに脇坂の言う通り、そこにぽつりと人影ひとつあった。

 その陰は、まだ積乱雲に覆われていない淡青である西の空を背景にして、きっかりと浮かび上がっている。その姿は、影絵のように黒一色だった。背丈や体格からして、どうやら大人の男性らしい。

 そして、その黒き人は、どうやら私達をじっと見ているらしかった。

 しばらく、私達と陰は、どちらも動かない、睨み合いの状態になった。

 その間も、どしゃぶりの雨は私達を打ち続けた。

 雨は着実に、私の体温を奪っていって、お腹に溜まるような緊張を増大させる手助けをしていた。

 先に動いたのは、陰の方からだった。

 その陰は、山門から私達のほうへ、ゆったりと歩き出た。

 山門の闇の中から出てきたことで、まだ薄暗くはあるものの、その容姿がぼんやりと見えてきた。

 陰だったその人物は、身なりの整った老年の男だった。髪はワックスによって後方に撫でつけられていて、少し気品を感じさせる。着ている服は、仕立ての良い真っ黒いスーツ...じゃない、なぜか喪服を着ていた。靴もそれに合わせたのか、シンプルな黒のプレーントゥだ。

 その老年の男は、私達を沈痛な面持ちで、見据えていた。

 私は、なぜだかその人物を知っているような気がした。

 いつも身近にいて、それでいて一応知ってはいるけど、影の薄い人物。そこまでは、思い出せるのに、肝心の誰かは出てこない。

 誰だっけ。出てこないんだよなー。

「あの人、うちの校長先生だ」

 ぽつりと言った洋子の声で、底の方に溜まっていた記憶と、目の前の人物がようやく結びついた。

 校長!そうだ。うちの校長じゃん。でも、なんでこんなところに?

 そう驚いている間に、校長は、山門を背に、再び動きを止めた。

 あれ?

 その校長を見ていると、はっきりと違和を感じた。

 上手く言えないけど、校長と現実が連続していないような不自然さとでも言えばいいのだろうか?、そうまるで黒い切り絵が現実に出てきたような不思議な違和感があった。

 その疑問は、喋り始めた校長の声で一旦、断ち切られた。

「私は秘狂クラブのメンバー、リースだ。能力名はグリーン・ハウス」

 校長の、最初の言葉は、騎士のように堂々とした名乗り上げだった。その科白の内容は、さっきからの異様な雰囲気から、ある程度察していた。けれど、実際に本人の口から告げられると、やはり衝撃は大きかった。

「お前たちの通う染布高校の校長も務めているが、まあこれは今となってはどうでもいい経歴だ」

 校長、いやリースは、一つの科白ごとに間をおいて話す、断続的な雨みたいな喋り方をした。

「単刀直入に言おう。私はお前たちを狩りに来た」

 リースは右脚を一歩前に出した。そして、右腕を少し曲げた状態にして、右手を前に構えた。同時に左腕を、ぐっと曲げて、左手を胸の手前あたりに構えた。

 そのポーズは、まるで何かの映画の似非拳法みたいでもある。

「前置きはこれぐらいでいいだろう」

 リースは、すう、と合図のように大きく息を吸った。

「では行くぞ、ずぶぬれの供物たち」

 リースの口上は終わった。それに反論や疑問の余地を挟む間もなかった。

 瞬間、リースはその重心を載せた右脚で地を蹴り上げて、思い切りこちらへ走り出していた。


 その動きは老年とは思えないほど、速い。

 彼の走り、その足運びはとても素早いのにも関わらず、不思議とせわしなさを感じない奇妙なフォームであった。

 リースはその走りで、彼の言うところのずぶぬれの供物へと一直線で向かってきていた。

 その動きに、いち早く対応したのは、脇坂刑事だ。

 彼は右手で、すぱっと懐からシングルアクションのリボルバーを取り出した。彼の使用するリボルバー銃、のろまかめは、通常のものよりはるかに鈍重で、銃身も太ったように無駄に大きい、まさにでくの坊のような代物だ。

 その重量ものともせず、彼は、素早く構え、銃身をリースの右脚に合わせた。そして、その右手人差し指で引き金を引いたまま、左掌で撃鉄を三度、連続して叩いた。

 ファニングショット。銃を扇いだ様とも評されるこの連続射撃で、のろまかめの50口径の大穴から一気に3発分の鉛玉は吐き出され、リースのその右脚へと向かった。

 不思議と銃声はしない。

 「五右衛門ごえもん

 脇坂が、まるでどうでもいいことのようにつぶやいた。それが脇坂の能力の名前らしい。どうやら、その能力によって、銃声はかき消してしまったらしい。

 向かった3つの銃弾は、勢いよくリースへと飛び、その右脚を見事に貫く!

 ことはなかった。

「なあっ!?」

 なんと銃弾の一つも、リースに触れることはなかった。それらはリースに触れる直前で、不自然に軌道をそらされたのだ。

 三つの鉛玉は、甲高い金属音を残して全て弾かれた。

「ちいっ..!」

 脇坂は舌打ちをした。

「雷起こし!」

 脇坂の銃弾に続いて、秋月の右手から電撃が奔った。その電撃は、雨粒を裂きながら、確かに、リースの胸へと直撃したように見えた。

 だが。

「なっ...!」

 リースの動きは止まらなかった。電撃もまた、銃弾と同じく、リースに触れる直前ではじかれてしまった。


「水餅!」

 リースがこちらへ向かってくるのを確認すると、私はすぐさま水餅を右手から出した。その透明の粘体をすぐさま薄く伸ばして、私達の前に水たまりのように広げた。

 これを、リースが踏めば、動きを止められるはず。

 そう考えてのことだった。

 そして、リースは銃弾と電撃を乗り越えて、ついに仕掛けていあった水餅を踏んだ。

 私はすぐさま水餅に、リースの脚を吸着させるように、命令を出した。

 これで、リースの脚は水餅で止められるはず。

 そう、確信していた。

 だが。

「えっ?」

 リースはその吸着を意に介さないように、水餅を、踏み進んだ。

 やばい。このままじゃ。

「ぐごあっ!」

「脇坂さん!」

 リースは私達より前にいる脇坂刑事へと迫ると、駆け抜ける勢いそのまま、右拳でその腹を殴りぬけていた。そして、突き出した拳をそのままに、自身の体ごと脇坂ごと押し出して、走り抜けた。

 そうして、豪風のように私の横ぎりぎりを、通り過ぎていった。

 その戦慄の一瞬。リースがもっとも真近に迫ったそのとき。

 私はリースに抱いていた違和感、その正体に気づいた。

 そうか!そういうことだったのか!

 けれど、その発見による高揚は、すぐさま現実によって冷やされた。

 ぎしゃあ!

 リースの右拳で押し出され続けた脇坂は、背後にあった木へと、全身を叩きこまれる形で止まった。

 その木は衝撃にひしゃげて、葉に溜まった雨水をしゃあと落とした。

 脇坂は、腹に突き立てられたリースの右拳によって、まるで釘を刺された標本昆虫のごとく、抑え込まれていた。

「おっ.....おお....」

 脇坂からうめき声とともに、血が口から流れ落ちていた。

「さっさと逃げろ...馬鹿や」

 脇坂の言葉は、リースが再び右拳殴りつけたことで、断ち切られた。

 その暴力の光景に、圧倒されて、私は絶句とするしかなかった。

 自分の周りのもの、全てが遠くなっていく感覚がして、現実感が褪せていく。

「ずらかるよ!」

 そのとき、秋月の怒号が飛んだ。その声で、ようやく雨の冷たさが戻ってきた。

 そうだ、現実逃避なんてしてる場合じゃない。

 逃げなきゃ。

「でも..わ、わきさかさんが」

「脇坂が逃げろって言ったのが聞こえなかったの!ほらいくよ!」

 洋子の震え声にも、容赦なく秋月は声を荒げた。

 彼女は洋子の、左腕を右手で握り、引っ張っていった。そしてそのまま、山道からそれた左の上り斜面へと走り出していた。

「あっ待って」

 私も慌てて、それに続いた。

 斜面は、だいぶ傾斜は緩いものの、さっきの出来事で気が動転していたのと、雨でぬかるんでいるせいで、中々前に進めなかった。

 視界を遮る雨がすごく邪魔だった。

 前にいる二人ですら、時々見失いそうになりそうになる。

 「はあ、はあ、はあ」

 背後からは、生々しい打撃音が、断続的に聞こえた。どうやら、リースは私達を追わず、脇坂を確実に倒すことを優先したらしい。

 私は脇坂の方へは、振り返らなかった。今見てしまったら、足がすくんでしまうに違いない。

 その生々しい音も上に進むにつれて、雨音で薄れて、やがて完全に消えた。

 そのことに、ほっとしてしまった自分がいるのに気づいた。

 ため息一つついた。

 これだから、私って奴が嫌いだ。



「はあ、はあ」

 しばらく斜面を進み続けているうちに、聞こえる音は雨が強くたたく音と自分の息だけになっていった。その間、何度か転んで、泥水がひざを汚した。

 さすがに、もうまいたでしょ。

 恐怖を振り切って、斜面下に目を向けると、リースの姿はもう見えなくなっていた。

 それで、ようやく緊張がほどけたので、余裕も出てきた。私は、前へ進みつつも、秋月に話しかけた。

「秋月、リースの能力、どこまで分かってる?」

「その様子だと、どうやら分かってるみたいだね?」

 口調からして、どうやら秋月も、能力の正体に気づいているらしい。

「リースの能力、グリーンハウスって言ったよね。あれは、見えない壁を自分の周りに張る能力なんでしょ?」

 さっき、目前に迫ったリースは、不思議なことに、あの雨の中でも、一切濡れていなかった。 降りしきる雨粒、その一つ一つが、リースの喪服に触れる寸前で、まるで揮発性の雨衣のように、弾かれていたのだ。

 そこでようやく、リースの能力に、気づくことができた。

 そう、リースは見えない雨衣で、銃弾や雷撃を弾いたんだ。

「ご名答!あとで、飴ちゃん一個あげるよ」 

 秋月はこんな時にも、無理に冗談を飛ばしてくれた。今は、それがただ、ありがたい。

「じゃあ、そんなの、どうやって、倒せばいいの?」

 私は、息も切れ切れ、すがるようにして上を走る秋月を見上げた。

「正直、あたしたちじゃお手上げだね」

「え?」

「だって、あたしたちの能力で、あんなの倒せるわけないじゃん。だからこうして逃げてるのさ」

「そう、逃げるっていったて、秋月はどこ目指してるの?山門から、下りるのじゃダメだった?」

 勢いでついてきてしまったが、秋月がなぜ山を登り始めたのか、私にはいまいちピンと来てなかった。

「山門まで来たとはいえ、そのまま山を下るとしたら、あのリースの脚じゃすぐに追いつかれるでしょ?それに、もし街に降りられたとしても、あれじゃもしかしたら無関係の人まで巻き込むかもしれない。それなら、もっといい場所があるんだ」

「良い場所って」

「特訓の時に、体重計を使ったじゃん。あれをしまっている倉庫に立てこもるんだよ。それなら、十分に時間を稼げるし、あと少しでいけ..」

 その言葉を断ち切るかのごとく、突如、轟音が響いた。

 同時に、森の薄闇がカメラのフラッシュのように一瞬、白く光った。

 後ろを振り向くと、奴が、リースがいた。

 追いついてきたのだ。

 雨闇の中、まだ、豆粒ほどにしか見えないけれど、脇坂を始末し終えたのか、こちらへと向かってていた。

「銃声だ、きっと脇坂のをくすねたんだ」

 秋月が冷静に分析をする。どうやら、脇坂はとんでもない置き土産を敵にくれてやったみたいだ。

 続けて二発、さっきと同じ轟音、閃光が繰り返された。

 その直後、 前にいた秋月が一瞬、ぴたりと動きを止めた。

 刹那、嫌な違和感が、私の全身を駆け巡った。

 そして、秋月の体は、支えを失ったかのように前のめりに、その場へ倒れた。

「秋月さん!」

「秋月!」

 銃弾は、秋月へと当たったらしい。急いで、彼女に駆け寄った。

 秋月はうつぶせで倒れていて、その右ふくらはぎに、ぽっかりと銃創ができていた。そこから、どろっとした血が、雨に溶けながら流れ出している。

「秋月さん、しっかりして!」

「えっと、だ、大丈夫!?」

「大丈夫...じゃ、ないかもね」

 秋月は立ち上がろうと、腰を浮かしたが、 すぐに倒れてしまった。

「和代!」

「へえ!」

 洋子にいきなり呼ばれたのと、動揺で、変な声出してしまった。

「秋月さんを運ぶよ!和代はそっち持って!」

「わ、分かった!」

 私と洋子は、両脇から、秋月の脚と背中を、それぞれの手で抱え込むして、抱き上げた。洋子は背が小さいので、その方へと少し秋月が身体は傾く。その不格好な体勢で、私達は秋月を運んでいった。

 ただ、やっぱり、さっきよりも斜面を上がる速度は遅くなった。

 ただでさえ、雨の中、ぬかるんだ地面の急斜面を登るのは、きついというのに、そこに、負傷者の秋月が加われば、どうしても牛歩になってしまう。

 その間にも、リースは、着実に私達に近づきつつあった。

 そうだ、ここで秋月を置いていかなくちゃ。このまま、一緒に共倒れなんかごめんだ。 それでも...秋月は、脇坂とは違う。秋月は今まで、私達を助けてくれた仲間なんだ。

 ちくしょう。どうすればいいんだ!

 秋月を見捨てることもできない、かといってリースを止める策も思いつかない、どっちつかずになっていた、その時だった。

「あそこで、下ろして!」

 秋月は指を指して、近くの頼りない細い木を指さした。そして、その言葉と動作で私達は悟った。

 秋月は置いていかれることを受け入れたんだ。

「でも!それじゃ」

「いいから!」

 洋子のその悲痛な反論は、秋月の声で打ち消された。

 それで、私達は仕方なく、その木の前で、秋月を下そうとした。すると、秋月は、私達の支えを振りほどいて、撃たれていない方の左足でけんけんぱをするように、移動すると、その細木に寄りかかった。

「あたしは、どうやらここまでみたいだね」

 意を決した目をして、秋月は言った。

「でも、諦めちゃいない。もしかしたら、あたしの電撃最大出力なら、リースを止められるかもしれない。いや、止められるね!違いない!」

 どこか言い聞かせるような、その痛々しい明るさに、私は何も言うことはできなかった。出来るわけなかった。

「だから、どーんと、大船に乗った気でいなさいな」

 そうすると秋月は、右手で私を、左手で洋子をどん、と突き出してたたいた。そうして、秋月は、にこりと引きつった笑みを浮かべた。

「分かった。ちゃんと、勝ってよ!」

「秋月さん、死なないでね」

 私たちは、欺瞞にまみれた激励を送った。そして、上にある倉庫目指して、駆け出した。

 そう、勝ってくれ!

 私が今の秋月にしてやれることは、そうやって祈ることだけだった。


 二人の少女が、山の上方へと去ると、残った秋月と、リースは、豪雨の森で、静かに対峙した。

 斜面上方側の、秋月は、細木を背に押し付けて、かろうじで立っていた。その右手を、下方の敵、リースへと突き出した。それは、雷起こしを発動するための準備動作だった。同時に、がりがりと、菓子砕きの音は、雨音に混じるように、あたりを包み始めた。

 一方、斜面下方側のリースは、その音に怯む様子もなく、しなやかな獣のごとき速さで、秋月へと接近を続けていた。

 秋月は、突き出している右手甲にさらに左掌を重ねた。瞬間、高音の獣の叫びが、さっきまでの菓子砕きの音から取って変わるように、秋月を起点にして響き始めた。きいいい、という音は、森の木々や斜面へと、いびつなまでに反響し、周囲の雨音を完全に消し去った。

 そう、その音こそは、雷起こし、それよりも、さらに上位の雷を招来する前兆だった。

 その不吉な前兆の音にも、下から来たリースはさして、反応を見せなかった。能力に対する、そして自身に対する絶対の自信なのか、顔色一つ変わらない。そのまま斜面を上がり走り続け、ついに彼は、秋月の直前まで到達した。

 リースは、秋月へと、会心の右拳の一撃をみぞおち狙って突き出した。

 それに対して、秋月から放たれるは、人を殺めし、光の一撃。

「龍叫!」

 秋月の叫びとともに、その両掌から、純白の光線が飛び出した。

 夕闇の森はその雷撃によって瞬間、漂白された。森の木々や草木、雨粒一粒でさえもすべてが、闇から掻きだされて、露わになった。

 数瞬後、ごおおおおっという爆発的な雷撃の残響があたりへとこだました。

 漂白が解け、あたりに暗闇が戻る。

 対峙している少女と、老人は再び陰へと戻った。そして、陰の一方が、支えにしていた細木から崩れ落ちていた。その陰絵の口の部分から、液体が飛散った。それは、血と吐しゃ物だった。

 その崩れ落ちた陰はまさしく秋月であった。彼女は、リースの打撃を止められなかった。

 そして、崩れ落ちた勢いのまま、その体は斜面を転がり落ちていった。

 一方のリースは、一切変わったところがなかった。ただ、次の獲物へと、上方の倉庫へと目線を向けるだけだ。

 秋月が誇る最大威力の電撃、龍叫はリースへと届かなかった。


「秋月..」

 私は呆然として、下方へと転がり落ちる秋月を見るしかできなかった。

「和代。早く早く!」

 洋子は、倉庫の鈍色の扉を開けて、私を待っていた。

 私と洋子は、秋月の言っていたその倉庫前までなんとか来ることができていた。それでも、私は、秋月があの後どうなっていたのかが気になって未練がましく見ていたのだ。

 そして、その結果を、現実を、目の前に叩きつけられていた。

「無敵だ..」

 私は、いつの間にか呟いていた。

 無敵のグリーンハウス。その存在に私たちは怯えて、逃げることしかできない。

 私は、虚脱したまま、よろよろと、洋子のいるドア前へと歩き出すしかなかった。

 ドア前で待っていた洋子は、私のおそらくは酷くなっている顔を見て、秋月がどうなったかを悟ったらしい。その困り眉がさらに垂れ下がった。

 そうして、私が倉庫の中へと入ると、続いて洋子も中へと入った。


3.温室破れたり


 倉庫は、昔ながらの石造りでできていた。

 窓など、通気を通すための隙間はないらしく、そのため、洋子がその扉を閉じてしまうと、内部は完全に真っ暗になった。

 それは外の世界と完全に隔離している証で、私を落ち着かせた。

 洋子が扉の錠を回したらしい、カチッという音が闇の中に響いた。

 そう、こうして暗闇にいると、音がはっきりと聞こえた。依然勢いよく降り続けている雨が屋根を叩く音も、うるさいぐらいによく聞こえる。  

 その暗闇の中に、突然ひとつの明かりがともった。

 洋子が携帯のライト機能を使って、倉庫を照らしたのだ。

 その明かりで、倉庫の中が見えてきた。

 体重計、古びたスコップ、ロープ、何らかの大型機械。色々雑多なものたちが、床に直置きされている。

 続いて、上部へと目を向ける。 外から見ると、倉庫は、二階建て相当の高さだった。けれど内部には、二階に相当する部分はないらしく、無駄なスペースをぽっくり開けていた。

 それらを見たら、なぜだか安心して力が抜けていった。

「はあああああ」

 私はどでかい息をついて、冷たい石造りの床へと、体を投げ出した。

「とにかく、もう安心だね。あとは、洋子の携帯で、もう一度特異課に掛ければ..」


 がぎっ


 突然、何かがひしゃげるような音が倉庫に響いた。

 なんの音だ?

 その音は、一度で終わらず、ばぎっ、ぼぎっ、と音は続いた。

「ひゃっ」

 洋子が小さな悲鳴を上げた。

「どうした?」

「あ、あれ見て..」

 洋子は指し示すように、 携帯の明かりを音がなる方へと向けた。そちらへと目線を向けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。

「なっ...!」

 唯一の出入り口である扉が、音が鳴るたび、物凄い勢いで、歪められている。

「嘘でしょ」

 どうやら、リースは外から扉を殴りつけることで、無理矢理こじ開けようとしているらしい。

 そんなの、無茶苦茶だ!

 それでも、リースの常識外れの打撃が、それを可能にしているのかもしれなかった。

 それに、現に扉は確実に歪められている。あの調子じゃ、あと少しの時間で、扉は破られる!

「どうしよう、どうしよう!」

 倉庫に逃げ込んだのは間違いだった。これじゃ、逃げ道を自分から絶ったようなものじゃないか。そんな今更考えてもしょうがない無駄な思考が、分かっていても頭を奔走した。

「とにかく隠れないと!」

 こんなちんけな倉庫に隠れる所なんてないけど、と自分の頭の冷静な部分が冷笑する。それでも、動かずにはいられなかった。

 私は洋子の服の裾を引っ張った。けれども、その反応はなかった。

「ねえ洋子?」

 洋子は中空をぼうと、見上げていた。考え事に吹けっているようで、私の言うことなんて聞こえてないみたいだ。

 その間にも、扉からは、叩きつけられるような、ひしゃげたような音が聞こえてくる。その音が私の恐怖を後押しした。

「洋子ってば」

 私は、恐怖に押されて、もっと洋子の服の裾をもっと強く引っ張った。それが、無駄な行為だと分かっていても、ともかく誰かとこの恐怖を共有したかった。そうでないと、私は、それに飲まれてしまう。

 そうして、私はやみくもにその裾を引っ張る動作を続けていた、そのとき、

「思いついた...かも」

 洋子は、ぽつりと言った。その目線は、もう中空にはなくはっきりと私へと向いてた。

「え?」

「グリーン・ハウスを突破する作戦」

 あのグリーン・ハウス、無敵としか思えない、あれを破る方法が本当に。

「ほ、本当に...?」

 私は思わず洋子に詰め寄った。

「うん、たぶん」

 洋子は頼りない返事をした。それでも、パニックで何もできなかった私なんかよりも、洋子その声は、はるかに心強かった。

「じゃあ、洋子。私は何をすればいい?」

 そう尋ねると、洋子さっそく作戦の内容を伝えた。



 倉庫の扉はついに破られた。扉は、つぶれた缶みたいに、ひしゃげて、突破された勢いで、がしゃしゃ、と倉庫の地面を傷つけながら滑った。

 扉があった、その四角の輪郭を通して、外の薄闇が、倉庫奥に立っている少女二人、洋子と和代を照らした。

 一方リースは、その薄闇を逆光にして、倉庫の扉前に立っていた。

 しばらくの間、リースは立ちふさがるようにして、倉庫前に立っていた。

 しかし、彼女たちは、そこから動く気がないらしく、その場から動かなかった。そのことをリースは察すると、残り二人の供物を狩り上げるべく、走り出した。

 その素早さで、一気に距離を詰める。そして、あと数歩で、少女二人に手がかかる、そう思われた、次の瞬間、

「むっ!」

 リースの視界はいきなり、暗闇へと閉ざされた。

 何が起きた?

 リースはその状況で一旦動きを止め、冷静に考える。自身の能力、グリーンハウスは、体の周りに空気の層を固めることができる能力である。ならば、何かがその層の上に被さった可能性が高い。そして、それができる可能性のあるものは、ただ一つ、水餅であろう。

 それでも、一瞬で、どうやって覆ったのか?

 リースの頭の中に、そんな疑問が沸いた。しかしながら、立ち止まっていては敵に逃げられるだけであると考えて、一旦その疑問については、後回しにすることにした。

 そしてまず、視界を確保するため、目の前にあるであろう水餅をどかそうと、両手を動かそうとした。

 だが、

「むうっ」 

 その両手は動かなかった。 それだけでなく、全身が動かせないことにリースは気づいた。

 数瞬後、リースは悟った。敵のグリーン・ハウスを破るトリックに。そして、既に自身が敗北していることに。

 リースの動きを封じるトリック、それは既に、自身が倉庫に入る前から準備されていた。

 まず、沼田から出した大量の水餅を倉庫の天井に仕掛けておく。この仕掛けは、水餅の物体に吸着できる性質によって、可能になったはずだ。そうして、私が倉庫へと入り、丁度、その仕掛けの下に来た瞬間、その吸着状態を解除して、一気にそれを落とした。 そして、その大量の水餅で、ぴたり隙間なく一気に、私自身を覆ったに違いない。

 さきほど、私の視界が一気に真っ暗になったのはそのせいであろう。

 そして、それを終えると、今度はその水餅を地面を吸着させた。そうすることで、水餅自身が起点となった地面への吸着力によって、その内部にいる私の体を動かすことを封じたのだ。

 こうして、私の視界と動きを封じたわけだ。そして、このまま閉じ込めらている以上、いずれ内部の酸素は切れるはずである。

 この状況で、これを突破するすべはない。完全な詰みであった。

「敵ながら見事だ」

 リースは、そう心からの賛辞を浴びせていた。ただ、その賛辞は、自身を守るグリーンハウスによって閉じられ、彼の敵に届かない。 

「ははははははははは」

 やがてリースは可笑しくて仕方ないとでも言うように笑い出した。

 それは、空気の檻にある酸素が切れるまで続いた。


「あっ」

 私は、あることに気づいて、右掌を上へと向けた。思った通り、雨粒が手にあたる感触は無かった。

 ようやく、雨は上がったらしい。らしい、と雨が上がったことを断言しきれなかったのは、もう辺りが暗すぎて、目視が役に立たないからだった。

 そう、今や、黄昏の尾っぽとでも言うべき時刻だった。森の草木は段々と、暗闇によって各々の境界線を無くして、全て一つになろうとしていた。そして、このままだとその一員に、私もなりそうな気がしてくる。

 そんな心細い中、私は倉庫のすぐそばにある木の下で、リースを見張っていた。

 倉庫での戦いの後、まず洋子が警察を呼んだ。そうしてから、気絶させたリースを、私と洋子二人で、倉庫にあったロープを使って近くの木へと縛りつけていた。

 それから、洋子は倉庫の隅に眠っていた古びた救急箱を持って、脇坂と秋月の様子を見に下へと降りていった。

 私も、それについていきたかったけど、

「ここに見張りが一人は必要なんじゃないかな...もしかしたら、目覚めたら逃げちゃうかもしれないし、和代の能力だったら、さっきみたいに抑え込めると思うから」

 洋子にそう言われて、同行は拒否された。本当は、一人が心細かったからの提案だったけれど、無理矢理ついていくような理由も作れないので、仕方なくその防人の役を受けることになった。

 そうやって、警察を待ちながら、リースの見張りを続けていて、それから、しばらくたった頃だった。

「ああメフィスト」

 突然、リースが和やかな声で言った。暗闇でよく見えないのもあって、気づかなかったが、どうやらこの短時間で、リースは目覚めていたらしい。

 ぎょっとしている私を置き去りにするように、リースはにこりとした表情を作った。その目線は、私を、いや私じゃない...私の後ろにいる誰かに向けられていた。

「すまないしくじった」

 私は、急いで後ろを振り返った。その木々の隙間に、確かに人影がいた。あいつが...メフィストか!

「やってくれ」

 リースが言った。その瞬間、人影から、まるで分離したかのような小さな鋭い陰が、ひゅっと私の頬をかすめて、その老人の額へと突き刺さった。

「リース!」

 すぐに、リースに駆け寄って、額に刺さったナイフを抜いたが手遅れだったらしい。

 リースの目は虚ろになり、体は脱力していく。

 即死だった。

「畜生!」

 私は、メフィストと呼ばれていた、その人影へと目を向けた。

 そいつは大きく手をこちらへと、まるであざ笑うかのように振った。そして、夜の森へと、溶け込むようにして消えていった。

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