ラスコーリニコフの復活
次はドストエフスキーの「罪と罰」を取り上げます。「罪と罰」は、キリストの物語の模倣なので、復活の概念が存在するのは、当然といえば当然でしょう。
物語は貧しい大学生のラスコーリニコフが、殺人について考える所から始まります。彼は貧窮しており、同じように貧窮している家族と自分自身を救うために、金貸しの老婆を殺す事を考えます。彼は自分の夢想に引きずられるようにして、老婆を殺してしまいます。そこから、ラスコーリニコフが精神的に回心するまでの様子が小説として綴られています。
「罪と罰」で、着目したいのは、ラスコーリニコフが大地に接吻するシーンです。ラスコーリニコフはソーニャに促されて、大地に接吻します。ラスコーリニコフは、罪を贖い、これから警察に自白する、その儀式的行為のように大地に接吻する。
何故、大地に接吻しなけければならないかと言えば、ロシアの大地信仰が根底にはあります。ロシアは、西欧とアジアの中間的な場所なので、抽象的な一神論だけでは理解できない部分があります。もっと土着的な、アジア的な部分があります。その一つが大地信仰で、ロシア人はロシアの大地に対するある思い入れがあります。
特に、重視したいのは、ラスコーリニコフが罪を贖う、贖おうとする事が、大地に接吻し、大地と再び接続する、その点が強調されているという点です。ラスコーリニコフは西欧から来た無神論に乗っかって人を殺してしまいます。それはドストエフスキーにとっては「大地と遊離する事」なのです。ここにはドストエフスキーの土着主義があります。
大地と遊離した抽象的な存在は、人を殺しても良心の呵責を覚えない。彼は生との連帯を絶たれてしまっています。生との連帯を絶たれるとはどういう事でしょうか? それは、自らの頭脳の中に閉じ込められるという事です。抽象的な理念、論理の中で、殺人を合理的に正しいものと考える事はできます。理性は、肉体を無視して、また、肉体から流れる血を単なる「犠牲」のカテゴリーに入れて、どんどん進んでいきます。ここでは過度に頭脳的な人間の危険性が描かれています。
過度に頭脳的な人間と言えば、我々が「合理的」という言葉を、やたら崇高で絶対的な言葉として使っているという状況が思い返されます。私は、現代人はみなラスコーリニコフなのだと思っています(だからこそ「罪と罰」は現代人に響く)。ただ、ラスコーリニコフたる現代人は、接吻すべき大地を持たない。大地は、現実的に言ってもアスファルトに覆われている。我々は大地とのつながりを持つ事ができず、自らの合理性の中に閉じ込められている。現代人は罪を償う事ができず、「復活」するのが禁じられたラスコーリニコフなのです。
ラスコーリニコフは大地に接吻し、大地との繋がりを回復します。彼は、それによって生と死との輪廻の中に復帰したと言えるでしょう。彼は自白して、逮捕されます。彼はシベリアの牢獄に行き、そこで宗教的な回心を自ら体験します。世界との和解が成り立ち、ラスコーリニコフは「復活」します。
この復活の場面は抽象的で、ドストエフスキーにしては、きちんと描けていません。しかしそれはやむを得ないものだと思います。キリストの復活の場面も、聖書の中では簡素に描かれています。復活というものは望まれてはいるが、リアリズムで描くと妙なものになってしまうのだと思います。何故、妙になるかと言うと、復活という神秘性が削がれるからです。神的なものは常にベールがかかっていないといけません。
ラスコーリニコフが復活する場面、彼は対岸の土地をぼうっと見ています。古代から連綿として続いている遊牧民の生活がそこにはあります。そこにあるのは「生活」です。ここで言う生活とは、人間が長い間、蓄積してきた時間としての生活です。ただ生きるという事ではなく、生と死が繋がっているある時間感覚、とでも言えばいいでしょうか。
生活は自然と一致しながら、人間の生死をくるんでいます。そういう悠久な時間間隔の中で、ラスコーリニコフは自己を自覚します。思考の病が癒えるのは、思考の無時間的感覚が、より長い、広い時間感覚に溶け出す事によって始めて可能なのです。
こうしてラスコーリニコフは「復活」します。復活の概念はここでも、自然に対するある感受性と連結して考えられています。合理的、理性的な考えだけでは復活という概念は導き出せません。