第2章:彼女と、グラスと、夜の終わり
その夜、カウンターの端に座った彼女は、赤い唇でラムのグラスの縁をなぞっていた。
彼女は、痩せていた。首筋のラインがシャツの襟元からこぼれ、指先の動きがグラスの中の琥珀色をやさしく揺らしていた。
「飲めるようになったの」
彼女はそう言って笑った。あの夜、店の奥に鳴るレコードは、たしかオマーラの古いボレロだったと思う。僕は少しだけ驚いて、そして、嬉しかった。
彼女は、僕のバーに通っていたひとりだった。名前は──まあ、仮に「サユリ」としよう。きっと本名じゃない。そんなことはどうでもよかった。彼女はダンサーだった。ラテン系のクラブで踊っていて、その帰りに必ず立ち寄って、グラスを二杯。軽い冗談、意味のない会話、そして深い沈黙。
ときどき僕の部屋に来て、ベッドの端で裸足のまま煙草を吸った。音楽の話なんて、ほとんどしなかった。むしろ話したのは、いつもくだらないドラマの話か、店に来た変な客の話ばかりだった。
そして、夜が終わると、彼女は靴を片手に持って、静かに出ていった。何も言わずに。
「こういう関係って、案外悪くないよね」
彼女がそう言ったのは、冬の夜、僕がホット・バタード・ラムを作って渡したときだった。
でも、案外悪くない関係は、案外すぐに終わる。
ある日、彼女は姿を見せなくなった。携帯も繋がらず、共通の知人も知らないと言った。僕は何も訊かず、探さず、ただ、彼女の席を空けたままにして、カウンターを拭いた。
あのとき僕は初めて、自分が夜というものの中で、どこか空洞を抱えたまま生きていたことに気づいた。サユリはその空洞に、一時的に光を差し込んでいた。だけど、光はすぐに去る。夜に溶けて、音もなく。