211 舞踏
石畳を越えた先にあった部屋で、立っていたのは『Ⅳ』と刻まれた仮面をつけた男だった。
そこは礼拝堂で、黒い木製の椅子が整然と並んでいる。
鋭利な装飾が施された蝋燭台が、整列した騎士のように並び、白い壁の上に作られた台の上で聖女の像が私たちを見下ろしていた。
奥の祭壇には壁画が飾られている。
床は大理石で作られ、赤い絨毯が中央に敷かれている。
ステンドグラスから光が射し込むその祭壇の傍らで、マザー・ルイーゼと聖女である特級遺物の機械人形――メルちゃんが横たわっていた。
「ノエル・スプリングフィールド。貴方の動きにはいつも驚かされる」
『Ⅳ』の男は言う。
「外部から仲間を――それも三魔皇の一人である《精霊女王》を呼んで死地を脱し、飛竜種を召喚して我々を混乱させ、精神を破壊する薬に酸化させる細工をした。見事な手際だと言わざるを得ない。我々は外部に貯蔵してある薬を取りに行かなければならなくなった」
(薬に酸化する細工?)
ニーナがやったのだろうか。横目でニーナの顔を見るが、『私じゃない』という表情。
エヴァンジェリンさんも何も知らないようだった。
私たちの他に動いている第三者がいる可能性がある。
「しかし、貴方にできるのはわずかな時間を稼ぐことだけ。結末は既に決まっている。これは物語では無く理不尽で救いのない現実だ。彼の心は破壊されて既に失われている。聖女は我々の手に落ちる」
『Ⅳ』の男が指を鳴らす。
十三人の黒仮面が私たちを取り囲むように現れる。
その魔力の気配は、私が捕まる前に囲まれた仮面たちとはまったく違っていた。
(格段に力が増している……!)
私の直感と状況把握能力が頭の中で警報を鳴らしている。
(いったいどうして……)
理由に気づくまでに時間はかからなかった。
彼らの佇まいは少し前に接敵したそれとは何もかもが違っていた。
所作から人間的な部分がすべて失われている。
まるで意思や心のない人形のように見える。
ひとつの可能性に気づいて、私は背筋が冷たくなった。
「まさか、心を破壊する薬を――」
「敗北に繋がる可能性は徹底的に排除する。それが私のやり方でね」
『Ⅳ』の男が言う。
「心を破壊することで、彼らは自分が傷つくことをいとわず戦うことができる。繰り返し薬漬けにすることにより魔力と肉体の力も増した。貴方たちがどれだけ優秀な魔法使いだとしても、彼らに勝つことはできない。何せ、彼らは己の魂さえも勝利のために捧げているのだから」
黒仮面たちが少しずつ距離を詰めてくる。
(三人いたってこの戦力差じゃ……)
唇を噛む私の隣でエヴァンジェリンさんがため息をついた。
「困ったわね。まさかこんな相手が用意されているなんて」
「貴方たちの敗北は既に決まっている」
『Ⅳ』の男は落ち着いた声で言う。
「安心して良い。肉体と魔力は有効に活用させてもらう。心がなくなることで貴方たちはさらなる高みへと到達する。素体の持つ力は完成形にも大きく影響する。彼のように素晴らしい人形になることができるだろう」
「本当に困ったわ。でも、貴方は少し勘違いをしている」
「勘違い?」
「私が困っているのはね」
エヴァンジェリンさんは言う。
「このくらいで私に勝てると思っていることに困惑しているの」
瞬間、起動したのは無数の魔法式だった。
空間転移魔法の多重詠唱。
数ある魔法の中でもトップクラスに複雑かつ高度な空間転移魔法を、息を吐くみたいに簡単に成立させて起動させる。
《空間を削り取る魔法》
右手をすっと動かす。
ただそれだけの動きで、黒仮面の身体が消滅する。
外套に施された付与魔法も魔法障壁も何の意味も成さない。
無慈悲で暴力的なその光景は、見るものに根源的な恐怖を抱かせる。
弾かれたように疾駆する十二の黒仮面たち。
しかし、次の瞬間エヴァンジェリンさんは仮面たちの背後に転移していた。
反応することさえできていない黒仮面に対して、肩をたたくようにやさしく触れる。
《空間を解放する魔法》
黒仮面の身体が巨人に蹴り飛ばされたかのようにはじけ飛ぶ。
隣にいた黒仮面を巻き込み、大聖堂の壁を貫通してその先にある石壁に大きな穴を開けてめり込む。
(触れた相手との間に圧縮した空間を解放する魔法……!)
常軌を逸した破壊力。
背後を取られたことに気づいた黒仮面たちが反転しようとするが、その時には既に彼らのすぐ後ろにエヴァンジェリンさんは転移していた。
三人の黒仮面が最初から居なかったみたいに消える。
その振る舞いは人間より高位の存在であるようにさえ見える。
人間なら、恐怖に間違いなく足がすくむ状況。
しかし、人形にされた彼らに動揺はない。
寸分の躊躇いもなく目の前の対象を破壊するべく、魔法式を展開する。
放たれたのは無数の氷の槍。
薬と遺物によって実現した異常な量の魔力から撃ち出されるそれは、通常の魔法とはまったく違う速度と威力。
かわすこともできただろう。
しかし、エヴァンジェリンさんはかわすことさえしなかった。
氷の槍はエヴァンジェリンさんの身体に触れることができずどこかに消えていく。
(自分の身体のすぐ傍に、障壁のように亜空間を展開した……!)
見たことがない空間転移魔法の数々。
戦いの中なのに、私は夢中でその魔法式に見とれている。
(すごい……こんな魔法が……!)
戦いに集中するべきなのはわかっている。
それでも、弾む心が止められない。
状況もすべきことも全部忘れて夢中になっている私がいる。
斬りかかろうとナイフを振り下ろした黒仮面が消える。
軽やかなステップ。
鮮やかな翡翠色の魔法式が空間一面に展開して、大聖堂を彩る。
それはさながら舞踏のように見えた。
まるで敵なんていないみたいに。
二十秒にも満たないわずかな時間。
十三人いた黒仮面は一人もいなくなっている。
「国別対抗戦での私なら倒せる、と思っていたでしょ。残念でした。あれはあくまでエキシビション。いつ帝国が大森林に攻めてくるかもわからないんだもの。手の内のすべては明かさないようにしてるの」
「……化け物め」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
(これが本気のエヴァンジェリンさん……)
格が違う、と思った。
王宮魔術師団最高火力を誇るあのガウェインさんが、分が悪いと言うだけある圧倒的な戦闘能力。
西方大陸最強の人外種である三魔皇の一人にして、帝国領最強の魔法使い。
(今の自分がどこまで通用するのか、試してみたい)
戦ってみたいなんて思って、気がつくと興奮している自分がいて。
しかし、同時に冷静な私が「警戒しろ」と叫んでいた。
磨いてきた私の状況把握能力と山育ちの直感が訴えている。
私たちはまだ死地を脱してはいない。
「だが、人形の貯蔵はまだ残っている。そして、貴方の欠点を私は知っている。いや、貴方だけでは無く魔法使い全ての欠点と言うべきか。魔法が使えない状況で貴方たちは何もできない凡愚に成り下がることを避けられない」
懐から砂時計の形をした遺物を取り出す『Ⅳ』の男。
「魔法が使えない貴方たちではこの状況を切り抜けることはできない」
紫色の光を放つ特級遺物。
自分の身体から魔力が消えていくのを感じる。
「参ったわ。まさか、そんな奥の手を用意しているなんて」
痛むみたいにこめかみをおさえて言うエヴァンジェリンさん。
「貴方たちに勝機は一つも無い。最初からそう言っているだろう」
「本当に嫌になるわ。私、その遺物使われるの三度目なの。なのに、何の対策もせずにいると思われているなんて」
エヴァンジェリンさんは肩をすくめる。
男が息を呑む。
手の中の特級遺物が消えていた。
「遺物の干渉を受けない亜空間に、あらかじめ魔法式を展開しておいたの。亜空間を現実世界の空間と繋げたその瞬間、遺物が作用するよりほんの一瞬早く私の魔法式が起動する。亜空間内に貯蔵しておける魔力はわずかだから、使える魔法にはかなり制限があるけどね。でも、小さな物体を転移させるくらいならできる」
切り札として取り出した紫の光を放つ特級遺物は、エヴァンジェリンさんの手に握られていた。
エヴァンジェリンさんは砂時計を地面に叩きつける。
砂時計が破砕し、白い砂が絨毯に散らばる。
阻害されていた魔光子の動きが元に戻る。
身体の中に魔力が戻ってくるのを感じる。
「形勢逆転ね」
「…………」
『Ⅳ』の仮面は何も言わなかった。
エヴァンジェリンさんは『Ⅳ』の仮面に数歩近づいて言う。
「貴方では私には勝てない。さあ、私の友達を傷つけた責任、払ってもらいましょうか」
「たしかに貴方は強い。認めよう」
「意外と素直じゃない」
「残念ながら、私の人形は貴方より強い」
瞬間、知覚できていない第三者の存在に私は呼吸の仕方を忘れる。
全身が総毛立つ異常な魔力量。
血の気が引く。
身体がすくむ。
本能が訴えている。
この存在は間違いなく私が見た誰よりも強い。






