他人ん家の前で
私が寝てる間に周辺のことを調べて分かったことは、あの家を中心に半円状のドーム空間ができているそうで、そこに触れると反対側に飛ぶんだとか。
実際試しに外に出ようとしてみると、家を挟んで反対側の端から入り直すと言う不思議体験ができた。
「僕のせいでこんな変な場所に、本当申し訳ない…」
「謝らないでよ。良かれと思ってやってくれた事だろうし」
そもそも帰る場所もないので移動範囲を拘束されたところで状況は元々絶望的なのだ。
「でも、ちょっと…一人にして」
「本当ごめんね、でも何が起きるか分かんないし一人にならないほうが…」
「あ、怒ってるとかじゃなくて、本当にすぐ戻るから、待ってて」
「何するの?」
「…いや、その、ここに長居するなら…服とか、洗いたくて」
「服?」
カバネは何か考えながら、服に視線を向ける。下に視線を流した直後、気が付いたように天を仰いだ。
「…分かった」
あの黒い化け物を見た直後やってしまった訳であるが。まぁ、抱き抱えられてる時からずっと気がかりではあったのだ。
ここから出られないとなれば飲水は必要だ。本当は温存しておいた方がいいのだろう。三本しかない貴重な飲み物である。
でも、そう。バイ菌とか嫌だし…背に腹はかえられない。
サッと廃墟の裏手に回りこんで取り掛かる。外で下着まで脱ぐというのはなんとなくイケナイ気分になるが、スカートを履いているから幾分かマシだ。湿気から開放された事でかなりスーッとした気分になった。逆に今までよく耐えられたものである。
短パンの方も多少湿っているが、ポケットの部分は無事だったので、ライターとカッターをバックの方に移しておく。
500mlで二つとも洗えるか不安になる。とりあえず下着だけ何度か水をつけて絞る。
割と綺麗になったので、これで拭く事にした。何処野暮だと思う。汚いと思うだろうか? だが考えて見てほしい。例え着る服が綺麗になったとして、元が汚れていたら本末が盛大に転んでしまう。水を直接掛けて流すという選択肢は無い。びちゃびちゃに濡れた足を拭うものが無いし、そんな無駄に使える水もない。
絞って拭って、また搾って…それを何度か繰り返すと水を使い切ってしまったが、ある程度綺麗になったのでこれで良しとする。
これ何処に干そう。木の枝に引っかかるのは何か嫌だなぁ…と思っていた時、
「お前、何やってんだ? 他人ん家の前で」
背後からの声にビクッと跳ね上がる。声からして明らかにカバネでは無い。事前情報で出られない空間だと言われていた為、今人がいない以上ここは空き家だと安心しきっていたのだ。
「お前、何股ばっか拭いてたんだ?」
恐怖で身動きが取れないでいると追加で投げられた無遠慮な言葉の数々に絶句する。この人もなんかやばい。逃げなきゃ!
カバネのいる方へ走り出そうとした瞬間。
「おいどこ行くんだよ」
声の方向は後ろから前に変わり、その男が目の前を塞いで顔を覗き込んでいた。不自然な話だが、今まで見ていた景色に、突然男が現れた形だ。
肌は若そうに見えるが、ボサボサの長い髪に伸ばしっぱなしの髭、清潔感の欠けらも無いその見た目に、嫌悪感を隠せなかった。
「なんだ。可愛い顔してんじゃねぇか。そのスカートの下、見せてくれよ。さっき散々拭いてたって事は今履いてないよなぁ?」
憎悪が脳裏で増殖していく。何か言わなきゃとも思うが、疑問と恐怖が脳裏で言葉の生成を阻害する。
「や、やだ」
辛うじて押し出した言葉に男は嬉しそうに答えた。
「減るもんじゃねぇだろ?」
何を答えても「はい」と言うまでこの人は言葉を辞めないだろうと理解する。だがそれは無理だ。乙女的に、それに生理的に無理である。結果、助けを呼ぶという考えに至った。
「か、カバネ!!」
「あ、カバネ? 返事じゃねぇな。会話出来ねぇのかお前?」
「は、早く来て!」
自分が動かないでと言ったから発生した言葉のワンラリー。それすらもどかしく思う。
「…んだよ。男いんのかよ。だから嫌がってたんだな」
カバネが顔を覗かせる。洗っていたものを握りしめるアマナと、そのアマナの顔を覗き込む謎の男。
「…どういう状況?」
「…あの男が気がかりなんだな」
次の瞬間、肉を裂く鈍い音が聞こえた。
男はカバネの背後を取っていて、カバネの腕から何かが飛び出していた。いや、貫かれていた。後ろ側から前にかけて。それは先を人為的に尖らせた様な木の枝で、突き出た枝から鮮血が滴り落ちる。
「…アマナ。ちょっと離れて隠れてて」
何も理解できなかった。男が瞬間移動してカバネを刺したように見えた。
何でいきなり攻撃したのか、何でそんな躊躇いもなく人を刺せるのか、どうやって移動したのか、そもそもいつから居たのかと、何も分からないまま疑問だけが増殖していく。
自分がカバネを頼った。いや、巻き込んだのだ。
ただ自分が近くにいても邪魔にしかならないという点において論ずる余地もないので、
「う、うん」
震える口で答え、胸の中で恐怖と罪悪感が締め付ける胸を抑えながら、すくむ足で木陰に隠れた。
カバネは背後の男に肘を入れ、怯んんだ男の腕を掴み、素早く噛み付く。
「よかった、ちゃんと出来た」
「…は?」
まさか噛みつかれるとは思ってなかったのか、慌てた男は振りほどき、大袈裟に引き下がった。
私も驚いている。あんな薄汚れた浮浪者の腕なんて、例えそれが最も有効な攻撃だとしても噛もうとは思わないだろう。少なくとも私は気持ち悪くて無理だ。生理的に受け付けない。
だがカバネはきっとそこら辺の感覚が抜け落ちている。ゴキブリだって平気で食べれる人間なのだから。
怪我した腕を使うより噛みつきの方が良いと判断したのだろう。
「折角なら首とか狙えばよかったのに」
「…すぐ終わったらつまんねぇだろうが」
男は再び襲いかかる。やはり何度見ても動きが目で追えない。姿が消えて、気がついたら場所が変わっている、という感じだ。
カバネはその攻撃を受け流し、そのままの流れで蹴り飛ばす。
「お前、目で追ったな?」
「まぁ、来るとわかってればね」
男は明らかに狼狽している。きっと避けられるという経験そのものが初めてだったのだろう。
「あっそ」
そう吐き捨てると、次の瞬間、カバネの背後に男の影があった。