3話「……しまった」
エディの朝はそれなりに早い。夜が空けきらないうちにベッドから出ると、身支度を整えてキッチンへと向かった。火を入れ、じんわりと部屋が暖まっていくのを感じながら手早く朝食を食べる。
洗濯ものの入ったカゴを片手に外へ行くと、朝の冷たい空気を肺いっぱい吸い込んだ。天気は良好、きっと客入りはいいだろうと考えながら三件隣の家に洗濯ものを預ける。体格のいい奥さんがここいらの洗濯ものを一手に引き受けているのだ。もちろんそれはお仕事なので、お金を渡すのも忘れずに。
「明日とりにおいで!」
「はい。おねがいしますね」
彼女の腕は特別いいので、頼んだ洗濯物はいつだって完璧な仕上がりだ。それは彼女の経験とセンスもあるし、魔法の力もある。洗濯女には風使いが多いが、きっと彼女もそうに違いない。
「さて、俺も仕込みしよっかな」
ぐーっと腕を伸ばして、それからぽきぽきと指を鳴らす。仕事開始だ。まずはじめにやることは水汲み、それからパンの下ごしらえ、次にスープに使う野菜のカットだ。五キロのパン種をせっせとこね、大鍋二つをつかって四十人分のスープを作るのだから大変だ。決して楽な仕事ではない。しかし、エディはそれが好きだった。
それがひと段落すると、下味をつけた大きな肉を串に刺し、次々に重ねていく。その重さ約7キロ。かなり大きな塊だ。ただ重ねていくのではなく、脂の具合を見ながらバランスよく配置しなければいけない。脂身が少なければ口当たりがパサパサになるし、かと言って多ければ脂っこくなる。加減が大事だ。そうこうしているうちに、通りがにぎわってくる。
「おはよっす」
「あ、おはよートムくん。今日もよろしくね」
「うぃす」
従業員のトムである。画家を本業としているけれど、それだけじゃ十分な食い扶持が得られないのでこうやって働きに来ていた。エディよりも年下のひょろっとした優男だ。
しゃべるのはあまり得意ではなく、黙々と作業をする方が好きなので、彼には掃除や食器洗いや片付けをお願いしていた。トムは髪を結びエプロンを身につけると、まずは店内の掃除を始めたのだった。
エディが肉用のオーブンに火を入れる。これは魔法仕様の特注だ。たて長の巨大肉串を回転させながら加熱していくと、表面がこんがりと焼け、あたりにいい匂いがただよってきた。スープもぐつぐつと煮え、最後の味見をするばかり。パンは最後の組が焼きあがって木製の大皿にもりもりと盛られた。さあ、もうすぐ開店だ。
◇
あわただしい昼時を乗り越え、客足が少しずつ穏やかになっていく。厨房でずっと皿洗いをしていたトムくんもお腹を空かせているので、頃合いをみてエディはまかないを作った。食品庫からトマトペーストの瓶をとってきて、大鍋に残っているスープを二人分小鍋に入れる。そこにトマトペーストを入れるとスープが赤く色づいた。ひと煮立ちして味をなじませたら、大きめの器へ注ぎ、別鍋で茹でていた小麦の麺を中に入れる。仕上げに上からチーズを削れば完成だ。
「できた。トマトスープで生パスタ」
出来たてのそれはヤケドしそうなほどに熱い。トムはいったん作業を中断すると、ほくほく顔で席につき食べ始めたのだった。トマトの爽やかさとチーズの旨味がとても合う。もちもちの麺に野菜や肉が絡まって、噛むたびに味や食感が変わった。思わず「うまい」と言わせる味はさすがだろう。同じメニューになりそうなまかないを、ここの店主はいろいろと工夫して食べさせてくれる。しかも、給料とは別にパンや肉を持たせてくれるので、生活が安定しないトムにはとてもありがたかった。
「うまいっす」
「えへへ、よかった」
本業が画家のひょろ男は食べる量がそこまで多くない。エディ自身も大食漢ではないので、時おり想像してしまう。テーブルをいろんな料理で埋め尽くした豪華な食事風景。大皿にのった鶏の丸焼き。ほうれん草と鮭のパイ包み。口当たりのさわやかな野菜はドレッシングであえて、芋はふかしてペースト状に。オーブンにはホワイトソースとチーズをたっぷり使ったグラタンが焼かれていて、きんきんに冷えた保冷庫にはデザート用にフルーツとゼリーが。エディはまだまだ食べてほしくて、次につくる料理の下ごしらえをしている。
エディは想像しながら自分のまかないに手をつけた。どうしたって自分だけじゃたくさん食べられない。その時、ふと思い浮かんだのはミシェルがさまざまな料理に囲まれた姿だった。優雅に、しかし圧倒的な食欲に次々に皿が空いていく。まだ食べ足りないようなミシェルを見て、あわててエディは次の皿を用意する。二人とも笑顔だ。想像の中だけど、それはとても素晴らしいことに思えた。
「……ミシェルちゃん、今日もこないのかなぁ」
ぽつりとこぼした言葉。そんなことはお構いなしに、トムは黙々と皿を洗っていた。
◇
閉店後、まばらになった通りを歩く。時刻は午後四時で、エディのフリータイムだ。八百屋や肉屋、豆屋にくだもの屋。いろんな店が軒をつらねる通りはエディの大好きな場所だった。しかし、エディの足取りはちょこっとだけ重たい。香辛料が入った麻袋をながめつつも、小さく息をつく。
「ミシェルちゃん、どうしたのかな」
とぼとぼ、という音がぴったりはまりそうな後ろ姿だ。
「もしかして、うちよりおいしい飯屋を見つけたのかな」
実は最後に店に来て、もう五日も来ていないのだ。多いときは毎日、間が空いても三日に一回は来ていたミシェル。たった五日といえど、エディはそのことで心ここにあらずだ。上の空で歩き、気付けば両手にたくさんの食材を抱えている。これはエディの悪いクセで、悩みごとや考えごとがあるとつい料理に走ってしまうのだ。食材の買い物もストレス発散につながる。家に帰り、ぼーっとしつつもテキパキと食材を分けた。
買ってきた玉子を茹でる。全部で二十個の白い玉子が鍋の中で揺れていた。ひき肉に塩胡椒と香辛料、牛乳に浸したパンを加えて無心でこねた。からを剥いたゆでたまごの表面に小麦粉をはたき、ひき肉で包む。パン焼きに使う店用の大きなオーブンで一気に焼けば、ジュージューと音を立てて出来上がったのはこんがりと焼き目のついた大きな肉団子だった。
「……しまった」
気付けば出来たて熱々が二十個ある。自分で頑張って食べても、せいぜい二つが限界だ。しかも明日は店休日で、店に出すことも叶わない。どうしたもんかと考え、仕方なく魔法で凍らせることにした。
熱々の肉団子。そのひとつに指の先をくっつけた。すると触れたところから氷のように冷たくなり、あっという間にカチンコチンに固まった。すべて凍らせたあとは紙で包む。それからまとめて布で包み、冷凍庫へと移した。これでしばらくは大丈夫だろう。
エディはひと息つくと、ひとりきりの自宅を見回す。以前に祖父が愛用していた揺り椅子が暖炉の前にぽつんとあった。明日は祖父の命日だ。自分を育ててくれた、たった一人の家族の死を、穏やかに悼む日である。お店の仕事はすべて休みにして、祖父の好きだった料理を作り、身近な人に配って回るのがここ数年のお決まりだった。