第三話:八月三十日、焦燥と積乱雲
そっと目を開けた。
肌にまとわりつく、濃密な湿度が全身の自由を奪っている。意識が浮上するよりも先に、聴覚が現実の音を拾い始めていた。窓の外、網戸の向こう側から聞こえてくるのは、もう盛りを過ぎた油蝉の、どこか諦念を帯びた鳴き声と、それを塗り替えるように甲高く響くツクツクボウシの声。季節の主役が交代していく、その厳然たる事実が、耳を通してじわりと心に染みてくる。机の上に置かれた卓上カレンダーの、赤い丸で囲まれた「二学期始業式」という事務的な文字が、やけに大きく、最終宣告のように見えた。八月三十日。夏休みという名の、あの輝かしい日々からの猶予期間は、もう終わろうとしていた。
リビングに下りても、人の気配はない。静まり返った空間に、冷蔵庫のモーター音が低く唸っている。テーブルの上には、予備校の夏期特別講習だの、直前対策講座だの、扇状に広げられた案内が何枚も無造作に置かれていた。その一枚を、意味もなく手に取ってみる。「現役合格を掴み取れ!」というあまりに力強い活字が、今の自分にはひどく空々しく、他人事のように映った。志望校の名前が並ぶリストに目を走らせるが、どの大学も、まるで異国の地名のように現実感がない。
コンクールが終わってからのこの一ヶ月、ぼくは一体、何をして過ごしてきたのだろうか。燃え尽きた、と言えば、それは美しい響きを持つ。悲劇の主人公にでもなったかのような自己陶酔に浸ることすらできる。しかし、それは単なる怠惰の言い訳に過ぎないのではないか。何も手につかず、ただ無為に時間を溶かしてきただけではないのか。そんな自己嫌悪に近い考えが、じっとりとした湿気のように頭の中を支配し始める。これが、辞書で引いた「焦燥」という感情の正体なのだろう。
意味もなく自室の階段を上がり、軋む音に耳を澄ませながら、窓を大きく開け放った。
むっとする熱風が、澱んだ部屋の空気をかき混ぜる。その風と共に、遠くの空にそびえ立つ、巨大な白い塊が目に飛び込んできた。
積乱雲だ。
まるで巨大なカリフラワーか、あるいは天上の城塞か。夏という季節が地上から吸い上げた、膨大な熱量と水蒸気が、行き場を失って一つの形を成している。その圧倒的なまでの存在感は、神々しいほどに美しくもあり、同時に、いつ暴発するとも知れない暴力を内包しているようにも見えた。あれはいずれ、己の中に溜め込んだエネルギーの重さに耐えきれなくなり、凄まじい雷鳴と豪雨を容赦なく地上に叩きつけるに違いない。
あの雲の姿が、今の自分自身の内面と、あまりにも似ているように思えた。
吹奏楽部を引退し、コンクールという絶対的な目標を失った。そして、受験というあまりに漠然とした現実を前にして、しかし何一つ手につかずにいる。あのバリトンサックスの低い音が身体の芯まで響く感覚を最後に味わったのはいつだったか。目標を失ったエネルギーは、熱となってただ内側で渦を巻いているだけで、どこにも出口を見つけられずにいるのだ。このままでは、あの雲がやがて激しい嵐を呼ぶように、いずれ自分も、この行き場のない感情に押し潰されてしまうのではないか。
二学期が始まれば、齋藤沙良に会う。
それは避けられない、確定した未来である。しかし、ぼくは彼女と、一体どういう顔をして会えばいいのだろう。夏祭りの夜、打ち上げ花火の閃光の中で視線が交わった、あの気まずい数秒間を回顧する。彼女は少し驚いたように目を見開き、そして、次の花火が上がる前の、あの深い闇の中ですぐに顔を背けた。あの表情は、何を意味していたのか。偶然に驚いただけか、それとも、そこに気まずさがあったのか。
「部長」と「副部長」という、絶対的な関係性があった頃がひどく懐かしい。あの頃は、話す内容に困ることはなかった。練習メニュー、部員の悩み、次の演奏会の選曲。常に共有すべき議題があった。あの鎧を脱いでしまった今、ぼくはただの三浦和輝として、彼女の前に立たなければならないのだ。そこには、何の役割もない。
ゴロゴロ、と遠くで空が唸る音がした。地鳴りのように、空気が微かに震える。
積乱雲が、いよいよその変質の時を迎えようとしている。風がにわかに強まり、土埃と、生温い雨の匂いが混じり合って鼻孔をくすぐった。
机に向かい、中途半半端に開かれたままの数学の問題集に手を伸ばす。びっしりと並んだ数式は、まるで意味をなさない記号の羅列にしか見えない。やらなければならないことは分かっている。分かってはいるが、鉛筆を握る指一本すら、まるで他人のもののように動かせない。焦りだけが、心臓のあたりで空回りし、不快な音を立てている。
一粒、また一粒と、大粒の雨が窓ガラスを叩き始めた。それはあっという間に激しい夕立となり、窓の外の景色を白く煙らせ、あれほど騒がしかった蝉の声を、一瞬にしてかき消していく。
ぼくは、その音を聞きながら、静かに目を閉じた。