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プリザーブドフラワー

作者: さよのなか

季節が変わると見える世界の在り方まで変わったように感じるのはどうしてだろう。

冷たい空気から身を守るための厚手のコートを着ている者はもういない。

服の色合いも、黒や紺色といった重たい色から白やピンクといった温かみのある軽やかな色へと変わっている。


凍えるような冬が終わり、ついに春がやってきたのだ。

カメラのフィルターをパッと切り替えたように、以前より世界が明るく輝いて見える。


春の陽気の中、出かける人々を僕はぼーっと窓越しに眺める。

「暇だなあ、、、。」

昼食にまかないのナポリタンを食べ、襲いくる欠伸を噛み締めながら1人呟く。

「そんな君にカップ磨きの任務を与えよう。」

マスターが帳簿に目を落としながら言う。

「それはさっきやりました。これ以上磨くと模様が消えちゃいますって。」

僕は溜息をつきながら再び窓の外に目をやる。


僕のバイトする喫茶店は大学のすぐ近く、古い雑居ビルの2階にある。

いわゆる古い純喫茶といったような雰囲気で、木のテーブルと椅子、壁際には赤いサテンが貼られたソファ、入って奥側がカウンターとキッチンになっている。

客はほとんどが大学の学生たちで、他は老後の暇を潰す近所のお爺さんが新聞を読みに稀にやってくるくらいだ。

普段は授業をサボって暇を潰す学生や、逢瀬を楽しむカップルなど、それなりに賑わっている。

知る人ぞ知る憩いの場といった感じの喫茶店だ。

ところがここ最近は穏やかな(苦痛とも言える暇な)時間が流れている。


大学が春休みに入っているためだ。

3年は就職活動、4年は卒業前に最後の自由を謳歌せんと遊びに旅行にと忙しい。

春休みにわざわざ大学に来るような学生は少ない。

1、2年生もわざわざ喫茶店には来ない。昼間はサークル活動、夜は飲み会で馬鹿騒ぎだ。


かく言う僕も大学3年だが、身の入らない就職活動の合間にこうして小遣いを稼いでいるというわけである。

どう考えても売上よりも人件費の方が高そうなバイト先に若干の心配を抱きながらも、僕は今日も客のいない店内で無為な時間を過ごしている。

マスターもついに僕に話しかけることすら飽きたようで、テレビを観始めた。


決して僕もたくさんのお客さんが来て大繁盛してほしいと願うほどの敬虔なアルバイターではない。

むしろ暇な時間は大好きだった。

しかし最近は、なかなか進まない時計の針にもはや気が狂いそうなほどにこの暇が苦痛だ。

この時間を愛せなくなった理由は実は他にある。


先輩がこのバイトを辞めてしまったからだ。

この喫茶店にはつい最近まで、僕と別にもう1人のバイトがいた。

同じ大学に通う4年生の先輩である。

後ろで束ねた長い黒髪と穏やかな声が黒色の制服に合う、とても綺麗な人だ。


そして僕はこの先輩に恋をしていた。


僕は大学3年に上がる時にこの喫茶店で働き始めた。先輩はそのずっと前から働いていた。

先輩も僕もサークルには属さずに、授業以外はこの喫茶店で働いて過ごす。

文化祭でステージに立ったり露天を出したりと、華やかな大学生活とは程遠い日常ではあったが、僕はこの喫茶店で働く時間が好きだった。

いや、この喫茶店で先輩と過ごす時間が好きだった、という表現の方が適切かもしれない。


先輩は基本的にはあまり自分からは多くは話さない人だった。

バイト中も、ときどき窓の外の景色をぼんやりと眺めていることがあった。

そんな先輩の醸し出すミステリアスな空気に惹かれたというのもあるだろう。

いつの間にか先輩のことを深く知りたいという情動が自分を支配していた。

この一年、お客さんの少ない時間には先輩と様々なお話をした。


永遠に続きそうなつまらない講義も、今日は先輩に何を聞こうか考えれば一瞬に感じた。


常連さんの話、つまらない授業の話、友人と美術館に行った話、両親と喧嘩した話、最近読んだ本のラストの話、散歩中に聴く音楽の話、昔見たSF映画の話、実はコーヒーは飲めない話、高校の頃の話、お互いの性格の話。


そして、これからの話。


去年の秋頃だったと思う。

秋雨がしとしとと降り続き、お客さんもまばらな静かな午後だった。

2人で窓の外をぼんやりと眺めていると、先輩が突然口を開いた。


「ねえ、人ってどうして生きるんだろうね。」

「えっ?」


突拍子もない質問に思わず驚いてしまった。

横を向くと、先輩は窓を伝う雨水を変わらず眺めている。


「これから何年も、何十年も同じような毎日を繰り返すんだよ。そして最後には結局死んじゃう。それって幸せなのかな。」


僕は返答に困り、磨いていたカップに目を落とした。

先輩も大学4年生だ。半年後に迫り来る社会人生活にきっとナイーブなっているのだと僕は思った。


「どうなんでしょう。でもきっと、楽しいことも待ってますよ。僕はまだ来年ですけど、就職したら新たな世界を知れるんじゃないですか。」

「そっか、、。確かにそうかもね。まだ分からないよね。」

先輩はこちらを向いて、恥ずかしそうに微笑んだ。

細めた目から覗く瞳はどこか悲しそうで、暗く濁っている気がした。


僕はこの時には全く知らなかったのだ。

先輩がどんな想いで、どんな苦しみを背負って日々を過ごしていたのかを。



それを知ったのは、12月に入った頃だった。

キャンパスの並木道は枝だけの寂しい姿となり、すっかり冬景色だった。

喫茶店ではストーブが2台、常にフル稼働していた。

僕はバイト後に、先輩と一緒に帰っていた。

夜道を先輩と2人で帰る時間は、緊張するけど大好きな時間だった。

会話のない時間も多かったけど、先輩との間に流れる沈黙は不思議と嫌じゃなかった。

喫茶店から駅までは、川沿いの細い道をずっと歩く。

川沿いには桜の木が立ち並び、横は細長い公園になっている。

春には川を覆うようにピンク色のトンネルが出来上がり、多くの花見客で賑わうのだ。

卒業する先輩と共にこの桜の下を歩く風景を、僕は想像した。


歩きながら僕が空想に耽っていると、

「少し寄り道しようよ。」

先輩はそう言うと公園へと入っていき、ベンチを目指した。

先輩の方から何かを提案してくるのは珍しかった。

嬉しかったけれど、先輩にそのような浮かれた空気はなかった。


川の方を向いたベンチに2人で並んで座る。

夜空に向かって寂しく伸びる桜の枝と、その下を流れる川の音だけがそこにはあった。

僕はコートのポケットに手を入れ、先輩が話し始めるのをじっと待った。


1分ほど沈黙が続いた。

「寒いね」

先輩は両手を口に添えて息をあてながら言った。

「もうすっかり冬ですね。今年もそろそろ終わっちゃいますよ。」

「時間が経つのってあっという間だね、本当に。」

先輩の声は、白い息と共に夜空へと消えていくようにか細かった。

冬の気温や景色は不思議と終わりへと近づいているように感じさせる。

寂しさと愛おしさが混ざって、胸が苦しくなった。


「人生をやり直したいなって、思うことある?」

俯く先輩の顔は、髪に遮られて見えない。

「たくさんありますよ。」

そう、たくさんあった。本当にたくさん。

「僕は全てが中途半端な人間なんです。小さな時は、いろんなものに興味がありました。サッカーを習ったり、星の名前を覚えたり、楽器に触れたり。塾に通ってそこそこの成績も残していました。」

自分の話のはずなのに、誰か他人の説明をしているようだった。

「でも、どれも続かなかった。いや、辛くなった時に無意識に他のものに興味を移していたのかもしれません。そしたら結局、何も持たずにこんなところまで来てしまいました。」

自分から出る声が、どんどん低くなっていく。

「気づいた時にはもう遅かったです。心はもう冷めきっていて、昔は人のことも大好きだったのに。今じゃ、上辺だけの付き合いだけが上手くなって。優しいねって言われる度に苦しくなります。」

虚しさを誤魔化すように、次から次へと言葉が出てきた。

「全てを人並みにこなせることはきっと贅沢なことです。でも、全てを奪われたっていいから、絶対的な何か一つを持っている人生がよかった。頭じゃなくて、心で何かを愛してみたい。」

今までこんな話、誰にもしたことはなかった。

自分の弱い部分、暗い部分は誰にも見せないようにして生きてきた。

でも不思議と先輩なら話してもいい気がした。

先輩はどこか自分と似ていると感じていたからだ。

先輩なら受け入れてくれるんじゃないかという期待があった。

弱い部分も含めて、自分のことを知って欲しいとさえ思った。


先輩は俯きながら、黙って僕の話を聞いていた。

「先輩は、今の自分が嫌いですか?」

「うん、大嫌い。とっても。」

膝の上に置いた手が、ぎゅっと握られていた。

「先輩の話も、聞かせてください。」


先輩は小さな覚悟を決めたように、顔を上げて言った。

「私ね、呪われてるの。」


「生きることが恐ろしくなる呪い。」


以前、先輩がバイト中にも突然似たような話をしてきたのを思い出した。

先輩はずっと1人で、思い悩んでいたんだ。

「『人生は一度きりだから楽しもう』なんて言葉があるでしょう?簡単にみんな言うけれど、本当に楽しめているのかしら。」

何度も聞くせいで当たり前のようになっていて、確かにそこまで深くは考えたことはない。前を向くためにのある種の記号のようなものに成り下がりつつあるのかもしれない。

「私にはね、恐ろしくて仕方ないの。人生は一度きり。必ずその先には死が待っていると思うとね、怖くてその場から動けなくなるの。」

「ずっと、その恐怖と戦って生きてきたんですか?」

「ううん、私もね、君と同じ。昔は違った。もっと純粋に人生を楽しんでた。毎日が楽しかった。自分も他人も愛せていたと思う。」

「じゃあ、どうして、、。」

先輩は少しだけ間を置いて答えた。

「高校3年生の時ね、母親を亡くしたの。」


時間が止まったような気がした。

それまで聞こえていた川の流れも、遠くから聞こえる大通りを走る車の音も、全てが聞こえなくなった。


「突然のことだった。受け入れられない日々が続いたんだけどね、人間の適応力っていうのかな。凄いけど残酷だよね。母親のいなくなった世界もそのうち受け入れてしまったの。」

先輩がバイト中、ぼんやりと遠くの景色を眺めている姿を思い出した。先輩にはどんな世界が見えていたんだろう。

想像もつかなかった。それはたまらなく悔しくて、情けなかった。

「でもひとつだけ遺ったものがあった。人は本当に死んでしまうんだ、死んだら全てが無くなってしまうんだという強烈な現実だけが私の心に刻まれたの。それ以来ね、私は呪われちゃった。」

先輩は、力無く笑った。


「就活って、将来のことを考える時間でしょ?」

「そうですね。まさに今悩まされています。」

「私もたくさん考えたよ。でも考えるたびに、その先で全てが無になってしまうと思うと、生き続けることが堪らなく恐ろしくなるの。」

僕は果たして、本当に将来のことを考えられていたのだろうか。結局は目先の内定のために言葉を取り繕っているだけなのかもしれない。将来だとか人生だとか問うてくる側の大人達ですら、疑ってしまう。先輩だけが1人、孤独に現実と向き合っている気がした。

「かといって、死にたいとも思えないんだ。このまま何もせずただ時が流れるのを傍観して、命が終わる時のことをベッドの中で想像してみるの。きっと私は何の価値もなかった人生を思い返して絶望する。そして、何も出来ずに死ぬことがたまらなく恐ろしくなるに違いない。身体が引き裂かれてしまうような苦痛がそこには待っているの。」

先輩の声はどこまでも一定で、冬の空気のように冷たく乾ききっている。


「生きることも怖いし、死ぬことも怖い。そんな呪い。終わりの見えない金縛り。」

遠くの街灯を見つめる。喉が詰まる。

かける言葉を必死に探した。でも見つからなかった。

僕のどんな言葉も、先輩の心に届く気がしなかった。

沈黙が続いた。


「私、いつかは救われるかな。」

横から聞こえる先輩の声が先ほどとは変わる。

「もう友達の笑顔を見るのも辛いよ。私もあんな風に、自分をまた愛せるかな。」

震えた声が、聞こえる。それは寒さのせいではなかった。


「助けて。」


先輩は、泣いていた。

夜の静寂に、先輩の嗚咽が滲む。

先輩を救うことが出来る言葉を、僕は持っていない。

小さな肩が小刻みに震えている。

言葉がないなら、その小さな身体を抱きしめてやりたかった。

でもそれも出来なかった。僕にはその権利がなかった。

大好きな人が目の前で泣いているのに、何も出来ない自分がどこまでも情けなかった。


僕はただ夜空を見上げることしかできなかった。

晴れているにも関わらずそこに星はなく、冬の夜空はどこまでも純粋な暗闇を湛えている。

都会の空じゃ星は見えない。

孤独に輝く星たちに、この世界は眩しすぎた。




「ごめんね、帰ろっか。」

しばらくして先輩は泣き止むと、立ち上がった。

「そうですね。」

落ち着いたようで、先輩は優しく微笑んだ。

僕たちは再び川沿いの道を駅に向かって歩き始めた。


狭い道を先輩と歩く。無意識に先輩の方へと身体を寄せてしまう。

触れないように気をつけて歩いた。

本当は触れたくて仕方なかった。

気安く触れてしまえば、壊れてしまいそうで怖かった。


「先輩は、卒業したらどうするんですか?」

僕は思い切って聞いてみた。

「ずっと黙っててごめんね。私ね、実は就職しないの。」

初めて聞いた。春頃、リクルートスーツ姿でバイトにやってくる先輩をたまに見ていたため、てっきり就職するのだと思っていた。

「内定、辞退したんですか?」

「うん、そう。辞めちゃった。」

先輩は、軽やかな調子で言った。

「このまま就職しても、きっと心をもっと駄目にしちゃうと思ったの。」

「じゃあ卒業はしないんですか?」

「ううん、卒業はするよ。その後のことは、今はまだ考えてないや。」

「じゃあ卒業する時は、またこの道を一緒に歩きましょうね。」

僕は頭上を覆う桜の木を見上げて言った。今はまだ、寂しい枝だけだ。

先輩も一緒に見上げる。

「いいね、きっとすごく桜が綺麗だろうね。それまで就活頑張るんだよ。バイトばっかりしてちゃダメだからね。」

「うう、、、耳が痛いです、、。」

先輩が卒業するということは、バイトからもいなくなってしまうということだ。

「先輩がいなくなっちゃったら、寂しくてきっとバイトのモチベーションも下がると思います。」

先輩は少し恥ずかしそうに笑った。

「そんなことないよ。私がいなくても大丈夫だよ。うん、きっと大丈夫だから。」

「そうだといいんですけどね。」

僕も笑った。

表情は見られないように、先輩の方は向かないようにして。

きっと顔は笑えていなかったから。



そう、違う。違うんだ。

僕が本当に欲しかった言葉は。

「大丈夫」じゃないんだ。


「私も寂しいよ」

そう言って欲しかった。

僕はその言葉が、欲しかったんだ。




年が明けると、先輩はバイトに来ることが少なくなっていった。

学生最後の時間を大切に過ごそうとしているのだと僕は思っていた。

しかし今思えば、先輩はきっと、どこかへ消えようとしていたのだろう。

この眩し過ぎる世界から、その身を隠そうとしていたんだと思う。



そして先輩は、バイトを静かに辞めていった。

先輩がいなくなった喫茶店で、僕はいま退屈な時間を過ごしている。

春空の下を仲睦まじく歩くカップル達を、ぼんやりと眺める。


僕は結局先輩に想いを伝えることが出来ないままだった。

卒業する時が最後のチャンスだ。

きっと先輩は、卒業式には来ないだろう。だからこちらから誘う必要がある。

バイト後、僕は勇気を振り絞って先輩にメッセージを送ることにした。

先輩とのトークを開く、そこには業務連絡のようなやりとりしかなかったけど、先輩と過ごした時間が確かに証として残っていた。

先輩の真っ白なプロフィール画像。

ここに鮮やかな色を付けてあげられたなら。そんなことを考えた。


『卒業する前に、一緒に桜を観に行きませんか?』


何度も推敲して、やっと送ることができた。

3ヶ月前、共に歩いたあの夜のことを思い出していた。

返信が来なかったらどうしよう。そんな不安に襲われてスマホを開くのが怖くて仕方なかった。

返信は、思っていたよりも早くきた。


『いいね。いつ行こっか?』

『20日の日曜はどうですか?』

『大丈夫だよ。じゃあ、13時に大学の正門でどう?』

『はい!すごく楽しみです。』

『私も楽しみにしてるね。』


一つ一つの文字を打つのに、指が震えた。

帰りの電車の中で、先輩との今までのトークを全て見返した。

全ての会話を鮮明に覚えていた。

どこでメッセージを送っていたのか、どんな気持ちだったのか。

全てを覚えていた。



週末、先輩の卒業祝いのプレゼントを買いに池袋まで出た。

駅ビルのデパートに入る。目当ては、花だ。

でも、ただの花束じゃない。

プリザーブドフラワーを渡すことにした。


いろいろと調べている時にたまたま見つけたのだ。

プリザーブドフラワーとは、生花を長期間でも楽しめるようにと加工したものらしい。

一度色素抜いて、染料を吸わせる。

本物の花の質感でありながら幻想的な色で、かつ半永久的にその姿を楽しめるものだ。


その存在を知って即座に決めた。

ただの花束では、ダメだった。

渡したところですぐに枯れてしまうのが悲しかった。

一時の幸せじゃなくて、この先もどうか先輩に幸せが訪れますように。

先輩の人生にどうか僕の想いが寄り添ってくれますように。

先輩はこのまま僕の世界からも消えてしまう気がしていた。

だから、このプリザーブドフラワーが咲き続ける限り、僕と先輩の世界が綱がっていますように。

たくさんの願いを込めて、僕は青い薔薇のプリザーブドフラワーを買った。






19日、先輩と会う前夜。

僕は机の上に置いたプリザーブドフラワーを眺めていた。

先輩に渡す時のことを、先輩の笑顔を、何度も想像した。

スマホの通知が鳴る。

僕は画面を見た。

そこには先輩の名前があった。




『ごめんなさい、やっぱり会えない。ごめんね。』




全身の力が、抜けていくのを感じた。

理由なんて、聞かなくても分かった。


僕に、先輩の「呪い」を解くことは出来ないということだった。


何も考えられなかった。

何も考えたくなかった。


どうしたらいいか分からなくなって、僕は家を出た。

夜の住宅街を彷徨った。

目の焦点を合わせるのが難しかった。

足がおぼつかなかった。

転びそうになった。いっそのこと転んでしまいたかった。

そのまま車に轢かれて死んでしまえとすら思った。

でも、転ばなければ、車も通らない。

大声で泣きたかった。でも涙も流れない。

ふらふらと歩く男が1人。中途半端に生かされる男が1人。



大嫌いな自分を、ついに肯定してあげられる気がしていたんだ。

クソみたいな人生だけど、全てはこの春の日の為にあるのだと思えば報われるような気がしていたんだ。

もう何も愛することはできないと思っていた自分の心の中に、温かくて優しいものが生まれていた。

上辺だけの付き合いで人形だらけの世界で初めて、僕以外の存在に出会えたんだ。


彼女以外には何もいらなかった。

でも彼女にとっては、僕は必要な存在ではなかったのだった。



彼女はこのまま僕の世界から消えていくのだろう。

でも彼女への想いはきっと残り続ける。

僕は彼女のことを忘れることは出来ない。

呪いのようにこれからも僕の中から消えることはない。


歩き疲れて家に戻ると、机の上では青い薔薇のプリザーブドフラワーが

綺麗に咲いていた。

彼女への想いがそこに形として確かに残っていた。



消えてくれと強く願った。

この花が枯れてくれたなら、彼女のことも忘れられただろうか。

この苦しみもどこかへ消えてくれるだろうか。



「枯れてくれよ、、、。」

「頼むからさっさと、、、、枯れてくれよ、、、。」




プリザーブドフラワーは狂気的な鮮やかさで、変わらず咲き乱れていた。

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