ごめんなさい
天宮 良出会は自然が好きな少年だった。それはきっと父からの遺伝なのだろう。家にはヘラクレスやらメタリフェルやら、色々な昆虫が虫かごの中にいる。そんな家で育ったのだ。
当時七歳だった少年は、父と山に昆虫採集に来ていた。
六月中旬。車で二時間くらいかかる場所だった。近くの山でも取れるのだが、それでもこの場所を選んだ理由は、自然が豊かで、あまり同業者がおらず、尚且つ様々な種類の昆虫がいるからだ。
今回狙っているのはミヤマクワガタと、ノコギリクワガタの水牛と呼ばれる大型のものだった。
車を停車し、森の中へ入っていく。
さて、クワガタの捕り方講座をしよう。
主にクヌギやコナラが集まる木としてメジャーであり、基本的にこの木を目印に探す。だが、大抵の昆虫というのは高いところにいるものだ。虫取り網で取れるならそれを使えばいい。しかし、当時十歳の彼にはそれにも限度がある。
ではどうするか? 木を蹴った振動で落とすのだ。
は? そんなもんで落ちるかよ。しかも七歳で? 無理だろ。そう思うだろう。
だが、木の振動で落とすというのは気を思いっきり揺らして振り落とすという意味では無いのだ。
クワガタが危機が迫った時にとる行動が、主に二パターンある。
一つは死んだふり。もう一つが「落下」だ。
それは天敵からの逃避行動である。この「落下」を利用する。天敵である鳥類の、枝に止まった振動と錯覚させ、クワガタを落とす。
だから大人が馬鹿みたいな力で思いっきり蹴ったとしてもあまり意味が無いのだ。要は加減が必要なのである。
少年は木を全力で蹴っていた。この歳の頃の全力というのは絶妙な加減だったのか、面白いくらい落ちてくる。そのせいで、調子に乗ってしまったのだ。
蹴って、捕まえて、また蹴って。そうしてるうちに少しずつ奥に来ていた。辺りが暗くなってきた頃、そろそろ帰ろうかと言う頃だった。少年が「もうちょっと」と駄々をこねるので、父もそれに付き合う。楽しそうに木を蹴る息子を愛おしそうに見ていた。
その時は突然だった。唐突に、少年が消えたのだ。
だが、目を離していた訳では無い。ずっと見ていたのに、溶けるように消えたのだ。暗くなりかけていたとはいえ、余りにもおかしい。その後、何時間も探したが、見つからなかった。
何日も、何日も探した。捜索隊も出たが、見つからない。一人で帰りの車を動かす父の心境は、測りかねないものだろう。
少年は、あの廃屋の空間に入ってしまったのだ。
外から内側は本来見えないので、少し入り込んだだけでも唐突に消えたように見えたのだろう。
だが、内から外は見えるのだ。音も聞こえる。初めは、自分を探す父を見て、「焦っちゃって変なのー!」とか能天気なことを思っていた。しかし、近くに居るのに大声で自分を探す父を見て、事の深刻さを理解したのか、安心させようと元の道に飛び出てみせる。だが、父の声は、遠くなったのだ。
空間は廃屋を中心に、球状に広がっていて、一度入ってしまったら、例え来たところから出ようとも、その反対側からまた入り直す事になる。そういう異常空間だった。
逆に戻ってみると、また近くに父がいる。それでも、どれだけ泣き叫んでも、父は気がついてくれなかった。
諦めて帰っていく父の背中を、見ている事以外出来なかった。
少年は、泣いた。泣いて、泣いて、泣き喚いたが、それも無駄と気が付き、諦めた。
それから、その空間で過ごさざるを得なくなった。近くに人が通っても、こちらを認知出来ない空間に、ただ一人。
ただ少年は、こう願い続けた。
『この時間が早く終わりますように』
***
目を覚ます。防衛反応か、世界が極限まで減速していた。どれだけ眠っていたのか分からないが、多分現実時間では数十秒だろう。
あ、毒、毒はどうなった? あの時感じた強烈な頭痛と吐き気は消えている。
口の中が鉄の味がする。血か? 吐き捨てるとやはり赤かった。喉に痛みはない。舌を使って口内を確かめる。
出血地点は多分歯茎だろう。少し腫れているが、もう止血している。
安全を確認して時間を等倍に戻した。
「宗教、作りたいんだ」
あぁ、そういえば、気を失う前に協力して欲しいことがあるって言ってたな。んで俺、半ば投げやりに承諾したよなぁ。だが、何をか言われてなかった。宗教作りってことか?
あまり宗教っていいイメージがない。理由としては友達だったやつのお母さんが宗教にどっぷり金使って食事もまともに与えられないって理由で給食を多く食ってたってのが原因だが…
関係ねぇか。姿が変わりすぎて、もう誰も俺を俺だと認識できねぇんだから。
…ならマジで協力するのはありなんじゃねぇか? 俺にもう頼れるやつはいねぇ、ならこいつらに付いて行った方がいいんじゃねぇか!?
つってもさっきまで思いっきり殺しにかかってた相手だしなぁ、いや手心みたいなのはなくも無かったんだが、問題はどの面下げてってとこで。
「…!?」
女が俺に気がついた。目を丸くして、口をパクパクさせている。
…謝っとくか。学校でもスカート捲りしたやつ女子集団から蹴られてたっけ…? 随分昔に感じるなぁ。
「その、なんだ。さっきは、ごめん」
あえて「悪かった」とか「すまん」とかの言葉を使わなかった理由は、こっちの方が潔い感じがしたからだ。
「…違う」
謝れば許されるなんて考えてない。見た目が歳食いすぎたってのもあるが、謝罪は許される為にするもんじゃないって教えられてきたからだ。だが、違うってなんだ?
「私にじゃない。私は何もされてない。謝るならこっち」
そう言って女は隣の男を指さした。
何もされてない…? いや結構ビビらせに行ってたと思うが。そして結構な発言してたと思うが。結果傷つけられてないから相手が違うと? 意味が分からない。てめえの謝罪なんか受け入れないって意味か…
「その、ごめんなさい」
カバネと呼ばれた男は黙っている。無表情という訳ではなく、呆気にとられた様な印象だ。それを見兼ねてか追い討ちをかけるように───
「何をして?」
この女の詰め方懐かしー。先生にこれ言われた時まじぶっ殺してやろうかと思ってたんだよな。この自分の非を認めさせられて、「ごめんなさい」のセットが、プライド的なものすり減らされる感覚があるから嫌いだったんだな。妙にガキっぽくて。やべ、惨めで泣きそう。
「怪我させてごめんなさい」
「…え、あ、うん。え? あ、いいよ。気にしないで」
混乱。この一言に尽きる様子だった。
「あ、アマナにも一応、謝ろ、っか?」
「アマナさん…」
「何をして、ごめんなさい?」
うわぁああ! 逃げ出してぇ…。これ自分で言うのまじキツい! あぁ、元から無いようなプライドとか捨てよう。えっと、なんていえばいいんだ?
…やっぱ逃げようかな。
『少なくとも君よりも僕の方が能力というものに詳しいだろう。何か力になれることがあるはずだ』
この力が何なのか聞ける相手なんてこいつ以外に居んのか? 居るかもしれない。だがいつ来るかもわからんチャンスのために待っていられる訳がねぇ。だからここで逃げる訳には行かない。
「女の、その、ち───
羞恥心で顔が熱くなっていく。と同時に、恥ずかしいという感情がまだ残っていたことに少し驚愕する。
───見ようとして、ごめん…なさい…」
無理やり言葉を言い切った。自分を見る顔には心当たりがある。哀れみだ。可哀想なやつを見る顔だ。
胸に渦巻く思いは、この世から消えて無くなって、忘れた頃に復活したい。都合のいい妄想だが、あぁ、竜宮城行きたいな〜…いやまぁ俺自分で似たようなことできるか。なんて現実逃避するのだった。
「…ねえ、何歳?」
「…なんで、んな事聞くんだよ。数えてねぇよ」
「名前と生年月日」
「…天宮 良出会。二千××年七月七日生まれ」
「誕生日まだか…って…え? まだ九歳…!?」
イデア、本来であれば、小学四年生の歳である。