196 ささやかな祈り
いけないことなのはわかっていた。
仕事を辞めるなら、伝えてから一ヶ月くらいは働いて、残る人たちに負担をかけないよう配慮しないといけないし、私がいなくなっても大丈夫なように引き継ぎをしないといけない。
辞表を出して突然いなくなるというのは、責任感の欠片もない社会人としては最低の行為に違いなくて。
だけど、私には時間が無かった。
社会のルールも大切だけど、ルークの命の方がもっと大事だと思った。
王宮魔術師団が動けない以上、あいつを助けられるとすれば私だけなんだ。
(貯金もあるし、しばらくは大丈夫。辞め方がひどいから再就職には苦労するかもしれないけど、それは自分の責任だし思いきり苦労すれば良い)
大好きな魔法を使える仕事を見つけるのは、簡単じゃないかもしれない。
でも、あきらめなければ可能性は十分にあるはずだ。
この国で働けなくなっても、他の国にだって魔法を使える仕事はたくさんある。
(お母さんには申し訳ないな……)
唯一の気がかりが、一緒に暮らすお母さんのことだった。
私を魔法学校に通わせるためにたくさん働いて、身体を壊してしまったお母さん。
私が働いたお金がこの家唯一の収入源だったわけで、辞めるとなるとそれは家の中では大変な大問題。
不安にさせたり、悲しい思いをさせてしまったりするかもしれない。
家に帰って荷物をまとめてから、私はテーブルのポトスに水をあげるその背中に言った。
「お母さん。王宮魔術師団を辞めることにした」
私の言葉に、お母さんは表情を変えずに言った。
「どうして?」
「親友がすごく危ない目に遭ってるんだ。今行かないと取り返しのつかないことになるかもしれない。間違いなく一生後悔するから」
「あんたが行って、どうにかできることなの? 本当に考えて決断した?」
「考えたよ。いっぱい考えた。本当は選びたくなかったよ。でも、こうするしかないというのが私の結論だった」
「そう。……決めたのね」
お母さんは顔を俯けて黙り込んだ。
言葉を選びながら言った。
「私は不出来なお母さんだから、我慢なんてできない。言いたいことを言わせてもらう。辞めないでほしかった。今の職場で働き続けてほしかった。守ってくれる素敵な人と結婚して、安心させてほしかった」
お母さんは顔を上げて私を見た。
「でも、そんなこと本当はどうでもいいの」
たしかな意思のこもった言葉だった。
まつげの先に水の玉がついていた。
「結婚できなくても、仕事なんてしてなくてもいい。欲張りだから高望みしちゃうけど、本当の望みは違うの。私はノエルに危ない目に遭って欲しくない」
お母さんは訴えるように言った。
両手の拳がぎゅっと握られていた。
「すごく危険なところに行こうとしてるでしょ。もしかしたら死んでしまうかもしれないようなことをしようとしてる」
「そんなことは……」
「嘘はやめて。本当のことを教えて」
俯く。
私は少しの間押し黙ってから言った。
「……そうだね。そういうことをしようとしてる」
「それが私にとってどんなにつらいことかわかってる?」
「わかるよ。親不孝でごめんって思う」
「わかってないわ。この気持ちは親にならないと絶対にわからない」
お母さんは言う。
「一生懸命であきらめないところがすごいなって思ってた。天然さんで他の人と違うところが愛しかった。忙しくて一人にしてごめんっていつも思ってた。私の人生で一番大切なものがあんたなの」
「お母さん……」
「それでも行くと言うのなら、約束しなさい。絶対に生きて帰ってくるって。失敗しても良い。目も当てられないくらいひどい結果になってもいい。誰も助けられなくても、世界中から後ろ指を指されるような状況になってもいいの。他のことは全部受け入れるから――お願いだから生きて帰ってきて」
お母さんは真っ直ぐに私を見ていた。
私と同じ色の瞳にはたしかな意志が籠もっていた。
一瞬何も言えなくなる。
なんでだろう。
責めるような口調なのに、不思議なくらい心地良く感じられた。
それだけ私のために必死になってくれているのが伝わってきたから。
こんなにも大切に思ってくれている人がいる。
答えは決まっていた。
「絶対に生きて帰ってくるよ。約束する」
「それだけ守ってくれたら、後はどうでもいいわ。お金のことならどうとでもなる。こう見えて、お母さん結構強いんだから」
「知ってる。私はお母さんの背中を見て育ったから」
「うれしいこと言ってくれるじゃない」
肩をすくめてから、お母さんは言った。
「悔いが残らないよう思う存分やってきなさい」
「うん」
旅行用の大きな鞄に手早く最低限の荷物を詰め込む。
出発した私を、お母さんはずっと見つめていた。
豆粒みたいに小さくなっても、家の中に入らずずっと立っていた。
なんだかやけにちっぽけで、だからこそ胸がいっぱいになった。
(本当にありがとう)
心の中で思いながら角を曲がる。
お母さんの姿が見えなくなる。
だけど、お母さんが見ていてくれているのを私は感じている。
実際に見ていなくても私の中にお母さんがいるのだ。
心の中で聞こえるお母さんの声。
それはきっと、現実のお母さんと同じくらい大切なこと。
教国に向かう乗合馬車に乗るため、王都の馬車組合に向かう。
組合施設の中に入ろうとした私を呼び止めたのは、知っているあの子の声だった。
「なにしてるんですか、先輩」
声はふるえていた。
静かな怒りがそこにはあった。
整った二つの目を鋭く歪ませて、王宮魔術師団七番隊の後輩だったイリスちゃんが、私を見ていた。
「辞表を出したって聞きました。冗談ですよね。嘘ですよね」
詰問するような口調だった。
私は少しの間考えてから言った。
「冗談でも嘘でもないよ。私は王宮魔術師団を辞める」
「逃げるんですか。仕方ないですよね。あたしの才能が怖いから。先輩では私に勝てないから」
「そうだね。そうかもしれない」
「……適当なこと言わないでください」
イリスちゃんは静かに言った。
「今の私じゃノエル先輩に勝てないのはわかってます。先輩は私以上に多くを犠牲にして、たくさんの量を積み上げてきたのがわかったから。でも、だからこそ先輩の言葉なら聞いてもいいかって思ったんです。普通に甘えて妥協してる凡庸な連中とは違う。誰よりも魔法に一途な先輩の言葉なら聞いてもいいかって」
姿勢の良いイリスちゃんの背がいつも以上に高く感じられた。
私は何も言わず彼女を見上げていた。
「だから、人としてちゃんとすることもやってみようと思いました。凡俗な連中とも目線を合わせて話してあげました。意外と楽しく話せることもあったりして、これはこれでいいかなんて思っていたのに」
イリスちゃんは私の襟首を掴んだ。
指のふるえを首筋に感じた。
「なのに、先輩が人として間違ったことをするんですか。みんなに迷惑をかけて、期待してた人を裏切って……なにやってるんですか。全然先輩らしくないですよ、こんなの」
イリスちゃんは顔を俯けた。
「魔法を追求して上を目指すなら辞めちゃいけません。環境って大事なんです。最前線で戦える環境を手放してはいけないんです」
左手がすっと私の袖を掴む。
形の良い指に、ぎゅっと力が込められるのを感じる。
「行っちゃダメです。今ならまだ間に合いますから。私、先輩と一緒に謝りますから」
「ごめんね。それでも、私は行かないといけないの」
私はイリスちゃんの手を掴んだ。
強ばった指をひとつずつほぐして外していった。
「イリスちゃんは絶対大丈夫。私より優秀な魔法使いになれるよ」
「そんなこと言われても全然うれしくないです。教えてほしいことがたくさんあるのに……」
イリスちゃんはくずおれてへたりこんだ。
頼りなげなか弱い子供みたいに見えた。
私は彼女を慰めたいと思った。
励まして元気づけたかった。
だけど、私には時間が無い。
後輩のことも大切だけど、命の危機に瀕している親友の方が今は大切だから。
「…………ごめん」
何かを選ぶということは何かを選ばないということだ。
痛みと罪悪感を引き連れて前に進む。
「先輩」
後ろからイリスちゃんの声が聞こえた。
「絶対帰ってきてくださいね。あたし、どんなことでもしますから。先輩の分も頭を下げますから」
それは、わがままで自己中心的だった昔のイリスちゃんからは絶対に出ない言葉であるように感じられた。
しかもこの状況で、不義理なことをしている私に対してそんな風に言えるなんて。
もしこの子の変化に、少しでも先輩としての私が影響していたとしたら。
――そんなにうれしいこと、他にはない。
「ありがとう」
私は言う。
「イリスちゃん、ずっと見てるから。応援してるからね」
戻ることはできないだろう。
わかっている。
それでも、そんな風に言ってもらえるのがどんなにうれしいか。
振り向かないまま彼女と別れた。
最低な先輩と思われたかもしれない。
それでいい。
彼女の人生に幸せな瞬間が、少しでも多くありますようにと祈っている。