愛した人に殺されますか?【ラムズ描写企画E】
カツン――床石が軽やかに響くと同時に、彼の姿があった。
全てに闇がこびりつく夜の牢獄で、彼だけがただ白く浮かんでいた。
金色で統一された装具はもちろん、金縁のブーツと銀刺繍のボトムス、夜空のような羽織が、冴え冴えとした青を引き立たせ続ける。
金と銀に彩られた彼は、まるで月のようだった。
古びたカンテラの光は、牢獄の床まで照らすには能わず、ただ塵のような魔物が引き寄せられては落ちるのみだった。炎のような暖かさはなく、ただ、打ち寄せる闇から目を逸らすための縁にしかならない。
それではまるで私が、光に寄せられては一夜で死んでいくちっぽけな魔物と同じではないか――その違いを語る言葉も、理論も持ち合わせていなかった。それに悔しさを感じられない事に、自分の終着点を見た気がした。
小さな虫の魔物はカンテラに、人である私は彼に惑わされたのだ。
愚直に、ひたすらに、触れられると信じて、手を伸ばし続けた日々。それは、遠く離れた月に焦がれるのと相違ない。掌に残るのは、虚しさだけだった。
牢獄にあってすら、ラムズは超然としていた。
その在り方は、昔見た青白い月を彷彿とさせる。
私は昔から星を眺めるのが好きだった。小さな光が無数に瞬くさまは、多くの命が死してなお空で生きているようで、一人では生きてられない人間を見守ってくれているように感じたからだ。故に、星々の小さな光を塗り潰す程の輝きを放つ青白い月が、幼心に強烈な印象を残していた。
月は美しかった。孤高だった。何にも触れられず、何にも触れようとはせず、己が道を進み続けた。他に何もない宙に、一つだけの孤独な月。たった一つの美しさが、今日まで私の心を掴んで離そうとはしなかった。
昔むかし、月に狂う王がいた。月が魔力にあてられただとか、誰かに魔法を掛けられただとか、実はそういう病気を持っていたからではないかと、後世では様々に言われている。彼がいかに愚かしく、残虐を為したか……それらが実しやかに語られるのみで、実態は分からない。
私の行動も、感情も、後の人々が面白おかしく歪めて撓めて、そして最後に忘れ去る。物語とはそういうもので、人間とはそういうものだ。分かりやすさを求めて、言葉にならないものは置き去りにされる。非日常を求めながらも、どこかで共感を求める。一般的、大衆的とレッテルを貼られて流通する「よく知られた感情」ばかりを味わい続けて、違う味は毒だと言う。自分が偏食になっている事にも気づかず、考えようともしないのが、衆愚たる人の群れである。
いくつも嫌なことが続き、人間の醜い面ばかりを拝んできた。たった数十人に出会い、一面を見ただけで人間を知った気になった私は、次第に自分さえも嫌厭するようになった。愚かな人間の中、私だけは違うと言いたかったが、冷静な客観視が私の外観を醜く浮かび上がらせれば、私は人間から逃れられなくなっていた。耳を塞ごうが目を閉じようが私は醜い人間のひとりでしかなかった。
平たく言えば人間に飽き飽きしていたのだ。
だからこそ、私はラムズに焦がれた。牢獄にあってなお、そこだけが白く切り取られた肌はどんな陶器よりも滑らかに滑らかに光り、夜空を纏って現れた彼は、夜が終わるまで人間を見下ろし続ける月であった。
私は、月に篭絡された愚かな地虫。最後はその事実だけが残るのだろう。それでいい。私の感情は私だけのもので、上辺を浚うだけの他人には分かった気になってすら欲しくはなかった。ただ、私という存在は永遠を生きるラムズの中のみで保存されるのだ。
ラムズは決して忘れない。人間にとっては遥か昔であっても、彼にとってはまるで昨日のように思い出せるのだろう。忘れるという行為は罪ではあるが、記憶の支配から抜け出す唯一の方法である。人間は何度も過去を振り返り、意味もなく後悔し、傷つき、囚われる。だが、ラムズにとって記憶とは、人間のいう記録に近いものなのかも知れない。
ラムズには醜い感情がない。
喜怒哀楽。感情とはどこまで行こうと利己的で、命を肉体に繋ぎ止めておくための鎖のようなものだ。多くの神々に斑に染められた人間の心とは違い、ある使族や依授された者達には人間らしい感情の欠落が見られる。それを悪しざまに罵り、自らの創作物で「心」を持たせてみたりと、人間達は感情を賛美する。実に下らない。あんなものは他の個体を出し抜いて生き永らえるためのシステムに過ぎない。純粋な意思、表現物にとっての騒音にしかならない。
例えば資源を獲得した時。喜びを感じるのは、資源獲得が生存に有利となるからだ。感情が意志に餌付けをしているのだ。例えば居場所を不当に奪われた時。怒りを感じるのは、生きるために居場所が必要だからだ。感情が意志を駆り立てている。
感情ある生物は、そうして常に意思が歪められている。私はそれに気づいた時、自分の醜さと生き汚さに絶望した。同時に……感情を持たない使族達にひどく憧れたのだ。
「【感覚よ、欺瞞せよ――……」
彼等はどこまでも純粋で、彼等は愚かしいほど自らの生き方に従順だった。特にミラームが関わる使族はその傾向を強く感じた。
彼等は己の未来が分かる。それは、既にエピローグまで書き上げた物語の「いま」を読み進めるような感覚なのだろうか。私はそれがひどく羨ましかった。彼等が迫る未来に備える時、未来の分からない人間は目隠しをされたまま、手探りで地を這い続けるしかない。明日を指す時の導きが、盲いた人間に届いた例があるのだろうか。
彼等の視線はいつも透明だった。無意味な憐憫も、化粧のような上辺の優しさも、傲慢も、嫉妬も、何もなかった。ただ己が生き方を貫く。生まれた時から決まっている生き方を決して曲げない。それがいかに不合理であれ、不条理であれども、決して。人間がいかに彼等を理解した気になろうが、彼等になりたいと願おうが、その溝だけは埋まる事はない。いつかラムズは言った。「どんなに神力やら環境やらで変化しても、他の使族にはなれねえよ。どこまでいっても人間は人間――」。
完璧なラムズに近づこうとしては、人間の矮小さに絶望し。手を伸ばしても、鏡の虚像には触れられず。だからこそ、私は宝石を求めた。
宝石を愛でる時だけは、ラムズが「生きている」ようにに見えた。宝石に尽くす時だけは、彼の心の動きが感じられた。熱という熱を持たない彼だが、そこだけはまるで人間のように温度があった。少なくとも私にはそう感じられたのだ。彼が宝石を奪った相手に怒ったり、砕けた宝石に悲しんだり、宝石を手に入れて喜ぶ度に、私は彼に親近感を覚えた。
妙な話だが、私は感情――ひいては人間を心底軽蔑し厭い、感情を醜いと吐き捨てながらも、同時にラムズには人間らしい心を求めていたのだ。己のひどい矛盾を自嘲しつつも、どうしてもやめられなかった。
それこそ空の月を追い墜とし、人間という形に閉じ込めるような所業だろう。「手に入らなければ引きずり下ろせばいい」との非生産的な考えに基づいた醜い嫉妬と、まるで世の全てに手垢を付けて回らなければ気が済まないような人間らしい傲慢さは、埒外にも相互理解を求めんとする人間の性質に依るところであり、私が人間である証左であった。
言ってしまえばラムズは宝石の僕だった。宝石のために生き、宝石を集めることに長い長い生涯を捧げている。「俺は宝石がなければ生きていけないし、そもそも宝石への欲求というものがなければ俺自身存在していないようなものだ」――ラムズの言だ。
それを言うならば、私はラムズの下僕だった。私だけではなく、過去にも、未来にもそうした人間は尽きないだろう。私達は、ラムズのために生き、宝石を捧げることが生涯の目標にすり替わってしまっている。どうしようもなく彼に依存し、真偽の分からぬ彼の感情のために時間を費やす。そして、分不相応の望みに押し潰され、或いは力尽きて死ぬ。
その人生は、本当は誰かを愛する時間だったのかもしれない。家庭を築いたり、商売をしたり、周りの人間と喜怒哀楽を共有しながら生きる時間だったのかもしれない。小さな夢やささやかな幸せの光はしかし、月の光にかき消されて見えなくなってしまった。いま、私の上にあるのはたった一つの月。暗闇を照らし、虫どもを惑わす、曇りない孤高の月。それだけだった。
ラムズはただ私を見下ろしている。その目には嘲りも憂いも、憐れみも愉悦もなく、風の無い夜空を映す水面のように凪いでいた。
「何、しに……来た」
「分かってるくせに」
小首を傾げてフッと笑うラムズの表情は完璧だった。だからこそ、人間の不完全さを突きつけられる。看守でさえ今の私を見て嫌悪すら滲ませるというのに、彼の表情には一部の齟齬もなく、私が求める存在そのものだった。
私は震える指を何とか使って、右腕に嵌められた見えない腕輪を外した。二輝石――ディオプサイドで作られた腕輪は、暗い牢獄の中では人間の私には見えなくなっていた。光の下では肉眼に映るそれも、闇の中では視認できない。だからこそ看守の目を逃れられたのだ。
ラムズがこちらを見ると、私の手の中にあった重みが消えた。無詠唱の浮遊魔法だろう。ラムズは懐から布を取り出し、腕輪と思しき物体を大切に包んで懐へ仕舞った。魔法か、使族の特徴かは分からないが、彼にはその不可視の宝石が見えているようだった。
ラムズが動く度に服の宝飾品が揺れ、黴臭い石床に青い影が踊る。あれはサファイアだろうか、それとも……衰えた視力と薄暗い光の下では、宝石の種類を判じるには能わない。
金属特有の鈍い音で、彼が鍵束を持っている事に気づいた。牢の内に入ってきているのだから当たり前だと思うと同時に、私を逃がすためではないのだろうと感じた。そう、彼は単に宝石を取りに来ただけなのだ。寧ろ牢から出された方が困惑する。
ラムズは宝石のためだけに動く。それが、彼の数少ない真実だった。
私はもうじき死ぬ。病か、処刑か、衰弱か。道筋は違えど結果はどれも同じだ。元より死ぬために生きるこの身の長らえる時間の多少など、過去に横たわる歴史に対すれば誤差だろう。だからこそ、己で終わりを決めたかったのだ。
物語といえば、生きとし生けるもの全てがまるで異なるストーリーを持っている。喜劇もあれば悲劇もあり、波乱万丈なものも、平凡なものもある。世に物語を排出する時に最も肝要なのは、話の切り取り方である。一度きりしかない人生、主演は私。起承転結としてこれ以上ない死という現象の演出に拘るのは、物書きとしては寧ろ順当ではないかとすら感じる
端的に言えば、私は最期にラムズに殺されたかったのだ。ラムズに狂わされたこの人生の結末を締め括るのにこれ以上ない結末を迎えたかった。
だからこそ必死に考えた。どうしたら私を殺してくれるだろうか、と。
「最期の……契約、だ。私の、宝石をやる。代わりに、私を殺せ。宝石は……ここだ」
私は襤褸を引きずりながら何とか膝立ちになり……両膝が悲鳴を上げるが無視した……己の薄い胸を指さした。
とある僻地のとある一族は、独自の文化を保ちつつ何百年以上も昔ながらの生活を送っていた。一度、取材でその民族出身の者と話をした事がある。その民族は、死後の世界があると信じており、死後も安寧に過ごせるようにと彼等にとって価値のあるものを生前から体内で保管する方法を知っていた。
私の心臓の動脈には、宝石の入った包みが下げられている。それを取り出すには、私の胸を貫くしかないだろう。一度は宝石を飲み込む事も考えたが、それでは無理に吐き出させられて終わる。
名もなき病人として終わるより、罪人として処断されるより、誰知らぬまま躯を晒すよりも、ラムズに私の終止符を打って欲しい。単なる自己満足であるのは重々承知しているが、それでも、私は私の望みを否定しきれなかった。
「へえ」
ラムズは私の胸部を見た。やはり男性的な欲とは無縁の無機質な視線は、どこか神聖さすらも感じられた。黄金の腕輪が鎖と触れて澄んだ音を出す。僅かな衣擦れの音さえも高貴で美しさを醸し出すのだ。誰もが美しいと感じ、そうあるべきと己をも磨き上げる彼の生き方は、どこか宝石に似ていた。
「宝石は?」
ラムズは宝石ばかりを見ていた。彼はいつもそうだった。地を歩き海を筏で漂う人間なぞ目に入りもしない。ふと、己が宝石自身であったらと考え、すぐにその考えを打ち消した。
私にはこの関係が心地良かった。ラムズの宝石への愛玩は、移り気で堪え性のない人間の心で受け止めきれるものではない。
「心臓……」
私は一度指し示した胸を、もう一度
「じゃ、さっさと死んで」
言うや否や無詠唱の刃風魔法が飛んできて、鳩尾から腸まで一気に腹が縦に裂けた。だが既に痛みはない。少し前に使った枷魔法が私の感覚を誤魔化しているからだ。見る見る内に服が黒く濡れていく。内臓特有の生臭さがじっとりと牢屋に立ち込めるが、ラムズは瞬きもせずにこちらを眺めるばかり。頬杖をつく左肘をしゃがむ膝頭に乗せ、どこか気怠げな雰囲気を纏いながら私を見下ろす様はまるで一枚の絵画の如く、非の打ちどころがなかった。
次第に熱を失う躰が少しずつラムズに近づいていくようで、まるで夢のようだった。ちっぽけな病や処刑なんかより、この美しい生きものに殺されるという事実が、私さえも美化してくれているように感じた。終わりの時は近づいている。次第に遠のく意識をかき集めて、自分の最後の瞬間まで見逃さぬようにと気を引き締めた。
興奮と緊張、そして寒さからか、がちがちと歯を叩き合わせて震える私に、ラムズは事も無げにこう言った。
「くれるなら、ちゃんと自分で取って」
ラムズは宝石が血で汚れるのを嫌った。私は心得ているとばかりに頷こうとし、血を吐いた。既に膝は体を支えられず、横向きに倒れたまま右腕をたくし上げて腹に突っ込んだ。
自分の内臓は存外ひんやりしており、ああ、これは野生の魔物とは違う、死に向かう者の冷たさだなと納得した。腸の上、既に半ば切り裂かれた横隔膜の先にある袋は胃で、その隣にあり、微かに脈打つ筋肉の塊こそが心臓だった。心臓の周辺をまさぐると細い鎖が伸びており、その先には小さな包みがあった。
包みを外まで引っ張ると、つるつるとした油紙の包みは未だしっかり封を施されていた。思ったより血が出ないのは、以前これを体内に埋め込んだ時と同じだった。
どこかで私の覚悟を問う声が聞こえる。「それは死後に使うものではないのか? 本当にあげてしまっていいのか?」と。こんな私や他の者を照らすばかりで何もくれやしない存在に死後までをくれてやっても良いのか? と。この風習を教えてくれた人々は皆親切だった。私の死を悼む人物も、いないことはない。だが真に私を愛する人はいなかった。ならば、私が愛する者のために何かを遺したいという心は、間違っているのだろうか。それを否定する者はもういない。私が彼のために裏切ってしまったから。
既に感覚のない指先ではうまく包み紙が開かない。仕方なく噛み切るようにして袋を無理やりこじ開けた。文字通り命がけで細心の注意を払って、血や体液を付けない様に袋を開くと、中から現れたのはいびつな二晶――アメトリンだった。
通常紫と黄色できれいに分かれている宝石は、互いが互いを喰らい合うように歪に組み合わされていた。アメトリンは少し前に爆発的な人気が出たが、高まった人気に合わせて採掘量を増やした結果、今では価格が下落し人気も下火になった宝石である。帝石や釘石よりもその価値は低い。ありふれていて、理性と感情とが混ざる事なく絡み合っては矛盾する。その中でも色がきれいに二分していないこの石こそが、最期の贈り物に相応しいと感じたのだった。
不意にばさり、と音がした。
見上げれば、ラムズの背には穢れなき純白の翼があった。それも3対、6枚の美しい翼である。羽軸の一つ一つが力強くまっすぐに伸び、羽弁の一本一本が内側から輝いているような神々しさは、神に連なる者を容易く連想させる。
天使だと思った。牢獄の天使。陽の下ではなく、闇の中でこそ輝く存在。牢獄の闇に侵されて翼の先が影になり黒ずむ様もまた彼らしい。思わずほぅと見惚れてしまった。
全身全霊を以て掲げた宝石は、不意に重さを失った。ふわふわと宙を舞い、すとんとラムズの手に持つ布の中に落ちる。ラムズは表面をさらりと一拭きし、すらりとした指先で宝石を摘まむとカンテラの弱々しい光に翳した。黄色と紫の光がくるくると回る様は、遠い日に見たステンドグラスを思い出した。
昔むかし天使と悪魔は大きな戦争を起こし、現在は絶滅したと言われている。白い翼をもつラムズは一体どちらなのだろうか。地獄に生きる悪魔の所業を為しながら、天使のような顔で微笑む。まるで黄色と紫、どちらともつかないアメトリンのようだ。いや、どちらとも真実なのかもしれない。今のみを生きる人間には、絶滅した使族を窺い知れるはずもない。
ぽちゃんと一滴、頬を伝って涙が落ちた。嬉しさか、悔しさか。感動か、無念か。痛みか、喪失か。欺瞞に酔い続けた心では、己すらも分からない。ただ確かなのは、これからも青白い月は軌跡を辿り、翅を捥がれ、役目を終えた羽虫は無様に失墜する事だけであろう。
ズドンと衝撃に襲われたと思えば、身動きが取れなくなっていた。血溜まりに映るのは、胸を氷の杭で串刺しにされた痛々しい姿。地に縫い止められた虫の標本のようだ。ラムズが約束通り、私に止めを刺したのだ。だが不思議と痛みはなく、夢心地で朦朧とする頭の片隅に、微かな命の喪失感が滲むのみであった。
私は最期のその瞬間まで、ラムズを見続けた。
闇の打ち寄せる牢獄は寂として声なし。
先まで響いた靴音や言の葉は、既に黒へと沈んだ。
格子を背に、天使が屈む。
身を飾るは青。身を包むは黒。
金と銀に縁取られ、踵を鳴らし己が道を歩む。
焦がれる者は多くとも、並び立つ者はなく。
決して温度を持たぬ躰。言葉。心。
彼は、人間に非ず。
望まれるように、美しく在らんと欲す。
全てはただ、宝石がために。
遥かより生まれ出で、遥かへと去り行く。
私は彼を、月と呼んだ。
虫が一匹。
ぱさりと地に墜ちた。