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“火遊び”の後始末とは、こうやるのです。

作者: 居坐 るい
掲載日:2025/10/18



砂が黄金に光り、西日に焼かれる王都の屋根が、まるで火の粉のように瞬いている。



 砂漠の国・アーラグリア。乾ききった大地に、唯一の清流をもたらすのは「水の公爵」フィエル家。その血筋に連なる娘、アメリア・フィエルは、今宵、学園最後の舞踏会の会場にいた。


 ――卒業式前夜の祝宴。

 上級生たちが、互いの未来を祝うために集う、年に一度の華やぎ。


 アメリアの視線は、ずっと一人の男の背中を追っていた。


 王太子――ルシアン・アーラグリア殿下。

 砂色の髪をかき上げ、穏やかな微笑を浮かべるその人は、誰もが認めるこの国の未来。

 そして、幼少の頃より婚約を結んだアメリアの“運命の人”……の、はずだった。


 しかし今夜の彼は、ひどく遠い。

 その視線の先には、薄紅の髪をした少女がいた。

 ――踊り子の、男爵令嬢リシェル・オーベル。とある夜会での舞が評価されただけで、王太子の隣を許された元平民。


(……あぁ、やはり)


 噂は、とうに王都を駆け巡っていた。

 「殿下が踊り子に心を奪われた」――。

 その言葉に、公爵家の娘として、どれほど冷笑を浴びても、アメリアは何も言い返さなかった。


 なぜなら、彼女の家は“水”を握る。

 この国が砂に沈まず在るために必要な、ただひとつの源を。


 彼女が怒りを露わにすれば、王家は困る。

 彼女が沈黙すれば、国は安定する。

 その均衡の上で、彼女は今日まで笑顔を保ってきた。


 だから、今夜も。

 殿下がリシェルの手を取って、円舞曲の輪へと誘っても――

 アメリアはただ、杯の水を見つめていた。


 透明な液面に映るのは、己の面影。

 涼やかで、何も揺れない。

 そう見えるよう、訓練してきたのだ。


 だがその水面が揺れる瞬間は、意外にもすぐに訪れた。




「――皆の者、聞いてほしい!」




 ルシアン殿下の声が、音楽を断ち切った。

 ざわめきが波紋のように広がる。

 アメリアは静かに顔を上げた。


 王子の瞳が、まっすぐに彼女を射抜いていた。

 そしてその隣には、リシェル。

 不安げに殿下の袖を掴む少女の手が、白く震えていた。


(……この場で、言うつもりなのね)


 胸の奥で、何かがゆっくりと崩れた。

 それでも背筋は伸ばしたまま。

 公爵家の者としての矜恃が、そうさせていた。


 逃げるわけにはいかない。

 水の家は、誰よりも涼やかでなければならないのだ。




「アメリア・フィエル。本日をもって婚約を――破棄させてもらう」




 まるで、砂を踏みしめるような乾いた声だった。

 ルシアンの唇は、わずかに嘲るように歪んでいた。


「君の冷たい瞳に、私はもう耐えられない。愛のない婚約など、砂漠に花を咲かせるようなものだ」


 会場が凍りついた。

 音楽が止まり、誰もが息を潜める。

 殿下の言葉が、砂のように乾いた空気に散っていく。


 リシェルが小さく「殿下……」と呼ぶ声が、やけに響いた。


(……随分、舐められたものね)


 アメリアは静かに微笑んだ。

 唇が震えたが、それは誰にも気づかれない。

 完璧な貴婦人の微笑み。その仮面の裏で、喉が焼けるように乾いていた。


「――承知いたしました、殿下。

 どうか……末永くお幸せに」


 その一言で、宴の灯りが一斉に遠のいた。

 人々の視線は、彼女を通り抜けて、ルシアンとリシェルへと向かっていく。


 その後アメリアは場を辞す口上を述べたが、皆熱に浮かれている様子だった。

 乾いた風の中に取り残される、空虚な心地がした。




 しかし、勘のいい商人や知識ある貴族は、もう気づいていた。


 彼らはゆっくりとグラスを置くと、次々に会場を後にする。

 王国の均衡が、音もなく崩れていく音を、誰より早く聞き取っていた。















 翌朝。

 王都の空は、いつもよりも白く眩しかった。

 昨日の夜会の熱がまだ街に残っているようで、道行く人々の噂話が砂埃のように舞っている。


「殿下が……踊り子の娘と……?」

「本当に? あの水の公爵令嬢を差し置いて?」

「それでも水は止まらないだろうさ。公爵家は理をわきまえてる」


 ――その言葉を、アメリアは窓越しに聞いていた。


 王都の郊外にある公爵邸。

 庭には小さな噴水があり、今も水が優雅に流れている。


 アメリアはその音を聞きながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 膝の上には一通の封書――王家からの正式な婚約破棄通達書。

 真紅の封蝋に刻まれた王家の紋章が、まるで血の跡のように見えた。


 扉をノックする音が響いた。


「――失礼いたします。お嬢様」


 入ってきたのは、公爵家執務官のルーベン。

 背筋の伸びた、無駄のない動き。

 金縁の眼鏡越しに、彼は静かに主を見下ろした。


「……世間の噂は、思ったより早いものですな」


「ええ。まるで昨日の出来事が、もう歴史の一部みたい」


 アメリアは淡々と答える。

 だが、その指先は、封書の端をかすかに握りしめていた。


「愛で砂は潤わないのに。愚かだわ」


 彼女の声に、冷ややかな怒気が混じった。

 ルーベンは一瞬だけ視線を落とし、言葉を選ぶ。


「しかし、陛下は静観の構えを取られております。水の利権を盾に反発されては、王家も立ち行かぬ。……お嬢様がどのように動かれるか、それを見ておられる」


 アメリアは満足そうに、ルーベンを見上げた。

 彼の瞳はいつも通り冷静で、それでもどこか人間的な光を宿していた。


「……それでもお嬢様は、国のために生きる方だ。あの宣誓を、忘れるはずがない」




 ――『この国が潰えぬ限り、我が力は国のために使う』




 それは、王立学園の入学式で、生徒全員に誓わせる言葉。

 けれどアメリアにとってそれは、単なる形式ではなかった。

 幼い頃から教え込まれた“水の公爵”としての矜持だった。


「そうね。あの時の私は、本気でそう誓ったわ」


 アメリアは立ち上がり、噴水の外を見つめた。

 陽光を浴びて、水面がきらめく。

 あの光がある限り、国はまだ生きている――そう信じていた。


 彼女の声がかすかに震える。

 ルーベンは沈黙したまま、ただ彼女の背中を見守っていた。


「もし殿下が、“真実の愛”を手に入れたというのなら。

 せめてその愛を、砂に還るまで守り通していただきたいの。

 ……わたくしの、あの方への“最後の願い”として」


「“最後”――とは、どういう意味でしょうか」


 アメリアはゆっくりと振り向き、冷ややかに微笑んだ。


「市井では、婚前の不貞を“火遊び”というらしいわね。

 ……わたくしも、してみたくなったの。

 この乾いた国に、どれほどの熱が潜んでいるのか――知りたくて」


 その声に、ルーベンの眉がわずかに動いた。

 だが彼は、何も問わなかった。

 ただ、静かに一礼する。


「……承知いたしました。

 水の流れは、いずれ主の意のままに」


「ええ、すぐに――“止まる”でしょうね」


 アメリアの唇に浮かんだ微笑は、氷のように冷たかった。


 その日を境に、公爵領からの給水量がわずかに減った。

 王都では「季節風の影響」だと報じられたが、真実を知る者は少ない。

 領地の湖から流れる水門が、アメリアの手で封じられたのだ。


「お嬢様、本当に……よろしいのですか」

 ルーベンの声には、初めて揺らぎがあった。


「ええ。国のためよ。……いずれ、この国は学ぶでしょう。

 水の重みを。恵みの意味を。

 そして、わたくしを捨てた代償を」


 その言葉に、恐ろしいほどの静けさがあった。

 それは怒りではなく、冷たい理性の声。

 愚かにも“運命の人”を信じていた己への決別だった。


 彼女の背後で、噴水の音が止んだ。

 ぽたり、と落ちる水の音が、最後の涙のようにシミを作った。


 そして翌朝。

 王都のすべての井戸が、干上がった。
















 水が止まったのは、夜明けとほぼ同時だった。


 最初に悲鳴を上げたのは、王都の給水塔の管理人たちだった。

 蛇口をひねっても、一滴の水も出てこない。

 貯水槽を開ければ、そこにあったはずの水面は干上がり、底にひび割れた泥が残っているだけだった。


「おい、詰まりか?」

「いや……管は空っぽだ!」


 王都は、砂の街と化した。


 太陽が昇るにつれて、石畳の温度が上がり、人々の足元から熱が立ちのぼる。

 井戸を掘っても、バケツを降ろしても、縄の先からは何も上がらない。

 市場では水瓶を抱えた商人たちが暴利をふっかけ、群衆が奪い合う。

 午後には、最初の暴動が起こった。


 ――それでも、王城の中だけは、静かだった。


「父上! 一体これはどういうことです!」


 謁見の間に響く怒号。

 王太子ルシアンの声は、怒りよりも焦りに満ちていた。

 その隣では、薄桃色のドレスに身を包んだ少女――リシェル・マリナが、青ざめた顔で震えている。


 王――レオナード三世は、重い沈黙の中で目を閉じた。

 額の汗をぬぐいもせず、乾いた唇をかすかに動かす。


「……お前が、アメリア・フィエル嬢との婚約を破棄したと聞いた」


「ええ! 彼女には情がありません! ただ家の義務を口にし、水の権利を盾に威圧してくるばかりでした! 私は、リシェルを選んだのです! 心のままに!」


 リシェルは怯えながらも、その言葉にかすかに笑みを浮かべた。

 ジルベルトは彼女の肩を抱き寄せ、言い放つ。


「それの何が悪いのです? 私は王太子でありながら、愛のない政略結婚を拒んだだけ! 人として当然のことです!」


 玉座の前の空気が、わずかに震えた。

 レオナード三世は、ゆっくりと目を開けた。

 その瞳は、砂のように乾いた怒りを宿していた。




「――この国は、“水”で成り立っているのだ、ルシアン」




「……?」


「お前が軽んじたのは、ただの令嬢ではない。

 王家が三百年かけて築いた均衡そのものだ。

 “水の公爵家”の承認なくして、この国は一滴の水も飲めぬ」


「な……なにを、そんな……! 彼女がそんな権力を――」


「知らぬのか?」

 王の声は低く響いた。

 「王都の井戸は、すべて公爵領の湖から引かれている。

 その流れを止められれば、我々は――渇くのだ」


 その瞬間、ルシアンの顔から血の気が引いた。

 リシェルもまた、息をのむ。


「じょ、冗談でしょう、父上……? そんなことで国が……!」


「現実を見よ。すでに王都の市場は暴徒と化している。

 水は命、そして秩序だ。

 その秩序を壊したのは――お前自身だ」


 沈黙。

 玉座の間の空気が、焼けつくように重くなった。


「リシェル・マリナ」


 呼ばれた名に、少女は震えながら顔を上げた。


「お前を責めるつもりはない。

 だが、お前の存在が国を乱した。……その責を、取らねばならぬ」


「そ、そんな……!」


 ジルベルトが剣を抜こうと腰に手をやる。

 だが、護衛の騎士たちが一斉に彼を取り囲んだ。


「陛下ッ、まさか――!」


 レオナード三世は、静かに玉座から立ち上がる。

 その表情は、悲しみではなく、諦念に近かった。


「王太子ルシアン。お前を本日をもって臣籍降下とする。

 王位継承権は剥奪。……生涯、辺境の砂丘で“学べ”。

 水の価値と、愛の代償を」


 ジルベルトは、震えた。

 剣を抜くこともできず、声にならない叫びを上げる。


「そんな……! 父上、私は――!」


「――もう、父ではない」


 その声は、静かに彼の運命を断ち切った。


 その頃、公爵邸。


 アメリアは、静かに報告を聞いていた。

 ルーベンが手にした公文書には、「王太子ルシアン殿下、臣籍降下」との記載がある。


「……本当に、そうなったのね」


「ええ。リシェル嬢も共に。二人で砂漠の開拓地へ送られました。陛下は、最後までお二人に手を下すことを拒まれたようです」


「そう。……優しい陛下だわ。あの方は、まだ“信じて”おられるのね」


 アメリアの瞳には、淡い哀しみが宿っていた。

 水を止めた彼女が、本当に望んでいたのは、破壊ではなかった。

 ただ、理解だったのだ。


「それで? 王都の様子は?」


「……酷いものです。空気は乾ききり、人々は互いに水を奪い合っております。

 ……今朝、ついに“自然発火”が起きたと」


 その言葉に、アメリアは目を伏せた。


「自然発火、ね。……この空気では、不思議でもないわ」


 外では、強い風が吹いていた。

 自然発火か。はたまた放火か。真実は分からないけれど。

 遠く、王都の方角にかすかな煙が上がっている。


 アメリアは、微笑んだ。

 冷たく、美しく、どこか悲しい笑みだった。














 数日後。

 王都は焼け野原になった。

 王は処刑されることなく、民の前に立ち、罪を詫びた。

 誰も罵声を上げなかった。ただ、砂を踏みしめる音だけが響いた。


「これで、“火遊び”はおしまい。

 あとは灰の上に、新しい国を築けばいい。

 ――今度こそ、本当に“水の国”として」


 “水の公爵家”は、新たな王国の中心として再建を担う。

 湖の水門が再び開かれ、恵みが戻るとき、人々はその光景を見てひれ伏した。

 ――新たなる王国の守護者の誕生である。


 彼女は静かに湖畔に立ち、風を受けて微笑んだ。

 かつての婚約者が砂丘でどのように生きるか、もう知る由もない。

 けれど、思い出すこともなかった。


「乾いた愛の果てに、残るのは砂だけ。

 ……でも、砂の下には水脈があるの。

 いつか、それを掘り当てられたら――そのときは、また笑いましょう。ルシアン様」


 風が、頬を撫でた。

 水面がきらめき、太陽がそれを照らした。

 “太陽の国”は終わり、“水の国”が始まった。


 そして彼女の“火遊び”は、静かに幕を閉じた。



読んでくださりありがとうございました。

もしよろしければ、★評価★をいただけると嬉しいです!



〜次回作予告〜

学院に首席合格した平民の少女は、王子に選ばれなかった。

――それはなぜか?

偏に、“教育”と“教養”を履き違えたからである。




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王太子の名前はルシアンでは?王宮の場面でジルベルトとなっている箇所がありました。
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