第四話:九月六日、グラウンドの陽炎
そっと目を開けた。
耳鳴りのようにまとわりついていた蝉の声はいつの間にか消え、代わりに、まだ身体に馴染まないアラームの電子音が無機質に部屋の静寂を切り裂いている。瞼を持ち上げるのが、ひどく億劫だ。九月六日、土曜日。しかし、ぼくの高校では来週末に控えた体育祭のため、今日は授業と練習が行われる。これまでで一番長く、そして過酷に感じられる新学期が、もう始まっていた。
重い身体を引きずるようにして制服に着替え、リビングに下りると、テーブルの上にはすでに朝食が並んでいた。トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香り。それは夏休みの間にはなかった、日常が戻ってきたことの証明だった。しかし、その日常は、コンクール前に感じていたような、目標に向かう高揚感とは全くの別物だ。ただ、巨大な何かに向かって、緩やかに落下していくような感覚。それが今のぼくにとっての「日常」だった。
午後の体育祭練習は、まるで灼熱地獄だった。
カレンダーの上ではもう秋だというのに、太陽は夏の支配権を手放す気がないらしい。容赦なく照りつける日差しが砂埃の舞うグラウンドを熱し、陽炎が遠くの景色を蜃気楼のように歪ませている。クラスごとに割り当てられた区域で、大縄跳びの練習が始まった。掛け声だけがやけに大きく響き、縄が地面を叩く乾いた音が、頭痛を助長するかのようだ。
ぼくはクラスの隅の方で、ただ縄を回す役だった。汗が目に入り、滲みる。Tシャツはとっくに肌に張り付き、不快指数は限界に達していた。こんなものは義務でしかない、と心の中で何度も毒づく。あの音楽室の、少しひんやりとした空気と、楽器の金属の匂いがひどく恋しかった。あそこには、共有すべき目標と、調和があった。しかし、ここには、ただ無秩序な熱量と、勝利という単純化された目的しかない。
その時、ふと隣のクラスの陣地に目をやった。
給水用のテントの日陰に、齋藤沙良がいた。彼女も、クラスメイトたちと談笑しながら、タオルで首筋の汗を拭っている。その仕草が、なぜかひどく大人びて見えた。夏の間に、彼女だけが違う時間を生きて、遠くへ行ってしまったような、そんな錯覚に陥る。
始業式の日に、廊下ですれ違った。
「久しぶり」と彼女は小さく笑いかけ、ぼくは「ああ」と短く返すことしかできなかった。夏祭りの夜の気まずさが、まだ二人の間に透明な壁として存在している。彼女の笑顔は、吹奏楽部の副部長として見せていたものとは、どこか違って見えた。それはきっと、ぼくがもう「部長」ではないからだろう。ただの三浦和輝に向けられた、当たり障りのない笑顔。それが、ひどく胸に堪えた。
大縄跳びの回数を数える声が、三十を超えたあたりで途切れた。誰かの足が引っかかったらしい。溜め息と、互いを責めるような声が小さく上がる。このぎすぎすとした空気。調和を目指していた吹奏楽部とは、あまりにも違う。
ぼくは、誰にも気づかれないようにそっとその場を離れ、水道の蛇口に顔を近づけた。冷たい水が、火照った顔の熱を奪っていく。
一年前を回顧する。体育祭の当日、ぼくたち吹奏楽部は入場行進の演奏や、各種目のファンファーレを担当していた。昼休み、木陰で楽器を休ませながら、来年のコンクールは絶対に金賞を獲ろう、と仲間と語り合った。隣に座っていた沙良が、「部長と副部長で、みんなを引っ張っていこうね」と、強い光を宿した瞳で、まっすぐにぼくを見て言ったのだ。あの時の、グラウンドの喧騒とは切り離された静かな時間と、彼女の言葉がくれた未来への確信。それらは確かに、ぼくだけに向けられたものであったはずだ。
顔を上げると、濡れた前髪から滴り落ちる水滴の中で、グラウンドの陽炎がさらに大きく揺らめいていた。あの陽炎の向こう側に、失ってしまった夏があるような気がしてならなかった。
戻りたい、と願うこと自体が、もう意味のないことなのだ。分かっている。分かってはいるが、心はまだ、あの夏の日々にしがみつこうとしている。
じりじりと肌を焼く残暑の中、授業終了のチャイムが遠くで鳴った。それはまるで、遠い世界の出来事のようだった。
ぼくは、静かに目を閉じた。




