252 ミカエル殿下の嘘
「我の花嫁になれ」
言葉の意味がうまくつかめなかった。
何を言ったんだ、と首を傾けて。
それから、困惑をそのまま言葉にした。
「え? 今なんて?」
「我の花嫁になれ、と言った」
【竜帝】は自信に満ちた表情で言う。
「人間が竜に嫁ぐ物語を知っているだろう。知らないなら読むと良い。あれはいいものだ」
「いや、戦った結果花嫁とか意味がわからないんですけど」
「果たし合いは竜の間で互いのことを知る最も効果的なコミュニケーションの手段として知られている。お前は我を満足させる結果を残した」
「私には困惑の感情しかないんですが」
「お前は我の望みを叶えられる唯一の存在かもしれない」
【竜帝】は言う。
「今日の我は機嫌が良い。お前に免じてこの場にいる人間はすべて見逃してやろう。少し時間をやる。花嫁になる準備をしておくがいい」
「あの、同意とかまったくしてないんですけど。私、魔法に打ち込みたいので今は誰ともそういうのする気ないんですが」
「良い心がけだ。それでこそ我の花嫁にふさわしい」
「話が通じない……」
「嫁ぐ準備をしておけ」
【竜帝】の背中で黒い片翼が翻る。
「また会おう、小さな魔法使い」
強靱な筋肉が生み出す破壊的な暴風。
次の瞬間、【竜帝】の姿は視界から消えている。
嘘みたいに静かな空間だけが広がっていた。
蜘蛛の巣状にひび割れた壁。
至る所に残る異常な魔力の痕跡。
変形して血管のように垂れ下がる天井の金属骨。
足音が遠いどこかに吸い込まれていくような感じがした。
暴力的な破壊の跡が世界から現実感を奪い去っていた。
(花嫁っていったい何だ……)
理解できない状況と困惑。
しかし静かな空間の中で呼吸していると、次第に危機を乗り切った実感が湧いてくる。
(とにかく、殿下と街の人達は守れたってことだよね)
ほっと胸をなで下ろす。
力を抜くと、重力が二倍になったみたいな重さが全身を押しつぶした。
身体中が痛い。
疲労と筋繊維の断裂。
【竜帝】の動きに対してついていこうとした結果、身体に無理をさせてしまったのだろう。
気づかないうちに限界を超えていたのだと思う。
戦いが長引いていたら、まず勝機はなかったはずだ。
(撤退してくれてよかった)
花嫁とか言われたのはよくわからなかったけど。
でも、それは後で考えればいい。
(今はちょっと休みたいな)
折れそうになる膝に手を添えて支える。
周囲を見回して、休めるところを探す。
背後で何かが動く気配を感じたのはそのときだった。
引き寄せられるように視線を向ける。
元老院最高議長が立っていた。
小型の銃が私に向けられている。
大きな音がして、何も聞こえなくなった。
白い煙が銃口の先で揺れていた。
現実感のない、他人事のような痛みが私を刺した。
何が起きたのかわからなかった。
赤いシミがお腹の辺りに広がっていく。
身体の奥から大切な何かが抜けていくような感覚。
立っていられなくなって膝をつく。
撃たれたのだ、とすべてが手遅れになってから気づいた。
「今理解した。最も危険なのはお前だったのだ」
元老院最高議長は言った。
「ここで確実にお前を仕留める。すべては、後の私に託せば良い」
握られていた銃は、ミカエル殿下が作って提供した魔導兵器とは違う。
魔法が使われていない簡素な作りのそれを、彼はいざというときのために隠し持っていたのだろう。
最高議長が私に向けて照準を合わせる。
引き金を引く。
弾丸が放たれる。
瞬間、私は抱きすくめられていた。
花の香りが鼻腔をくすぐる。
揺れる金糸の髪。
ミカエル・アーデンフェルドが私を抱きすくめていた。
銃から隠すように、守るように。
殿下の身体は小刻みにふるえていた。
強い衝撃が加わって何度か激しく振動した。
撃たれているのだ、と後になって気づいた。
「ああああぁぁぁあああああああああ」
その声が誰のものか最初私にはわからなかった。
それはサヴァレンさんのものだった。
傷だらけの身体を引きずりながら。
いつも落ち着いていたサヴァレンさんはひどく取り乱した様子で、魔法を放つ。
殿下を撃つ仮面たちを止めようとする。
レティシアさんも同様だった。
ガウェインさんと剣聖さんに比べればダメージが少なく、まだ魔法を使う体力が残っていた。
しかし、消耗した状態で放つ魔法は仮面の戦士たちを止められるものではなかった。
(私も反撃しないと――)
そう思うけど、身体が動かない。
痛みの中で歯噛みする私の視線の先で、最高議長は殿下の頭部に狙いを定める。
引き金を引く。
響き渡る銃声。
思わず目を閉じたそのとき、閃いたのは瞼の裏を白く染める光の奔流だった。
鮮やかな白が、昼の光よりも眩しくあたりを染めている。
そこにあったのは稲妻そのものだった。
光の帯が弾丸を飲み込む。
弾頭の形が失われ、光の粒になって四散し、風に消える。
飛翔する小さな金属片を通さない恐ろしく繊細な魔力操作。
莫大な量の反復が形作る、一切の無駄なく洗練された魔法式。
その電撃が誰のものなのか、確認するまでもなく私はわかっていた。
ずっと見てきた魔法。
こんなにうまく使えなかった頃から知っている魔法だったから。
ルークが立っている。
ひどい顔をしていた。
サファイアブルーの瞳が涙で濡れていた。
怒りと混乱で顔をぐちゃぐちゃにしながら、必死で魔法式を操作している。
強烈な推進力を持つ小さな弾丸を、私と殿下に届く前に破砕するというのは神業のような芸当に違いなくて。
だけどその顔には、いつもの余裕なんて欠片もない。
必死な姿に私は少し泣きそうになる。
行かないで、と母猫を呼ぶ子猫のような切実さがそこにはある。
弾丸が届かないことに気づいた最高議長は、表情を変えずに身体を反転させた。
苦々しげに、ルークに照準を向ける。
その動きに、ルークは反応できない。
すべてのリソースを私と殿下を守るために使っている。
響く銃声。
無防備な生身の身体に向けて放たれた弾丸。
瞬間、光を放ったのは水色の魔法式だった。
水の盾が弾丸の方向を変え、ルークから逸らす。
(イリスちゃん――)
七番隊の後輩イリス・リード。
彼女の魔法は、私が知るそれとは違っていた。
他者を支援する補助魔法を手際よく何重にも展開する。
何より驚いたのは、その補助魔法の出力の高さだった。
イリスちゃんの支援を受けることで、ルークの魔法はその出力を増している。
ルークが最高議長に向けて電撃を放つ。
握っていた銃が融解して暴発する。
最高議長は苛立った様子で別の銃を取り出す。
弾丸を放つ。
しかし、届かない。
魔術師が得意とする遠距離なら、強化人間である最高議長の力を二人は超えている。
私の状況判断能力が伝えていた。
(今の二人なら任せて大丈夫。私がすべきなのは殿下の治療)
抱きすくめられた私より大きな身体。
最初は重みを感じなかったそれは、水をたっぷり含んだ布袋みたいにずっしりと重たくなっている。
「殿下……! 大丈夫ですか、殿下……!」
身体を横たえて状態を確認する。
弾丸の多くは外れていた。
魔術師に妨害されづらくするために、魔法が使われていない旧式の銃を使用していたからだろう。
それでも、少なくない数の弾丸は殿下に当たっていた。
その命を終わらせるのに十分な弾丸が注がれていた。
「か、回復魔法をかけます」
魔法式を起動しようとする。
簡単な魔法式を私は何度か間違える。
手がふるえている。
三度目でようやく正確な形で起動することができる。
「大丈夫です。絶対大丈夫ですから」
言葉の端が、風に揺れる葉のようにふるえる。
私は動揺していた。
殿下を助けようと観察した。
観察すればするほど、状況判断能力が伝えていた。
この人の傷は通常の回復魔法で治療できる限界をとっくに超えてしまっている。
「君は嘘が下手だね」
殿下は痛みに顔を歪めながら、笑った。
「いいんだよ。これでいい。私はここで終わっていいんだ」
言葉の意味が私にはわからなかった。
「なに言ってるんですか。ずっと未来を変えたかったんですよね。生きたかったんですよね。なのに、これじゃ予知夢で見た通り……」
殿下のずっと叶えたかった願い。
知ることはできても変えられない未来を変えること。
今日失われるのは殿下だった。
残酷な未来を殿下は変えられていない。
「君と違って私は嘘が得意なんだ。私が死ぬと言えば君は私から離れられなくなるだろう。だから、死ぬのは私だと伝えた」
殿下は小さく微笑んでから言った。
「今日死ぬはずだったのは君だった。私はずっとあの瞬間を待っていた」
うまく息が吸えない。
口の端がふるえる。
何度も回復魔法をかけた。
しかし、殿下の身体からは少しずつ力が失われていた。
「今日のすべてはこのときのためにあった。君を守ること。それだけを私は考えていた。だから、これでいいんだ。私は願いを果たすことができた」
殿下の言葉に、私は殿下の襟元をつかむ。
回復魔法をかけながら、絞り出すような声で言う。
「なんで、なんで……」
「悲しまないでくれ。これは勝利なんだから。自分が無力ではないと証明できた。十八年かけて、やっと掴めた初めての勝利なんだよ」
「だからって、それで殿下が死んだら意味ないじゃないですか……!」
「意味なくなんてないさ。君が救えたんだから。君はこの先、大陸で最も影響力を持つ魔術師の一人になる。私の命くらい対価としては安いものだ」
「安くないです。殿下は王国に必要な人なんですよ。正直嫌だなと思うこともありました。でも、死んじゃダメですよ。殿下は生きてないとダメなんです」
視界が潤む。
「驚いたな。君がそこまで悲しむとは思っていなかった」
意外そうな顔で言う殿下。
聞こえたのは、引きずるような足音だった。
「殿下、殿下……!」
傷だらけの身体でサヴァレンさんが駆け寄る。
転がるように、殿下の傍でかがみこみ回復魔法をかける。
倒れている他の魔術師たちも、かすかに残っていた魔力を注ぎ込んで回復魔法を起動する。
魔法式が幾重にも展開する。
それは本当に美しい光景で。
だけど、その中心にいる殿下は困ったように微笑んでいた。
全身から力が失われ、一気に十歳以上年を取ったように見えた。
「悲しまないでいいよ、サヴァレン。悔いる必要はない。失敗したわけじゃないんだ。君たちが守ってきた王子は今日、運命に勝ったんだよ。このことは手紙にすべて書いておいた。大丈夫だ、君の責任が問われることはない」
「そんなことどうだっていいんです」
サヴァレンさんはふるえる声で言った。
子供のように泣きじゃくっていた。
年齢を重ねた男性のそんな顔を私は見たことが無かった。
「殿下は王国に必要な方なんです。私は貴方に死なないで欲しい。貴方がいたから、私はもう一度仕事を好きになることができた。嫌いになっていた魔法を好きになることができた。あの日、貴方が私の魔法を評価してくれたから。あきらめようとしていた私を救ってくれたから」
絞り出すような声が響いた。
「死なないで……死なないでください、殿下」
「まさかそんな風に言われるとは。この未来は私も見えなかったな」
殿下は苦笑して言う。
「すべてを知っていると思っていた。だけど私は思っているよりも、この世界のことを知らなかったのかもしれないね。心から惜しんでくれる人なんて一人もいないと思っていた。愚かしくて独善的で、失敗ばかりしているのが私だったから。でも、ああ、そうか」
力ない微笑みが浮かんだ。
「私が一番私を嫌いだったんだ。無力で何もできないと責めていた。悪い部分ばかり見つめていた。それが正しいと信じ切っていたんだ。みんなの目に映る私は、そこまで悪いものじゃなかったかもしれないのに」
涙ぐむ私とサヴァレンさんを見て、殿下は目を細める。
それから、魔術師たちが展開する魔法式の群れを見つめた。
「こんなに惜しまれるなんて夢にも思わなかったな」
救われたような表情で言った。
「生きていてよかった」
身体から力がゆっくりと抜けていった。
そっと瞳が閉じられる。
少し休んでいるみたいな表情だった。
それで終わりだった。
吹き抜けるかすかな風に、金糸の髪が揺れた。






