第3章:昼のはじまり、あるいは彼女の声
あれから一年が過ぎた。
バーは続いていたけれど、夜は少しずつ僕の中で色を失っていた。グラスの中で氷が溶ける「カロン」という音も、切なく熱いはずのモントゥーノも、客の笑い声も、どこか空虚で反響しない。朝が近づくと、僕は決まって無音の店内を見渡しながら、自分が何をしているのか、時々わからなくなった。
そんなある朝のことだった。
春の雨が降った翌日、店のポストに手紙が届いていた。差出人の名前はなかった。便箋には、たった一行。
「夜の続きは、あなたの昼の中にありますように。」
筆跡は、サユリのものによく似ていた。いや、もしかしたらそうであってほしかっただけかもしれない。けれど、その一行が僕の胸の奥で、じわじわと何かを溶かしはじめた。
その日、僕は店を開けなかった。
店のカウンターの上にだけ、いつものグラスとハバナクラブを置いて、その隣に手紙を並べた。そして、店の外へ出た。
初めて、自分の足で昼の街を歩いた。
まるで世界が新しく塗り替えられたようだった。子どもの声、パン屋の香り、猫の足音、空の青さ。僕は、驚くほどそれらに感動していた。
歩き続けた先に、古い本屋があった。僕はふと立ち寄り、背表紙をなぞりながら、その中の一冊を手に取った。小さな詩集だった。ページをめくると、開いた一行に目が止まった。
「昼の中に、夜の余韻を抱きしめる人の詩。」
その言葉は、まるで僕に話しかけてくるようだった。
そのときから、僕の中で何かが切り替わった。夜を生きる男から、昼に向かって歩き出す人間に。