210 聖都騒乱
その日、クラレス教国聖十字騎士団の団長を務めるイセド・トールナスは、執務室に隠してあった紙袋を見て顔をゆるませていた。
中にはぎっしりと積まれた教国金貨の山。
そのすべては、彼が先週末に大聖堂近くの違法賭博場で手に入れたものだ。
(あれは、本当に素晴らしい夜だった)
思いだして悦に浸る。
先月から続いていた負けによってできた多額の借金。
娘の養育費をすべて使ってもまだ足りず、最後には家を失う寸前まで行った。
もしあの日勝てなければ、借金取りが家に訪れ、家財道具のすべてが持ち去られていたことだろう。
真実を知った妻は虫を見るような目で自分を見つめ、夫婦関係は致命的な傷を負うことになる。
(だが、あの夜のおかげで危機は免れた。やはり俺には神がお与えになった博打の才能があるのだろう。借金をすべて返した上で、金貨はまだこんなに残っている。娘を良い学校に行かせるためにも、もう少し増やすことにしよう)
イセドは計画を思い描いて悦に浸る。
(家のローンも俺が元気なうちに返済しておいた方が良い。老後の蓄えだって必要だ。家族のために、俺は戦わなければならない)
自分を褒めてくれる妻と娘の姿が思い浮かぶ。
『貴方すごいわ。いつの間にこんなに』
『パパ、かっこいい』
(よし、パパがんばっちゃうぞ。今週末も賭博だ)
通信用の魔道具が鳴ったのはそのときだった。
心弾む週末を思い浮かべつつ、温泉気分で応答をする。
「はい。こちらイセド」
『大変です団長! 大聖堂に飛竜種が現れました』
「は? なにを言ってるんだお前。寝ぼけてるのか」
『寝ぼけてなんていません。本当なんです、団長』
「飛竜種が教国内に入れば天文台からすぐに連絡が入る。ここは聖都だぞ。竜が隠れられるようなところどこにもない。そもそも、大聖堂には魔術障壁があるじゃないか」
『私だってわけがわからないですよ! でも、いるんです! 大聖堂の中に飛竜種が!』
通信相手の騎士をイセドは知っていた。
大聖堂の門番たちの長を務めている後輩だ。
平民からのたたき上げである彼は優秀な男だが、聖女暗殺未遂事件のせいで仕事量が増え、随分と疲れているように見えた。
(休暇を取らせてやった方がいいかもしれないな)
そんな風に思いつつ、言葉を返す。
「大丈夫だ。慌てる必要は無い。お前は疲れているだけだ」
『今慌てないでいつ慌てるんですか! 窓から大聖堂を見てください!』
「見たぞ。何もない。平穏そのものだ」
『見てねえだろうクソ野郎。いいから窓見て指揮取れって言ってんだよ』
「お前な。疲れてるのはわかるが口の利き方ってもんが」
言いながら、窓の外を見つめたイセドはそのまま数秒の間動けなかった。
部下の言葉も聞こえない。
そのままどれくらいの時間が経っただろうか。
自分を呼ぶ声に、ようやくイセドは我に返った。
『団長! どうしたんですか団長!』
「認識操作魔法の類いではないのか?」
『本物です。本物の飛竜種がいるんです!』
悲痛な声が響く。
「すぐに向かう」
答えて通信を切りながら、イセドの心臓は娘の養育費がすべて消えた瞬間と同じくらいに激しく暴れ続けていた。
教国史上かつてない、とんでもない事態が今目の前で進行している。
◇ ◇ ◇
ドラゴンさんを呼んだのは二つ狙いがある。
ひとつは、仮面の男たちと戦うためのこれ以上無い戦力として。
そしてもうひとつは、教国全体の目を大聖堂に向けさせるため。
聖女とその周辺のシステムを傀儡化して利用しようとしていた彼らにとって、理想の展開は外にいる誰にも悟られること無く秘密裏に計画を完遂すること。
聖女が特級遺物の機械人形であるという秘密を抱え、徹底的な秘密主義を貫く教国の大聖堂は、その意味でも魅力的な標的だったのだろう。
だからこそ、相手が一番嫌がる方法を選択する。
それが最も効果的な戦い方だって、意地悪なあいつが背中で教えてくれたから。
(本当に性格が悪い)
思いだして、口角を上げる。
ボードゲームなんてしたら最悪で。
私が一番嫌がる攻め方をしては、苦しむ私をうれしそうに見つめてるのだ。
悔しいから、私はなんとか目に物見せてやろうと粘り続けて。
最後には、負けが決まって「やめやめ!」って駒をひっくり返して。
そんな私をあいつはうれしそうに見つめてたっけ。
『ノエルは見てて本当に面白いから』
バカにしやがって、と思ってた。
絶対いつかぎゃふんと言わせてやるんだって。
だけど、そんな時間が今はものすごく尊いものだって気づいている。
当たり前にあるものだって思ってた。
でも、当たり前じゃないんだ。
あの時間を取り戻すために、今私は走っている。
「ドラゴンさんが敵を引きつけてくれます。私たちは警戒が薄くなる側面を突きましょう」
三人で地上に向かう階段を駆け上る。
「飛竜種と仲良くなるなんていったいどうやって……」
ニーナは唖然としていたけれど、
「封印都市でも一緒に戦ったわよね」
エヴァンジェリンさんは当然のように言った。
「封印都市でも……? まさか、帝国領に飛竜種が現れた原因って……」
「ち、違うよ? 違うと言うことにしておいて。お願い」
「絶対違わないやつだこれ……」
声をふるわせるニーナ。
「い、今はルークを助けることが大事だから」
下手すると国際問題になりかねない過去の行いを全力でごまかす。
「ノエル。走るの疲れるから空間転移魔法使いたいんだけど」
「ダメです。魔力はできるだけ節約しないと」
「大丈夫よ。私、魔力量にはかなり自信あるし」
「絶対ダメです」
「けち」
頬を膨らませるエヴァンジェリンさん。
「けちけち星人。妖怪けちけち。けちけち大権現……」
不満そうに唱えるエヴァンジェリンさんに、ニーナが言う。
「ノエルってそういうところありますからね。普通馬車を使う距離でも勿体ないから歩こうって言いますし」
「そういうのよくないと思うわ。年長者は大切に扱うものよ」
うなずきながら言うエヴァンジェリンさん。
「でも、健康維持のためにも運動は大事ですし」
「む。今、私をおばあちゃん扱いしたでしょ。まだ三千歳よ。若いのよ」
「自分で年長者って言ったじゃないですか」
「年齢の話はデリケートなの! 森妖精の三千歳はそういうのがちょっと気になるお年頃なんだから! 服が若いって言われると『もしかして合ってない……?』って不安になっちゃうんだから!」
いろいろ複雑な年頃であるらしい。
「でも、こうやって走ってるとなんだか青春してるって感じがしません?」
ニーナの言葉に、エヴァンジェリンさんは少しの間考えてから言った。
「たしかに。そう考えると走るのも悪くないかも」
ぱっと目を輝かせてから私を追い抜く。
「行くわよ、ノエル! あの太陽に向かって走るの! 遅れてきた私の青春が今ここに!」
楽しそうで何よりだと思っていると、ニーナが隣に並んで私に耳打ちした。
「いいの? 飛竜種呼んだのがノエルだってバレたら投獄されちゃうかも」
「ルークを助けられる可能性があるのは今だけだから。よくない結果に終わるかもしれない。それでも、これは絶対にしないといけないことなの」
私は言う。
「それに、逆の立場ならあいつはもっと絶対無茶やってると思うしね」
「それじゃ、ノエルも無茶しないといけないか」
ニーナはにっと笑って言った。
「世界中をびっくりさせてやろう」
「うん」
うなずきを交わし合う。
「入り口に二人、どうする?」
エヴァンジェリンさんのたなびく金色の髪に言葉を返した。
「気づかれないように中に入りたいです。できますか?」
「任せて」
空間転移の魔法式が起動する。
次の瞬間、私たちは大聖堂の中を走っている。
足下の感覚が変わってバランスを崩す。
赤い絨毯に手を突いて、転びそうな身体を立て直した。
「すごい……これが空間転移魔法……」
驚くニーナの声。
「私にかかればこれくらいたやすいことよ。で、どうするのノエル」
エヴァンジェリンさんは言う。
「本命の敵は奥の建物。でも、左の部屋にも襲われてる人がいるわ」
目を閉じて、魔力の気配を探す。
たしかに言う通りだった。
強い魔力の気配が大聖堂の奥から感じられる。
しかし、私たちの左側にある部屋からも複数の魔力の気配を感じる。
多分聖女候補者たちが仮面の男たちに襲われている。
「彼を救うためなら消耗はできるだけ避けるべき。最善の選択は左の部屋の人たちを見捨てること。でも、そうすれば彼女たちの命は失われてしまう」
エヴァンジェリンさんの言葉に唇を引き結ぶ。
優先順位を間違えてはいけない。
勝ち取るためには犠牲が必要な状況も現実にはあって。
あいつならきっと、迷い無く本当に大切なものを選び取ることができるのだろう。
そのとき頭をよぎったのは、凜とした声だった。
『しかし、彼女たちは決して私を侮蔑することはありませんでした。仕方ない子ね、と微笑んで『貴方の幸せを願うわ』と言ってくれたのです』
敬虔な修道女のように両手を組み合わせて言ったライザさん。
『そんな人たちの人生が、理不尽に破壊されて終わるなんて絶対にあってはならない。お願いします。みんなを救ってください。どうか、どうか……』
愚かな選択なのはわかっている。
あいつが聞いたら、あきれられるに違いなくて。
だけど、それが一番後悔がない答えだって、誰よりも私自身がわかっていた。
「両方助けます。まずは左の部屋に」
「甘いわね」
エヴァンジェリンさんが言う。
「でも、嫌いじゃないわ」
「ノエルならそうするって思ってた」
ニーナがにっと笑って言う。
前を走るエヴァンジェリンさんが言った。
「空間転移魔法で飛び込んで不意を突くわよ」
翡翠色の魔法式が起動する。
次の瞬間、私は仮面の男たちのすぐ傍に転移している。
驚く仮面の男を、至近距離からの風魔法でぶっ飛ばしながら、周辺視野で状況を把握する。
魔道具師ギルドでの地獄のような職場環境で身につけた空間把握能力。
三人を相手に戦うエヴァンジェリンさんの背中を襲う敵を横薙ぎの一閃で吹き飛ばす。
私にできた隙を一人の仮面の男が狙っているのが見えたけど、そこはニーナの攻撃が間に合うって知っていた。
聖魔法が込められた杖をフルスイングして仮面の男を地面に叩きつけるニーナ。
エヴァンジェリンさんが《空間を削り取る魔法》で三人を亜空間に送って消し飛ばす。
互角以上の力を持つ仮面の男たちだったけど、警戒される前に転移して強襲することでほとんど被害を出すこと無く撃退することができた。
気絶している敵の手足を手際よく縛って動けないようにする。
部屋には、三十を超える聖女候補者が両手と両足を縛られて拘束されていた。
「どうする? すぐに上に向かう?」
「先に情報を収集しよう。有益な情報が得られるかもしれない」
ニーナに言ってから、近くに居た聖女候補者の口を塞いでいた拘束具を取る。
「助けに来ました。状況はどうなってますか?」
手足の拘束具を外しながら素早く情報を収集した。
「聖女様とマザー・ルイーゼが上にいます!」
「通信用魔道具でマザー・ルイーゼから指示をいただいていたのですが、悲鳴を最後にその通信も……」
状況は切迫している。
「敵の数は?」
「最初に奥に向かったのは二人でしたが、今はわかりません。飛竜種が暴れているという話でかなり混乱しているようでしたので」
ドラゴンさんは敵に少なくない動揺をもたらしてくれている。
「急ぎましょう」
三人で大聖堂の奥へ急いだ。