212 覚醒
本能が訴えている。
この存在は間違いなく私が見た誰よりも強い。
金糸雀色の魔法式が展開する。
込められた魔力に気圧されて私は尻餅をつく。
大理石の床に亀裂がはしる。
空間が耐えられない常軌を逸した魔力量。
すべてを光で染める轟雷がエヴァンジェリンさんに向けて疾駆する。
対してエヴァンジェリンさんの取った行動は神業としか言えないものだった。
術式と詠唱を完全破棄し、必要な手順の一切を省略して三重の魔法障壁を展開する。
それは、意思が介在しない反射的かつ無意識的な動きであるように見える。
おそらく、こういう状況のためにずっと準備していたのだ。
何度も反復して身体に覚えさせた。
大森林を守る女王の、重すぎる責務を全うするために作り上げた緊急対応策。
いかなる魔法をも無力化する三重の障壁。
しかし、三魔皇の一人が準備していた防御策は、その轟雷に対しては嵐の前の塵に過ぎなかった。
破砕する魔法障壁。
エヴァンジェリンさんの身体がはじけ飛ぶ。
大聖堂の壁に穴を開けて、まだ止まらない。
石造りの壁を三つ貫通して、その奥にある石壁に埋まる形でようやく静止した。
粉塵が舞う。
エヴァンジェリンさんは死体のように倒れてそのまま動かなくなった。
「二枚のカードは本命の一枚を隠すための囮だ。強化した十三体の人形は優位を印象づける布石。魔法を封じる遺物は、攻撃を亜空間へ転移させる障壁を無効化するのが真の狙い。本命は私が保有する最強の人形。彼の力は精霊女王を超えているが、確実を期すならこういうやり方の方が良い」
冷たい足音が響く。
薄闇から現れたその黒仮面の人形が誰なのか、私はわかる。
わかってしまう。
息が出来なくなる魔力の気配。
「ルーク――!」
考えるよりも先に動いている。
ぶっ飛ばさないと気が済まないと本能が言っている。
魔法じゃ足りない。
助走を付けて横っ面をぐーで思いきり殴って。
なにしてるんだバカって首元をつかんでなじってやらないと。
あんたは薬なんかに負けたりしない。
心が壊されたって、そのまま消えるなんてありえない。
いつもみたいに嫌味なくらいできるところを見せて。
戻ってきてよ。
隣にいてよ。
お願いだから。
そのためなら、魔法以外全部捨てていいから。
地面を蹴る。
翡翠色の魔法式を起動する。
《固有時間加速》
今の私にできる最高速度。
三・五倍速。
勝機があるとすればこの瞬間だ。
人形にされたルークはエヴァンジェリンさんを倒すためにすべてのリソースを使っている。
私に対する警戒はまったくしていない。
引き延ばされた一瞬。
隣から放たれたのは予想外の魔法だった。
《裁きの光》
ニーナの光魔法。
回復術士が使う最速の魔法が一直線に放たれる。
(ここしかないことにニーナは私より早く気づいて――)
冒険者としての活動。
そして何より、魔法医師として命を預かる仕事をしているからこその判断力。
ルーク人形は反応できてさえいない。
攻撃が間近に迫ってようやく、かすかに首を動かして眩い光線を一瞥する。
対応は完全に後手に回っていて。
致命的なまでに遅いはずで。
だけど、次の瞬間放たれた土石流のような電撃魔法は、ニーナの光魔法を一瞬で飲み込んで消滅させた。
電撃の奔流はそのまま目にも留まらぬ速さでニーナの身体を飲み込む。
(ニーナ――!?)
許されるならすぐにでも助けに行きたかったけど、攻撃したニーナの意図に私は気づいている。
あの光魔法は敵の注意を惹くためのもの。
だからこそ、破壊力よりも速度を優先して最速の光属性魔法を放った。
今なら不意が打てる。
最も威力が出る至近距離から最大火力の魔法をたたき込める――
《烈風砲》
あらかじめ使っていた補助魔法のアシストを受けて放つ、私が一番得意な魔法。
一緒に数え切れないくらい使ってきた魔法。
こんなにうまくできない頃から、あいつはずっと見てきたはずの魔法。
(思いだせ、バカルーク!)
ルーク人形が私を一瞥する。
蒼い瞳が私と私の魔法を捉える。
魔法障壁も間に合わない。
風の大砲がルーク人形に直撃する。
大理石で作られた聖壇の床が破砕する。
今の私にできる全力の魔法。
対して、ルーク人形は後ろに少しだけよろめいて――
ただそれだけだった。
私の魔法はルーク人形に傷一つつけることができなかった。
「嘘……」
目を見開く私に『Ⅳ』の男は言う。
「魔法障壁を張る必要もない。この人形は純度の高い魔鉱石を濃縮した超高濃度の魔素量の水槽に一日十二時間以上漬けて制作した。人間ではとても耐えることができない痛みと精神汚染も彼は乗り越えられた。心が完全に破壊されているからだ」
『Ⅳ』の男は言う。
「これは勧善懲悪の物語とは違う。強く狡猾なものが勝つ理不尽で救いのない現実だ」
金糸雀色の魔法式が光を放つ。
「貴方の希望は既に失われている」
何が起きたのかわからなかった。
多分、私は意識を失っていたのだろう。
気づいたとき、私は石壁の中に埋まっている。
痛みは感じない。
何も聞こえない。
すべての感覚が鈍く感じられる。
遠い別の世界の出来事みたいに。
他人事みたいに私は、自分の状況を把握する。
砂と血の味。
粉塵が風に揺れている。
両足が破砕した石壁の中に埋まっている。
身体の至る所から、燃料が漏れるみたいに血が流れていた。
右目が見づらいのは、瞼の上から出血しているから。
大きな地響きが私の身体を揺らす。
軽い音と共に破砕した壁に小さな穴が空く。
穴の向こうで、巨体のドラゴンさんが崩れ落ちるのが見えた。
大地の揺らぎには、何かが終わりを迎えたような切ない響きが込められているように感じる。
多分、私たちは負けたのだろう。
ひとかけらの慈悲も救いも無く。
無残に、徹底的に、壊滅的に。
遠く、大聖堂の壁を二つ貫いたその向こうに、豆粒のように小さい黒仮面の姿が見える。
『貴方の希望は既に失われている』
おそらく、そうなのだろう。
あの人は私より頭が良さそうだから。
私はバカだからわからない。
本当に救いようのないバカなのだと思う。
だって、あきらめようなんて微塵も思っていない自分がいる。
私の全部を使って、目の前の現実をぶっ飛ばす方法を考えている。
◆ ◆ ◆
そのとき、ノエル・スプリングフィールドの中で何が起きていたのかについては未だに結論が出ていない大きな謎のひとつとされている。
多くの研究者がこのとき彼女に起きた変化を検証し再現しようとしたが、誰一人として実現することはできなかった。
有力とされる仮説はいくつかある。
王宮魔術師になってから積み重ねた窮地での戦闘経験。
地獄のような環境で身につけた窮地を乗り越える能力は、魔法戦闘では無く仕事全般に特化したものだった。
一線級の魔法使いとして、彼女は戦闘に関する分野では驚くほどに経験が乏しかった。
だからこその吸収力と成長。
そして、周囲を見ながら最善の行動を選択する状況把握と空間把握能力。
視野の広さと観察眼で、彼女は無意識のうちに周囲の魔法使いからたくさんのことを吸収していた。
何が効果的で何が効果的でないのか。
なぜこの人はこんなに綺麗に魔法が使えるのか。
自分との違いは何なのか。
魔法のことばかり考えている性格が合わさって、彼女の観察眼は能力を向上させる上でこれ以上無くプラスに働く。
ガウェイン・スタークから。
レティシア・リゼッタストーンから。
エリック・ラッシュフォードから。
クロノス・カサブランカスから。
エヴァンジェリン・ルーンフォレストから。
ビセンテ・セラから。
クリス・シャーロックから。
ルーク・ヴァルトシュタインから。
そして、魔法使いや冒険者、関わってきたすべての人から彼女は魔法戦闘に関わる能力を学び続けていた。
優れた空間把握能力が、多大なる学習と蓄積を彼女に与えていた。
何より、魔法がうまくなりたいという強い意思。
人生全部あげてもいいくらい魔法が好き。
異常者の域にさえ近い強い思いは、学習の密度をさらに濃いものにする。
二十四時間、楽しみながら魔法のことを考えられる。
生活に必要な家事や普通の幸せを『まあいいか』と気にせず生きられる天然で脳天気な性格。
性質と資質が向上させた魔法使いとしての能力。
当時、この事実に気づいていたのは二人だけだった。
第一王子ミカエル・アーデンフェルドと王宮魔術師団総長クロノス・カサブランカス。
しかし、彼らもひとつの見落としをしていたことに気づいていない。
人間は段階を踏んで成長するようにできていない。
積み上げても成長せず、むしろ後退さえしてしまうような停滞期が成長曲線には必然的に存在する。
長く伏した鳥が高く飛ぶように。
長い停滞が作り出す爆発的な成長。
急速に強くなってきたのは、学習力と経験値の少なさが産む伸びしろから。
ここまで力を増してきてなお、魔法使いとしての彼女は――停滞期にいた。
強い思いと追い詰められた絶望的な状況が眠っていた能力を引きずり出す。
ゆらめきながらノエル・スプリングフィールドは立ち上がる。
一切の常識を覆す、真性の怪物が生まれようとしている。