「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」のワンシーン
※この文章は書いている途中に、自分の論旨の欠陥が自分でわかってしまいました。なので最後はトーンダウンしていますが、内容的には見るべき部分もあると思うので掲載します。欠陥に関しては今後の宿題としておきます。
アマゾンプライムにある「セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター」というドキュメンタリー映画を見ました。良かったです。セバスチャン・デルガドという写真家がどういう人なのか、色々感じるものがありました。
作品自体素晴らしかったので、批評も書けるのですが、ここでは映画を見て思いついた事を書こうと思います。映画の内容とは若干、交差するのですが、それほど深く重なっているわけではありません。映像は考えるヒントになった、という感じです。
私が閃いたのは、写真家のセバスチャンが森の中で佇んでいるラストシーンです。そこで老いた写真家は、森を見ながら(例え、自分が死んだとしてもこの森は残っていく)というような話をしています。その時に(ああ、そうか)と思いました。
セバスチャンは、写真家として人間の姿を撮る事からスタートしているのですが、晩年になって、自然を撮ろうと決意します。そうして自然の有様をフィルムに収め、また森の再生にも尽力します。セバスチャンはブラジルの出身なので、自然に対する親和感は元より、西欧のインテリよりも強く持っていたのだろうと思います。
印象深かったのは、セバスチャンがごく自然に、死と、その後にくるものを連結させて語っていた事です。彼の語り口や生き様から、その連続性というのはたしかに彼の中で真実として感じられていると伝わってきました。また、それはブラジル出身の彼が、特に、未開民族や地方の部族と親身に付き合っていた事から現れてくる感慨であるように思います。
…私がこういう言い方で何を言いたいかと言えば、それは「復活」という概念についてです。「復活」という概念が自然(特に植物)との連接によって、以前よりもよくわかった気がしました。以下では「復活」という概念と悲劇の関係について、おさらいしていこうと思います。