ソーニャとラスコーリニコフの違い
「罪と罰」における復活観念をもう少し掘り下げて考えてみましょう。復活という概念自体はドストエフスキー作品全体において、非常に重要な要素となっています。
ラスコーリニコフがソーニャに詰め寄る場面があります。ラスコーリニコフとソーニャは互いに、一線を越えた近しい存在として描かれているのですが、二人には大きな違いがあります。それは、ラスコーリニコフが、自分と家族を救う為に他人を殺したのに対して、ソーニャが家族を救う為に自分の身を犠牲にした事です。ソーニャは自分の身を売って、そのお金を家族に渡しています。
ラスコーリニコフはソーニャに疑問を持ちます。「どうしてそんな状況で君は耐えられるのか?」 これがラスコーリニコフの問いです。彼は、ソーニャと似たような窮状から、殺人へと飛躍しました。ラスコーリニコフからすれば「どうして君は他人を害して自分(達)を利しようとしないのか?」というのが疑問なわけです。
合理的な功利主義が身についている我々からすれば、ラスコーリニコフの問いは比較的わかりやすいはずです。人は「暴力は良くない・殺人は良くない」と言いますが、生き残るのが自分か、相手か、といった究極的選択を迫られた時、一体どういう態度を取るでしょうか? 常識は残酷な真理に覆いをかけようとしますが、作家はベールを剥ぎ取り、真実を露わにしようとする。真実を証明する為の道具として犠牲になったのが、ラスコーリニコフとソーニャという二人のキャラクターと言ってもいいほどです。
ラスコーリニコフはソーニャを追い詰めます。彼女に聖書を読むように頼みます。ラザロの復活の箇所です。ソーニャは嫌々読むのですが、聖書を読みながらとうとう自分の信念を吐露してしまいます。ソーニャは復活を信じていました。だからこそ、彼女はあらゆる窮状に耐えられたのです。
ソーニャの行く先には、全く希望というものはありません。彼女は売春婦となって日銭を稼いで家族を支えていますが、父親は飲んだくれで、母親は狂気に囚われており、病気です。小さい妹は狂気の母にくっついてうろうろとするばかりです。例えソーニャが自分を犠牲にして家族を救おうとした所で、救いきれない未来は見えています。
ラスコーリニコフが疑問を抱いたのはそんなソーニャが『何故』そのような状況に耐えられているのか、という事でした。現実というものに完全に蓋をして、全く抜け道がないような状況を考えてみましょう。その時にラスコーリニコフは他人を殺す事を自分に許し、ソーニャは自分を殺す事を自らに許しました。
ソーニャの決断は、この世のものではない「復活」という概念に支えられています。ここで強調したいのは、それが彼岸における希望としての復活だという事です。合理論者は、現実が塞がれてしまえば絶望しか残りません。合理論の帰結は絶望なのです。非合理論は、その先に復活というものを予期します。そのような信念を持っていたからこそ、ソーニャは自らの境遇に耐え忍んでいられたのです。
このようにして、復活という概念は、閉ざされた現実に穴を開けるキーです。しかし、それは非合理的なものなので、信仰が必要とされます。信仰は、合理的な論理からは生まれません。非合理への飛躍からしか生まれない。
しかし、ラスコーリニコフが思考の論理、自己正当化の論理をどこまでも手繰っていくのは、彼がその論理のどこにも自分を救い出す道はないと、彼自身が知らなければならないからです。それが作者によって意図されています。また、作品が非合理的なものへ突入していくのを読者に納得させる為に、作者が取った創作技術でもあります。