243 赤い結晶片
アーデンフェルドと帝国が結ぶ、歴史上初めての通商条約が締結されたのは、その日の午後のことだった。
ミカエル殿下は、同行していた外務大臣と協力してつつがなく会議を進行させた。
帝国が提案した草稿には、三点の不平等条項があった。
殿下はそのすべてを的確に見抜いて議論を誘導し、対等な形で条約を結ばせることに成功した。
帝国の高官たちは自分が誘導されていることに気づいてさえいなかった。
それどころか、彼らはすべて自分たちの思い通りになっていると錯覚していた。
そう心から信じさせるほどに、殿下の人心操作術には卓越したものがあった。
優れた詐欺師は標的に、感謝の気持ちさえ抱かせた状態で手口を完遂すると本で読んだことがある。
その気になれば、殿下は誰よりも優れた詐欺師になれるだろう。
(敵に回したら最悪だけど、国の代表としてはすごく頼もしい)
条約は締結され、アーデンフェルドは大陸の覇権国家である帝国と、対等の条件で貿易ができる歴史上初めての国になった。
間違いなく王国史に残る偉業なのだけど、そんな大仕事も殿下にとっては本当に叶えたい願いの前段階でしかない。
本番はこれから。
帝国高官たちとの会食を終えた後、迎賓館で出発の時刻を待つ。
落ち着かない頭と身体を整えつつ、そのときに備えて準備を進める。
午後七時三十八分。
黒いフードを被った殿下が私の部屋の扉を叩いた。
「行こうか」
殿下と私は、誰にも気づかれないように用心しつつ迎賓館を出る。
護衛として同行する人員は、一人だけにするように最高議長は手紙に書いていた。
用意していた馬車に乗り、元老院最高議長の屋敷を目指す。
警護を担当している王の盾の仲間たちは誰一人このことを知らない。
私は一人でこの人を守らないといけない。
「気負う必要は無い。何があってもすべて私の責任だから。君が責められないように手を回してある。安心していい」
そんな風に言ってくれたけど、それで気負わずにいられるような状況ではさすがにない。
車窓に夜の街が流れる。
【教団】を率いる黒幕である最高議長の屋敷へと向かう。
殿下が自らの死を予知した日が終わるまであと四時間。
日付が変わる頃には、多分今よりも多くのことが明らかになっているのだろう。
馬車が揺れる。
私は握りしめた手が汗ばむのを感じている。
◆ ◆ ◆
帝国西部最大の都市ファルグレア。
闇に沈む洋館の地下室で、一人の男が拘束されている。
Ⅷと刻まれた仮面。
教国での事件の後、繰り上がる形で幹部に昇格した帝国貴族だった。
帝国議会に議席を持ち、財界とのつながりも深いこの男は、元老院最高議長の側近として【教団】の活動を補佐する役割を長年務めていた。
「見事なものだ。まさか、この私がここまで何一つできずに無力化されるとは」
仮面の男は落ち着いた声で言う。
「素晴らしい手際だった。賞賛するべきだろうね、ルーク・ヴァルトシュタイン」
「貴方たちの行動パターンは大体把握しましたから」
闇の中からルークが姿を見せる。
天窓から射し込む月明かりの下で、椅子に拘束した仮面の男を見下ろす。
「それにしても、本当に同じ話し方をするんですね」
「同じ話し方?」
「【教団】において集団を率いる役割の人間は同じ人格になるよう調整される。特級遺物《思域調律器》の力ですか」
「そこまで掴んでいるとはね」
言葉は落ち着いていた。
余裕というより諦念に近い気配があった。
「【教団】において精神は役割のために最適化されるものだ。戦士に心がいらないように、教徒に迷いを生む心は必要ない」
「非人間的な教えですね」
「君だって目的のために人格を調整しているだろう。人生そのものに対する思考を放棄し、苦しみを恣意的に解釈する。必要に応じて不要な想像力を捨てて役割を果たす」
「社会に適応しているだけのことです。遺物で強制的に変えるのとはわけが違う」
「同じ事だよ」
仮面の男は言う。
「この世界は歪みに満ちている。生きることは苦しみにつながっている。心は満たされることなく常に渇き続け、肉体を行動に駆り立てる。合理的に考えれば君も理解できるはずだ。地獄は私たちの頭の中にあることを」
「だから遺物で作り替えて、悲しみを感じない精神を作るというわけですか」
「すべて人間の愚かしさに原因があるんだよ。有史以来人間がどれだけ傷つけ合い、救いようのない惨劇を繰り返してきたか。世界は醜く汚れている。だから真理を悟った我々が救済しなければならない」
男の言葉には確信があった。
「汚れきった世界から解放する。一切の執着を手放せる状態にし、原罪を浄化して天上の世界に送る」
「生命活動を停止させる形で、ですか」
「我々がこの世界のためにできる最も尊い行いだ」
彼は小さくうなずいて言った。
ルークは感情のない目で彼を見つめる。
「で、その尊い行いのためにここで何をしようとしていたんですか?」
「儀式の準備だよ。この儀式によって、我々は世界を正しく作り変える力を手にする」
「いったいどのような儀式を行おうと?」
「君に言うわけがないだろう」
男は口角を上げて言った。
「精々がんばりたまえ」
瞬間、男の肉体からは一切の力が抜けていた。
息はある。
生命活動は続いている。
しかし、意識は完全に失われている。
ルークは電撃を流し、彼を起こそうとした。
男の身体は数秒激しく痙攣した。
それだけだった。
とても眠っていられないだけの刺激を受けても、彼の意識は失われたまま維持されている。
(自ら精神を停止させた? あるいは仮死状態で時間が経てば回復する仕組みか)
原理はわからないが、人間の精神を調整する技術を持っている彼らは、電源を切るように自らの意識を停止させることができるのだろう。
役割に合わせた合理化。
生物的な制約を乗り越えた最適化だと彼らは本気で考えているらしい。
(好きにはなれないな。どうでもいいことだけど)
何度か電撃魔法を試して、男から話を聞き出すことはできないという結論にたどり着く。
「予定より時間を取られた。早く準備して、最高議長のいる本館に向かうぞ」
「待って下さい」
響いたのはイリス・リードの声だった。
かすかなふるえに、ルークはサファイアブルーの目を歪める。
早足で奥にある小部屋を覗き込む。
「どうした」
「これ、何ですかね……?」
声には怯えの色があった。
理解の届かない何かに対する畏れ。
それは氷の結晶片のような外観をしていた。
血のように鮮やかな赤をたたえた結晶片は、薄暗い部屋の中で鈍い光を放っている。
漂う魔素の気配に、ルークは鋭く言った。
「近づくな。魔素にあてられるぞ」
「わかってます。だからこそ、信じられないというか。意味がわからないというか」
呆然とした顔でイリスは言った。
「こんな小さな結晶片からこの濃度っていったい何がどうなったら……」
男の言葉が頭の中でリフレインする。
『この儀式によって、我々は世界を正しく作り変える力を手にする』
歪んだ正しさが形作る暴力。
ろくでもないことをしようとしているのは間違いない。
同時に、ミカエル殿下があらゆる手を使って元老院最高議長との接触を急いだ理由もわかった気がした。
(殿下の狙いは儀式を妨害し、【教団】が絶大な力を手にするのを防ぐこと)
そう考えると、すべての行動に納得できるだけの筋は通る。
しかし、ルークは殿下の狙いがそれだけにとどまらない可能性を感じていた。
同じ類いの人間だからこそ感じる。
殿下はまだ何かを隠している。
(なんだ……? 殿下は何を隠している……?)
見つけてくれて、最新話まで読んでくれて本当にありがとうございます。
ここから7章終盤戦。
教団の思想には一部葉月の価値観が入っています。
人間嫌いな自分と人間好きな自分を両方ぶち込むのが好き。
次回更新は1月24日になります。
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