最後に
ここで、現代に戻ります。セバスチャン・サルガドの映画に戻りたいと思います。
「復活」という概念は今まで書いてきたように、人間の文化の中で重要な役割を占めていたと私は思います。今の社会を見てもそうですし、過去の歴史を見てもそうですが、現実というのは理不尽な事で溢れています。クズがクズ故に大衆の称賛を受け、幸福な人生を送るとか、聖人が迫害されて、苦しんで死ぬとか、そういう事はよくあります。
それでは、何故に報われないままに善行をしたり、何か高い理想を求めなければならないのか?というのが疑問になってきます。そんな事をしたところで、報われないのであれば、それをする意味は何でしょうか? この問いに答えられるのは、合理的な現実主義ではありません。
それに答えられるのは信仰ーー宗教の次元でしかない。しかし、信仰・宗教は、現実に測定できるものでもないし、神もその存在を確証できるものではないので、絶えず紛糾が起こってきました。これからもそれは起こっていくだろうと思います。
復活という概念は宗教的なものであって、現実の世界の理不尽を、次なる世界において秩序的に置き直したと言えるでしょう。ソーニャは天国に行けるでしょうし、「復活」できるでしょう。ダンテが、現実世界を転倒したもう一つの世界を「神曲」という形で創造したのは、彼岸世界において現実の理不尽を埋め合わせようとしたからです。
ただ、最初に書いたように、そうした抽象的な思考は、元は自然の営為の模倣から来ていると私は考えています。神という概念も、生きた自然の背後に「一者」を想定する事から現れたものでしょう。
老いた写真家、セバスチャン・サルガドは、森の中にいて、ごく自然に、自分の死後にも続いていくものについて語る事ができました。昔の人間は、もっと死と近い距離で生きていたのだと思います。それは、変転していく自然と共に生きていたからであって、自分達の死後についてもそれほど悲観的にならずに考えられたでしょう。
全てのものは揺らぎ、変化し、流れていきます。その中に人間の生死はくるまれていました。復活という概念もそうした流れから生まれたなのだと思います。
現代に生きる我々は、物理的に言っても、アスファルトやコンクリート・鉄・プラスチックなどに囲まれています。周囲の環境は変化しません。その中で人間だけが動いている。動かない世界の中で、人間だけが動いて、世界を変えていきます。
こうした世界において、世界を司る神がいないのも、人間の復活が信じられないのも、当然であるように思われます。世界を変えているのは自分達人間なのに、わざわざその外側の神を想定する意味は、我々には理解できません。人工物に囲まれた世界において一人の人間が死んだとしても、その人間がまた自然のサイクルに還っていくとは直感的に理解しにくい。
アパートの一室で一人で死んだ人間について考えてみましょう。彼の死は「都会の中の孤独」というように、何か孤立した異様なものとして見えてくるはずです。人工物の中では腐爛し、腐敗していく死体は異様な存在に見えます。こうした世界において死は恐るべきものであり、生の切断以外の意味はない。今の我々はそういう世界に生きていると思います。
セバスチャン・サルガドの映画のワンシーンを見て、私が考えたのは、そういう事でした。我々に「復活」が信じられないのもごく当然の事だろう、と。祖父母、両親、自分へという繋がりの中で、生活形態がそれほど変化せず、自然もまた大きなサイクルで動いている時には、我々は世界に包まれて、世界と共に生きていますが、世界を切り離し、自分達の快適な環境を整えてしまった今、我々にとって死は今までよりも一層、恐怖を煽るものとして感じられてきたのだと思います。
そういう歴史の変遷があったと私は見ています。この世界においては、死は合理的に捉えられるので、死は単なる存在の消滅だと考えられています。しかしそれは論理的に絶対に正しい答えというよりも、歴史の変遷の中で自分達が感じたある種の感覚でしかないのではないか。そうした絶対なテーゼも、未来においてはまた変わらないは誰にも言い切れないでしょう。私はそんな風に考えています。
そして死の先の復活を信じるかどうかというもはや古びた事柄も、人間が合理的なものから逃れられない以上、この先も有効に機能すると私は思っています。合理的な論理によって人は思惟する他ない為に、ある種の人間は「その先」を求めずにはいられないからです。