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ヨブとキリストの復活

 旧約聖書にヨブ記という話があります。ヨブ記は旧約聖書の中でも特に有名で、取り上げられる事も多い。それだけ琴線に触れる物語なのでしょう。


 ヨブ記は、ヨブという信仰者が神に意地悪されて、信仰を試されるという話です。ヨブは敬虔な信仰者なのですが、悪魔が神に「自分の手にかかれば、彼はさっさと信仰を失いますぜ。俺に任せてください」てな事を言います。神は悪魔を許して、悪魔とヨブの信仰バトルが始まります。


 悪魔はヨブを散々ひどい目に合わせます。ヨブには家族がいて、多くの財産があるのですが、家族を奪われ、財産も奪われます。おまけにひどい病気にまでかけられます。ヨブは信仰を失うギリギリまで行きますが、最終的には神に頭を垂れます。神の前に自分の小ささを思い知り、神から許しを得て、元の持ち物を返してもらいます。家族も財産も戻ってきます。昔話の「めでたしめでたし」の形式です。


 この話は色々批評されていますが、ここではただ、ヨブの物語は、「復活の物語」の段取りを踏んでいるという所だけを見たいと思います。ヨブが全てを失い、死に近づくが、最後には全てを取り戻し、復活する。それは自然の連関の模倣であると私は思います。抽象的な神の物語と、地上の自然の巡りとの間には何らかの関連があります。


 ヨブ記は、キリストの物語のプロトタイプだと言われる事があります。キリストの物語も、キリストが地上で苦しみを受け、死に至り、最後には復活するという形式を取っています。私は、宗教的観点を外しても、キリストの物語において、ある絶対的な物語の構造が完成した、という印象を持っています。


 文学的に見ると、ヨブ記にはどこか不満が残ります。神の意地悪も、ヨブが最後に神に頭を下げる場面も、納得しきれない感じが残ります。その未消化の部分を改善して、更に上位の物語にしたのがキリストの物語であると私は思っています。だからこそ、ドストエフスキーのような根っからの小説家がキリストの物語に最後まで追随できたのだと思います。


 キリストとヨブの大きな違いは、キリストは本当に死に至るという事です。キリストは受難し、その極限である「死」を経験します。しかし、彼はその後「復活」します。何故復活するのか、と言われても、唯物論的には答えられません。ただ、死を経て復活するという物語の構造、自然を模倣する祭礼の形式は、キリストの物語においても生きていると私は感じています。そこでは、人間も自然の一部であるという見方が根底にあります。だから本来、蘇るはずのない者も蘇るのだと思います。


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