第一話:八月十六日、ソーダ水の気泡
そっと目を開けた。
天井の木目が、蝉の声のシャワーを浴びてじわりと滲んで見える。枕元に置いたスマホが短く震え、画面に「8月16日 土曜日」という無機質な文字を映し出した。午前八時。二週間前の今頃は、朝練のために慌ただしく家を飛び出していた時間だ。
寝返りを打つと、部屋の隅に立てかけてあるバリトンサックスのハードケースが目に入った。鈍い銀色の蝶番が、夏の光を気怠げに反射している。あの重たい楽器を背負って坂道を上ることも、もうない。コンクールが終わって、僕たちの夏は終わった。引退、という二文字が、まだ身体に馴染まない。
キッチンに下りると、テーブルの上に書き置きと千円札が置いてあった。
『和輝へ。お昼は自分で。お父さんとお母さんはお墓参りに行ってきます。』
冷蔵庫には麦茶と、食べ残しのスイカ。グラスに注いだ麦茶の冷たさが、まだ夢の中にいる身体を目覚めさせる。
特にやることもなく、昼過ぎに家を出た。目的もなくバスに乗り、終点の河原で降りる。雲ひとつない青空が広がり、川の水面がきらきらと光を乱反射していた。川原の石に腰を下ろし、近くの自動販売機で買ったソーダ水を開ける。プシュ、という音と共に、無数の気泡が立ち上っては消えていく。
引退式のあの日。みんなで泣いて、笑って、写真を撮って。その輪の中心には、いつも副部長の齋藤沙良がいた。彼女がフルートを片付けながら、寂しそうに笑った顔を思い出す。「部長、お疲れ様」と言われた時の、彼女の声の響きが耳に残っている。もっと何か、気の利いた言葉を返せただろうか。ありがとう、と返すのが精一杯だった。
川面を渡る風が、汗ばんだ首筋を撫でていく。
コンクールという大きな目標があった時は、彼女と同じ方向を向いていると、そう信じられた。でも今はどうだ。受験という、それぞれが違うゴールを目指すレースが始まっただけ。吹奏楽部という繋がりがなければ、僕たちはただのクラスメイトBとCに戻るだけだ。
ソーダ水の最後のひとくちを飲み干す。炭酸の抜けた液体は、ただ甘いだけだった。
空になったペットボトルを、近くのゴミ箱に投げ入れる。カラン、と乾いた音がした。
河原の土手に寝転がって、どこまでも高い空を見上げる。流れる雲の形が、様々な楽器に見えた。ホルン、トランペット、そして、彼女が吹いていたフルートの形に。
いつの間にか蝉の声は遠のき、代わりに涼しい風が草の匂いを運んでくる。夏の終わりが、すぐそこまで来ている気がした。僕の夏は、本当に終わってしまったのだろうか。
瞼の裏に、ステージの強い照明と、指揮棒を振る顧問の姿、そして隣で懸命にフルートを吹く彼女の横顔が浮かんでくる。あの瞬間に戻りたい、と不意に思った。
夕暮れの光が瞼を優しく包み込む。ぼくは、静かに目を閉じた。