第1章:夜の残響
僕がまだ夜に生きていた頃のことを思い出すと、いつもあの湿ったカウンターの手触りが脳裏に浮かぶ。グラスの底に残った氷が、照明に反射して細かく光り、タバコの煙がゆるやかに天井へと昇っていく。
あのバーには、時間が溜まっていた。まるで、空き瓶の底に残ったラムのように。
「ここは、時間が酔っぱらってるみたいですね」
そう言ったのは、ある夜ふらりと現れた常連のひとりだった。名前は思い出せない。ただ、その言葉だけは、妙に耳に残っている。
25年前、僕は大阪のキタの猥雑な街で「El Barrio」という小さなバーを経営していた。NYのスパニッシュ・ハーレムを意味するその店の名は、どこか遠い島の匂いがした。
カリブの暖かな島から、薄暗いアスファルトの街の冷たい路地裏にやってきたラティーノ達の悲しみの匂い。
あの頃の僕は、毎晩のように自分が音楽の中を漂っているような気がしていた。スモーキーなピアノの響き、パーカッションのリズム、ホーンの叫び声。そして、ときどき自分のベースがそれらの中に自然に混ざっていく。
ミュージシャンというにはあまりに不器用で、経営者というにはいささかルーズすぎた僕は、演奏とカクテルと、夜の空気の中でなんとか自分の居場所を確保していた。ときにはギャラをもらって演奏し、時には他のバーにふらりと顔を出しては、知ったような顔でグラスを傾けた。
そう、あの頃の僕には、「夜」がすべてだった。