終章:夜を知る者の、昼
人には二度目の人生がある、などと簡単に言うつもりはない。でも、時折ふと感じるのだ――いまの自分は、かつての自分とは別の時間を生きているのだと。
あの頃の僕は、毎晩のように夜の底をのぞき込んでいた。ネオンが滲むキタの街、ラムと煙草と乾いたピアノの音。浮かれて騒ぎ、絡み、演奏して酔い潰れ、知らない街の夜明けを迎えたこともあった。バーカウンター越しに交わした数えきれないサヨナラ。朝になれば全てがリセットされる魔法を信じていた。
でも今、リセットされることのない日々の継続こそが、僕にとっての静かな救いになっている。
庭の窓を開けると、ゴローちゃんがのっそりと現れて大あくびをした。シロさんはキャットタワーの頂上で寝ぼけ眼をしている。まだ春の柔らかい風が、家の中にゆっくりと流れ込んできた。
妻はキッチンで朝食の準備をしている。コーヒーの香りと、トーストが焼ける匂い。ラジオからは、70年代のシティポップ。僕はバスルームの鏡に映った自分の顔を見ながら、無精ひげを撫でた。20年前の僕がこれを見たら、何て言うだろう。
「おいおい、ずいぶん丸くなったな」
「お前こそ、少しは落ち着けっての」
きっと、そんな感じで笑い合うだろう。
猫と暮らし、妻と暮らす。
夜の続きは、もう必要ない。
今はただ、この昼のまんなかに身を置きながら、時折静かに昔を思い出せばそれでいい。
忘れない。決して忘れないけれど、過去に戻りたいとは思わない。
なぜなら、夜を知っているからこそ、今の昼がこれほどまでに愛おしいのだから。