197 教国への道のり
クラレス教国行きの乗合馬車は一日に三つの便が運行している。
十四時間の道中で、三つの街で休憩を取る。
トイレを済ませたり、ごはんを調達したりするのと並行して、私は馬車の中で書いた手紙を投函した。
仕事を辞めて何の後ろ盾もなくなった今の私だ。
一人でできることは今まで以上に少なくなっている。
だからこそ、こういうときは人に頼るのが大切。
とはいえ、助けを求められる相手も限られているのが現実だった。
魔道具師ギルドに就職してから、あまりの忙しさに私の交友関係は学生時代とは比べものにならないくらい乏しいものになっていた。
そうでなくても、魔法に夢中になりすぎて友達との約束に遅刻するなんてことも少なくなかった私だ。
連絡を取れる相手はルームメイトだった子とお菓子をたくさんくれた高飛車お嬢様な子くらい。
それも、ルークが抵抗できずに捕まるような危険な連中を相手にしているのだから簡単に誘うわけにもいかない。
(みんなには、それぞれの生活もあるだろうし)
そんな中で、一番声をかけやすかったのが、飛竜種と戦ったときに再会した昔の友達――ニーナだった。
たしかクラレス教国は彼女が引っ越した先だったし、冒険者として活躍しているから自分の身を守れるだけの力も持っている。
もちろん、連中と接敵するような状況に巻き込むわけにはいかないけど、それでも声をかけるハードルは他の人よりずっと低かった。
(それから、もう一人は無理だろうけどダメ元で)
宛先は帝国領にある大森林。
国別対抗戦で出会った森妖精の女王であるエヴァンジェリンさん。
私が戦った中で一番強いあの人なら、助っ人を頼む相手として心強い。
(とはいえ、魔法を使えなくする遺物を使われて、危ない状況だったこともあったし、安心はできないけど)
何が起きるかわからないのが現実の戦いだ。
どんなに強い戦士でも一匙の毒で殺されてしまうし、強者を倒す方法は手段を選ばなければいくらでもある。
気を抜くことは絶対にできないけど、それでもエヴァンジェリンさんの魔法技術には本当にすごいものがあるし、可能性があるならやれることはやっておきたい。
女王の仕事があるだろうから、来てくれる可能性は本当にわずかだと思うけど。
(あとは、竜の山に暮らすドラゴンさん)
特級遺物で操られていたドラゴンさんは、助けた私に恩義を感じてくれていて。
吹くとその場に転移する呼び笛をくれて、いつでも頼ってくれていいと言ってくれた。
国別対抗戦のときに力を借りたときに、またいつでも呼んでくれと言っていたし、力を借りられる可能性はあるはず。
(大騒ぎになっちゃうこと間違いなしだから、最後の手段だね)
胸元に忍ばせた呼び笛を服越しに握る。
馬車は夜中進み続けた。
知らない景色が車窓を流れていた。
私の他に六人の乗客が乗っていた。
親子らしい三人と整った身なりの二人組の男性。
酒の臭いがする男性が一人乗っていた。
いびきの音が夜中続いていた。
座席は固く、同じ体勢でいるとすぐに身体の節々が痛くなる。
寝ることには明らかに適していない環境だったけど、幸い私はこうした環境下での睡眠について豊富な経験と知識を持っていた。
(魔道具師時代の工房に比べたら、全然平気)
朝日が出る頃に気絶するように眠り、三時間で起きて働き始めていたあの頃。
固い椅子で寝るのはいつものことだったし、むしろその痛みを利用して長く寝過ぎないというスキルも身につけていた。
いびきがうるさい先輩もいたし、ノルマも納期もないならむしろ天国に近い。
(納期の不安を感じず眠れるだけでどんなに幸せか……!)
今の状況に感謝しつつ、窓に頭を預けて眠る。
窓はひんやりしていて、触れる額と頬が冷たかった。
吐く息が硝子を曇らせた。
気がつくと私は眠っていて、目を覚ましたときには朝焼けの景色が車窓に広がっていた。
「入国審査を行います。職業と入国の目的をこちらの用紙に記入してください」
国境に置かれた検問所だった。
入国審査官の指示に従い、手続きを行う。
「ノエル・スプリングフィールド……無職」
私が渡した用紙を見つめて言う入国審査官さん。
悪いことはしていないはずなのに、無職と言われると妙に肩身が狭いのは不思議だ。
「入国の目的は観光のため……確認させてください。貴方は王宮魔術師ではありませんか?」
「前職はそうでした。今は辞めて無職なんですけど」
向かいの席に座っていた男性が目を少し開いた。
前職王宮魔術師というのが、なかなか珍しい経歴だからかもしれない。
「国別対抗戦でも活躍されてましたよね」
「そうですね。出場していました」
「アーデンフェルド王国でも随分期待されていたはずです。辞職した理由は?」
「一身上の都合です」
「クラレス教国では、二年前に起きたテロ事件以来、他国に属する組織の捜査権限を認めていません。虚偽の申告は厳しい処罰の対象になります。その上で確認します。貴方は王宮魔術師としての職務のために経歴を偽って入国しようとしているのではありませんか」
(なるほど。入国審査官さんからするとそういう風に見えるのか)
そう解釈する方がむしろ真実味をもって感じられるのだろう。
王宮魔術師を辞めるなんてなかなかないことだし、その直後に捜査が禁じられているクラレス教国に入国しようとしている。
職務のために身分を偽って入国しようとしていると考えるのは、妥当で合理性のある推測であるように見える。
人間は見たいものを見る生き物だから。
真実をありのままに伝えても、理解してもらえるとは限らない。
(でも、私は私の目的のためにこの検問を突破しないといけない)
ルークを一刻も早く助けるために王宮魔術師団を辞めたのだ。
拘留されたり、強制送還されたりしてロスしているような時間は私にはない。
「仕事を辞めて一度人生について考えたいと思ってるんです。働くだけが人生じゃないのかなって、そんな風に思うようになったというか。クラレス教国に来たのは、昔仲良かった友達を訪ねるため。少し人生相談がしたいなって」
「虚偽の申告は厳しい処罰の対象になりますが」
「嘘はついていません。全部真実です」
はったりだった。
嘘は苦手で、それでも真っ直ぐに入国審査官さんを見つめかえした。
私にはここを通らないといけない理由がある。
「…………」
入国審査官はじっと私を見てから言った。
「良いご旅行を。貴方に祝福がもたらされますように」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げてから、心の中でほっと息を吐く。
他の乗客が入国審査を受けるのを聞きながら、私は彼が最後に言った言葉を反芻していた。
『貴方に祝福がもたらされますように』
魔法以外のことにはそんなに詳しくない私なのでわからないけど、教国では日常的に使われている挨拶のようなフレーズなのかもしれない。
「ご協力ありがとうございました」
入国審査が終わる。
馬車がゆっくりと動きだす。
今何時だろう、と胸元を探って気づいた。
いつも持っていた金時計がない。
私は王宮魔術師団を辞めたのだ。
時計も買わなくちゃ、と思う。
太陽の傾き具合から、多分朝の七時くらいだろうと推測する。
もう一眠りしようと窓に額をあてて、目を閉じる。
どのくらい眠っていたのかはわからない。
私を揺り起こしたのは外から聞こえる街の喧騒だった。
(市場か何かかな)
出店が立ち並び、果物や魚や異国の料理が売られている。
(ここがクラレス教国)
行き交う人と営みは王国のそれとあまり変わらないように見える。
その一方で、建物の建築様式やあちこちに作られた聖書をモチーフにしたオブジェや十字架がアーデンフェルド王国とは異なる文化と歴史を持った国であることを私に伝えていた。
広場の噴水前で馬車が止まる。
全然違う噴水なのに、私の胸は少しだけ痛む。
「ご利用くださいましてありがとうございました。お足元に気を付けてお降りください」
子供を気遣いながら降りていく家族連れに続く。
朝の光に目を細めながら、私はクラレス教国に降り立った。
◆ ◆ ◆
「ノエル・スプリングフィールドが王宮魔術師団を辞職したとのことです。そのままクラレス教国に向かったと」
第一王子殿下ミカエル・アーデンフェルドの執務室。
王室直属の近衛部隊――王の盾に籍を置く側近の言葉にミカエルは表情を変えずに答える。
「そうか」
素っ気ない言葉だった。
その反応を、側近は意外に感じている。
殿下はノエル・スプリングフィールドに強い興味を抱いていた。
王宮魔術師団三番隊における地獄の洗礼、《血の60秒》でその姿を見たあの日から。
他の何にも興味を示さない殿下の瞳に光が灯る極めて珍しい例外。
だからこそ、辞職したという事実に興味を示さないのは意外だった。
「よろしいのですか?」
「何がだ」
「いえ、殿下はノエル・スプリングフィールドに関心を持っておられたようでしたので」
金色の瞳が側近の男に向けられる。
感情の色がない瞳に側近の男は動揺する。
背筋を冷たいものが伝う。
「も、もちろん関心を失うのも当然のことだとは思いますが。才能がある者は他にもいます。平民出身の若手魔法使いに興味を持つ必要もありませんし」
「彼女の代わりはいないよ。私を超える資質の持ち主がいるとすれば、彼女じゃないかな」
「それはどういう……」
「さあ、どういう意味だろうね」
ミカエルは微笑む。
いたずらを企む子供みたいな光が瞳に反射している。
「しかし、よろしいのですか。彼女を評価しているのであれば連れ戻すべきでは」
「どうして連れ戻さないといけないのだろう」
「クラレス教国は近隣諸国を強く警戒しています。加えて、【竜の教団】なる組織は極めて注意深く行動している。彼女が一人で行ってどうにかできるような相手ではありません。下手に行方を追えば、消されるのは目に見えている」
ミカエルは窓の外に視線を向けて言った。
「そう考えるのが普通の感覚なのだろうね。君たちでは彼女の真価が捉えられないから」
「殿下は違うのですか」
「彼女は困難な状況に置かれれば置かれるほど力を発揮する。もちろん一人の人間に過ぎない以上限界はあるけれど、その限界は君たちが思っているよりずっと先にあると私は考えている」
「ずっと先とは?」
「あの子の中には、私も予測できない何かが眠っている。引きずり出してみたくてね。いろいろ動いてきたけど、底が見えないんだ。いったいどこまで深いのか。気になって、夜も眠れない」
冗談めかして言うミカエル。
小さく目を見開いて側近は言う。
「ノエル・スプリングフィールドが何の後ろ盾も無い状況で【教団】を相手に一人で戦えると、本気でそう考えられているのですか」
「考えているよ。じゃないと、わざわざこんなことはしない」
「こんなことはしない……?」
側近はいぶかしげに目を細める。
息を呑む。
「まさか、宰相殿下が捜査を打ち切るよう王宮魔術師団に圧力をかけたのは――」
「あの人とは長い付き合いだからね。何を伝えればどういう風に動くのか、ある程度のところはわかってる」
「意図的にノエル・スプリングフィールドが単独で教国に向かうしかない状況を作ったのですか」
「決断まで数日はかかると思ってたけどね。本当に、彼女は私の予測を超えてくる」
こみ上げる笑みを隠すようにこめかみをおさえてから、ミカエルは言った。
「楽しみに待とうじゃないか。彼女の中にいる怪物を」