夕焼けを焼き尽くしたその先に
家紋 武範様主催の企画、『夕焼け企画』の参加作品になります。
本当に、すごい夕焼けだった。
小学生だった当時、放課後の田舎道で、私と、隣近所の友達だった康明は、その光景にすっかり心を奪われてしまった。
空は世界を丸ごと包み込んでしまいそうな赤色で、太陽はどんな財宝よりも輝く黄金色の光を放ち、山のてっぺんに火をつけて、本当に燃え上がっているかのようだった。
現在の私の言葉を借りるならば、それは人の胸中に燃え上がる情熱の炎を、余すことなく体現していたと言えよう。
「すっげぇ……」
「超キレイじゃん」
私たちはスケッチブックを小脇に抱えたまま、道の真ん中でしばらく突っ立っていた。私と康明はクラスメイトには内緒にしていたが、絵を描くのが大好きで、放課後にはお互いの作品をこっそりと見せ合った。
まだ子どものお絵描きの延長線みたいなものだったが、それでも真剣にやっていたし、将来は絵を描く仕事をしたいと常日頃から言い合っていた。
「いつか、こんな夕焼けみたいな絵を描いてみたいな」
今でも、この一言は言うべきではなかったと後悔することがある。
「そうだ! この夕焼け、絶対描いとかないといかんわ!」
康明は布団から跳ね起きたかのような勢いでスケッチブックを開きはじめた。
「まてよ康明、今からこの夕焼けを描くつもりかよ」
「そうだよ、今を逃したら、永久にチャンスが来ないかもしれないだろ!」
「そんなこと言っても、太陽はどんどん沈んでいくし、間に合わねえよ。それに今の俺たちの腕前じゃ、あんなすごい夕焼けを描けるはずが……」
「勇也が描かねーのなら俺だけでも描くよ! 山の向こうまで追いかけてでも、あの夕焼けを描ききってやる!」
康明はスケッチブックを腕に抱えて、赤鉛筆を持った手を急か急かと動かしながら、山の方へと駆け出してしまった。
「あーあ、あいつったらホント、火がついたら止まんねーな」
私は呆れながら康明を見送った。康明の性格をよく知っていた私は、しばらくすればエネルギー切れで帰ってくるだろうと高を括っていた。
「しかし、本当に綺麗だなぁ……。もし画家になれたら、絶対この夕焼けを描こう」
私は夕陽が山の向こうに沈むまで、その場でぼんやりと眺め続けていた。
その日の翌日、私は職員室に呼び出され、康明の行方について尋ねられた。康明は一日経っても自宅に帰っていなかったのだ。
嫌な予感がした。
私は知っていることを包み隠さず先生に伝えた。それから三日間、康明の捜索が行われた。その間の私は心ここにあらずの状態で、学校や家で何をして過ごしていたのか、まるで記憶にない。
三日後の土曜の朝、康明は遺体で発見された。
見つかった場所は、なんと山の向こう側にある小さな浜辺だという。
つまりあの後、康明は田舎道を駆け抜け、そのまま山に入り、山を越えた先の浜辺にたどり着き、挙句の果てに波に攫われ溺れてしまったのだ。そこまでして、康明はあの夕焼けを描き残そうとしていたのだと思う。
私は家で待機するよう言われたが、担任の先生に頼み込んで浜辺に同伴させてもらった。康明の死が信じられなかったのはもちろんだが、自責の念もあったのだろう。
あの時、俺が康明と一緒に夕焼けを追いかけていたら――。
浜辺には康明の両親と先生たちを含め、数人の大人たちがいた。康明の遺体は砂地のなだらかな場所に置かれていて、誰かが着ていたと思われる臙脂色のジャンパーが覆いかぶさっていた。
「先生、康明は本当に死んだんですか。顔を見ていいですか」
私の一言に担任の先生は困った様子を見せたが、康明のお父さんは親友だということで特別に許可してくれた。
ゆっくりと、ジャンパーの襟首が持ち上げられる。
そこから現れた康明の顔は、青白く、水を吸った頬が膨らんでいたが――笑っていた。
それを見た私は、悲しい気持ちがスッと溶けてしまい、逆に安堵で満たされたのを覚えている。遺品であるスケッチブックは海水でボロボロになっていたが、私は確信していた。
康明、あの夕焼けを描ききったんだな。
葬儀が終わり、新しく造られたばかりの康明の墓前で、私は約束した。
俺も、いつか康明に見せに行くよ。俺が描いた夕焼けを、きっと。
********
「もしもし。はい、どうも、お世話になっております。ご依頼のイラスト、先ほど完成画が上がりましたので、メールで送らせていただきます。ご確認をお願いしますね」
あの事件から30年余り。私は都会に出て、絵描きを生業とする職業に就いていた。
画家――のつもりで活動していたし、今だってアトリエで創作を続けているが、世間では注文を受けてその通りの絵を描く、イラストレーターと名乗った方が通りがいいだろう。ある時は絵画教室の指導員なども請け負っている。
贅沢に興味がない絵描きとその家族が暮らしていくぶんには、十分な収入があった。傍目から見た私は、ごく一般的な家庭の長として、立派に役割を果たしているのだろう。
しかし、私の心の中には、幼いころの約束がしこりになって残り続けていた。
「これで今週の依頼品は片付いたか。よし、アトリエに行こう。今度こそ夕焼けの絵が描けるかな」
そう、あの時の夕焼けが、まだ描けていないのだ。
いつか描くと誓った、あの素晴らしい夕焼け。私がこの道に進んだきっかけである夕焼け。そして、康明が命を賭けてまで描きあげたあの夕焼けが。
もう青い時期は通り過ぎて、今では立派なおっさんだ。夕焼けの記憶は年月とともに薄れていき、おぼろげな、陽炎のごときイメージが浮かんでは消えていく。もちろん焦りもあった。スケジュールに余裕ができれば、例外なくアトリエに足を運んだ。
「……こんな色だったか? 違う、もっと輝きが……」
だが、キャンバスの上に再現した夕焼けは、どんな色を使っても、どんな技術を使っても、これではないと他ならぬ私自身が拒絶し続ける。結局この日も、下絵の段階で反故にしてしまった。
半端なまま、アトリエの角に積み重なっていく夕焼けたち。どうしようもなく項垂れていると、床に一本の白髪が落ちているのに気がついた。
ふと、大学の講師に自分の作品を批評された時のことを思い出す。年齢の割には、やたら白髪の面積が広い講師だった。
『勇也さん、あなたはとても器用で、絵の仕上がりもよくまとまっています。ですが、もっと絵に情熱を出してほしいですね。人の心に響く絵を描きたいなら、同じくらいに自分の心も響かせる必要があるのですよ』
私は床の白髪を足で払いのけると、そのままアトリエを後にした。
「えっ、来年新設される美術大学の臨時講師を?」
「そうなんだよ、勇也君。君の指導は以前から評判が良かったんだが、それが大学関係者の耳に入ってね」
絵画教室の室長が渡したA4封筒の中には、大学のパンフレットと、申込書と覚しき書類がいくつも入っていた。
「すまんね、何しろ新設だから、今のところ学生向けの資料しか無くて」
「いえいえ、そんなの気にしませんよ」
室長も昔は大学で講師をしていたと聞いたことがある。おそらくはその伝手で私にオファーが来たのだろう。
「勇也君の地元は、その大学の近辺だったな」
室長のその一言で、資料を流し読みしていた私の手が止まった。封筒の裏側を見ると確かに、私が生まれ育った町の住所が、大学の名称とともに記されている。
「君はデジタルアートにも造詣が深いからな、それで白羽の矢が立ったんじゃないか。ここでひとつ、地元に新しい風を吹かせてみたらどうかね。収入だって、これまでよりもずっと安定すると思うよ」
新しい、風。
安定した、収入。
聞こえのいい室長の勧誘を反芻していると、私の心に残っている夕焼けの風景に、薄惚けた白い霧が立ち込めていくようだった。
結局、私はそのオファーを受けた。
事務的な手続きはインターネット上で済ませ、メールで送られてきたシラバスを確認したところ、実際に教壇に立つのは年度後半の見込みのようだ。
講師として招かれている期間中は近隣に滞在する必要があるので、私はマンスリー物件を探すため、久しぶりに地元へ訪れることとなった。今は両親も私たちと暮らしているし、ご先祖様のお墓も移設しているので、十数年ほど立ち寄る機会すら無かったのだ。本当に久しぶりだ。
車窓から見える地元の風景は、あの時とは少し視点は違っているけど、懐かしい記憶を呼び起こすには十分だった。公道を道なりに走っていると、かつて通っていた小学校が徐々に姿を現しはじめる。屋上のフェンスには、開校150周年を祝う横断幕がデカデカと掲げられていた。
いつか廃校になるだろうと思ってたけど、良く持ちこたえたもんだなぁ。
母校にそんな感想を浮かべつつ、その周辺をぐるりと回ってみる。
赤みの差した光に照らされた校舎は、ほとんど記憶通りの外観を残していた。多少は改装なり修繕工事なりしているんだろうが、相変わらず壁はくすんだ灰色で統一されていて、地味な印象がぬぐえない。あの頃の先生方はどうしてるんだろうか。私が大学の臨時講師になると言ったら、びっくりするかな。
気まぐれに公道から離れた所へ進んでみると、砂利だらけの田舎道が続いていた。もちろんアスファルトなんて敷かれていない。
なんだ、学校の周辺はほとんど昔のままじゃないか。校舎も、田舎道も、空だってあの時の――。
――なんだって?
自分の思考を疑った。アクセルから足が浮き、ゆっくりとブレーキに移動する。車が停止すると、今度は自分の眼と記憶を疑うことになる。
嘘だろう?
真っ赤な空。金色の太陽。火がついたように輝く山際の光。あの夕焼けだ。私の記憶が確かなら、あの夕焼けと寸分の違いも無い光景が、私の目の前にある。
私はしばらく固まっていたが、何羽かの烏が太陽を横切った時、我に返った。
そ、そうだ。
これはチャンスだぞ。
この夕焼けを描かなくては。
し、しかし今は本格的に描くための画材が無い。
ならスケッチだけでも。
いや、それよりもスマホで撮ったほうがいいか。
「勇也」
懐かしい声がした。助手席のビジネスバッグを引っ搔き回していた手が止まる。
「おい勇也、早くしないと沈んじゃうぞ」
前を見ると、田舎道の真ん中に、一人の少年が夕日を背に受けて、佇んでいた。
康明。
あの頃のままの康明。
スケッチブックを持って、笑っている。
私の車の前にいる。
いやそんな、馬鹿な。
こんな事あるわけない。
「なにボケっとしてんだよ。ほら、追いかけようぜ」
窓も締め切っているはずの車内に、康明の声が聞こえてくる。もしかして、私自身に直接届いているのだろうか。そんな透明感のある声だった。
「行くぞ、遅れんなよ」
「や……康明! 待てよ!」
康明は夕焼けの方へ向き直ると、走り出した。私も慌てて足をアクセルに移し直して、康明の後を追った。
異常な速さで、康明は舗装されていない道を走っている。車に乗っている私のほうが置いて行かれそうだ。やっぱりこの状況は普通じゃない。私は何か夢でも見ているのか。
そう思っていても、私はアクセルを踏む力をどんどんと強めている。予感がしていた。このチャンスを逃したら、もう次は無い。たとえ夢幻であっても、ここで夕焼けを――康明を追いかけなければ、墓前で誓った約束は永久に果たせないのだと。
田舎道を駆け抜けた康明は、草むらに入り、やがて小さな山道に入っていく。私も構わず山道へ車を乗り上げていった。
山道は私のコンパクトカーがぎりぎり通れる道幅だった。折れた木の枝が車体を傷つけ、時々岩肌が露出している所もあって、それにぶっつけたせいで左側のヘッドライトが割れてしまった。
そんな獣道でも、康明は一切スピードを緩めずに、夕焼けが沈む方向へ突っ走っている。
必死に康明の後を追っていたが、その胸中では、久しぶりに会えた旧友に対する独白のような、秘めた感情が絶え間なく溢れだしていた。
康明、お前やっぱすげえわ。
俺さ、高校出てから美術大学に行ってさ、大学の先生に言われたんだよ。
もっと絵に情熱を出してほしい。
ってさ。
情熱。
確かに俺には、身も焦がすような情熱ってものが無かったかもしれない。
康明、お前を見ているとなおさらそう感じるよ。
自分の命さえ焼き尽くしてしまうような、途方もない情熱をお前は持っていた。
そんな情熱が無ければ、あの夕焼けは一生ものにできないのかな。
なあ、康明。
俺には一生あの夕焼けは描けねえのかな。
康明は何も答えず、ただただ進んでいく。
やがて山道は下りになって、道もだんだん暗くなってきた。私はライトを灯し、今にも暗闇に溶けてしまいそうな康明を目を皿にして追い続ける。
そして、前方の視界が一気に開け、それと同時に車から伝わる地面の感覚が変わった。ざらざらと細かな砂を掻き上げる音。浜辺だ。海が近い。もはや空の状況は暗闇の方が優勢になっており、太陽は頭半分を水平線から出しているに過ぎなかった。
康明はそれでも前へ前へと進んでいく。私もかまわず後を追った。もう夕焼けが描ける描けないの問題ではなかった。
康明。
もし、今ここで、お前に追いつけたら、俺は――。
ずぶん、と、衝撃が体に伝わった。シートベルトが体に食い込む。アクセルを何度か踏んでも、車は一向に進まない。
なんだ。
どうした。
車が故障したのか。
こんな時に。
勢いよくドアを開けたら、水が車内に入り込んできた。いや、これは、海水だ。車の前輪が、どっぷりと海に浸かってしまっている。
私は慌ててドアを閉めると、急いでギアをバックに入れて、車を砂浜へと戻した。
康明。
康明。
どこにいるんだ。
私はフロントガラス越しに、康明を探した。だが、前面に広がる大海原のどこにも、その姿はない。そして夕焼けは、最後に残っていた一筋の光までも、とうとう海の向こうに沈んでいってしまった。
体の熱が、急激に冷めていくのを感じる。がっくりと肩を落とし、ハンドルに頭を叩きつけた。短いクラクションが、黒く染まりゆく海へ空しく放たれる。
康明。
俺には無理だ。
俺はお前みたいにはなれない。
命を賭けて、海の向こうまで追い続けるような情熱は、俺にはない。
もう、約束は――。
「おーい、勇也」
ザワザワとした波の音に紛れて、康明の声が聞こえてきた。いや、聞き間違いかもしれない。もう夕日は沈んでいる。頭はハンドルに乗せたまま、それでも耳をそばだてていた。
「見てみろよほら。車のライト消してさ。すんげぇぜ」
聞き間違いじゃなかった。だが顔を上げてあたりを見渡しても、康明の姿はない。言われた通り、ハンドルの横にあるレバーをひねって、車のライトを消してみた。
「あっ……ああ!」
思わず声が出て、気がつくと車から飛び出していた。
今まで見たこともない、満天の星空。
夕日が沈んで暗くなった空に、宝石のような光が余す所なく敷き詰められていた。
それに、ただの暗闇ではない。夕焼けの残光が作り出す、薄青から黒へのグラデーション。闇の濃い所から薄いところまで星々が散らばっていて、一層幻想的な光景を作り出していた。おそらく、町の光が山に遮られているので、こんなにもはっきりと星を目視できるのだろう。
「きれいだよな、勇也。夕焼けの光で見えなかったけど、夕日が沈んでもこんなにきれいな空が見れるんだぜ」
また海のほうから声がする。浮きっぱなしだった顎を引いてみると、康明が海の上に寝転ぶようにして、空を眺めていた。その体は数多の星と同じように、淡い光に包まれている。
「康明。もしかして……これを俺に見せるために?」
私がそう言うと、康明はこちらを向いて、懐かしい笑顔を見せた。
「勇也、お前が代わりに描いてくれよ。俺が描けなかった、この素晴らしい星空をさ」
その言葉を最後に、康明を包んでいた光が徐々に小さくなっていく。光が消えた後には、天空の輝きを反射した、もう一つの星空があるのみだった。
「ふうっ、やっと下山できた」
その後、私はボロボロになったコンパクトカーを操って、なんとか向こう側の麓までたどり着くことができた。
草むらを抜け、田舎道に車を乗せれば、後は公道まで戻るだけだ。少しだけ海水のにおいが漂っている車内で、私は今日の不思議に思いを馳せる。
浜辺から出発するとき、私は海に向かって、康明に向かって、新たな約束をした。
康明、俺はお前のように、情熱で生命を燃やし尽くすような真似はできそうもない。
でも俺は、俺の――俺なりのやり方で、もう一度あの夕焼けに挑戦してみるよ。
そしていつか、お前が描けなかったあの満天の星空だって、きっと。
進路に転がる小石を跳ね飛ばしながら、舗装されていない道をゆっくりと進む。かつて、私と康明が一緒に歩いていた田舎道、ヘッドライトは片方しか点いていないが、その光は、行く先をしっかりと照らしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。