182 夜の中
アルバーン家は軍略に秀でた名家として知られている。
戦乱のたびに王国のために戦い、優秀な指揮官を輩出して家格を上げた。
その出身者は王の盾と王立騎士団、そして王国議会にも多く名を連ねている。
現当主はグラハム・アルバーン。
王国議会で最も大きな力を持つ一人として知られる王政派の傑物だ。
一族の結束は固く、つながりは深い。
一方で、家名を優先する風土に反発して絶縁し、在野で活躍する者も多いのがこの家の特徴だった。
王国西部で最も腕の立つ冒険者として知られるレイヴン・アルバーンもこの家の出身者という噂がある。
王国の中枢を固めながら、貴族社会とまったく違う世界に自分の道を見つける者も多いのは、それだけ家名に縛られる部分が大きいのだろう。
レティシアは王宮魔術師として、アルバーン家の出身者と何度も関わっている。
そのたびに感じるのは、厳格で妥協のない教育と風土だ。
彼らは一挙手一投足を訓練されている。その振る舞いのほとんどは徹底した教育によって身体に刻み込まれている。
独創性や想像力の入り込む余地はほとんどない。
彼らは皆姿勢が良く、鍛えられた肉体を持ち、貴族の模範として自然と人に慕われる言葉選びをする。
ルークがヴァルトシュタイン家で受けてきた厳しい教育は、アルバーン家のそれをイメージして行われたのだろうとレティシアは推測していた。
魔法に秀でた名家として知られるヴァルトシュタイン家は、伝統と貴族としての振る舞いにおいてはアルバーン家に先を行かれていた。
ライバルであるアルバーン家の良い部分を取り入れることで、自らの息子を誰よりも優れた作品として作り上げようとしたのだろう。
試みは結果的にはうまくいった。
ルーク・ヴァルトシュタインは王国史上でも類を見ない優秀な若手貴族として、誰もが認める存在になっている。
(次期当主が目覚ましい活躍を見せるヴァルトシュタイン家への危機感が、アルバーン家を裏切りに駆り立てた可能性がある)
レティシアはそう考えていたが、ルークの見立ては少し違うように感じられた。
『ヴァルトシュタイン家次期当主としてアルバーン家とエニアグラム家のことはよく知っている。つながりがないわけがない』
ルークの言葉には最初から、王国を脅かす何者かとのつながりを持っている確信があったように感じられた。
御三家の人間として育ってきた彼が見てきたアルバーン家の実像は外から見えるそれとは違うのだろう。
価値があると判断すれば、王国に仇なす者とも関わりを持ち、いざというときのためのリスクヘッジをする。
そういう強かさがアルバーン家にはあるのかもしれない。
それはおそらく、エニアグラム家も同様なのだろう。
政略に優れた名家であるエニアグラム家は、計略においては右に出る者がいない。
巧みに風向きを読み、未来の勝者に恩を売り、力を貸す。対立する勢力の両方を陰で支援していることも珍しくない。
一方で、敗者に協力した責任を追及された場合を想定して、常に切るべき部分を準備していた。
トカゲが尻尾を切って逃げるように、家名に傷がつかない者を矢面に立たせ、責任を取らせた。
もちろんこういった事実は一般には知られていない。
エニアグラム家は最も失態が少なく、状況を見極める眼力を備えた名門貴族家として知られている。
(光が強いほど影は深さを増す。綺麗に見えるものほどその裏に汚れを内包している)
それは王国貴族社会の裏側を誰よりも知るレティシアの経験則だった。
御三家の人間として育ったルークは、その現実を肌身にしみて知っているのだろう。
(問題は御三家がどの程度本腰を入れて組織と関わりを持っているのか。そして、何より重要なのは組織の情報を手に入れること)
アルバーン家とエニアグラム家の潜入調査は簡単なことではなかった。
敷地内には厳重な魔法結界が張られていたし、練度の高い私兵が縄張りを見張る狼のように周囲を見回していた。
しかし、王国貴族邸宅の警備態勢についてレティシアほど詳しい人間は他にいない。
変身薬で姿を変え、関係者に成り代わって情報を収集する。
私室の隠し書庫に隠されたメモの内容を手帳に記録する。
【教団】という単語が二十九回。【竜の教団】という単語が二回使われている。
敵組織の呼称である可能性が高いとレティシアは推測する。
その名前はレティシアに、帝国領《封印都市》で起きた《古竜種》騒ぎのことを思いださせる。
あの地に封印されていた不気味な存在に何か関わりがある組織なのかもしれない。
潜入調査の結果わかったのは、アルバーン家とエニアグラム家が想像していたよりずっと積極的に、組織と関わっているということだった。
(どうしてこんな巨額の資金を……)
準備されている膨大な金貨の量にレティシアは言葉を失った。
詳しい事情はわからないが、アルバーン家とエニアグラム家は過去に例がない規模の資金提供を組織――おそらくは【竜の教団】と呼ばれる何か――に対して行おうとしている。
(いったいどうして……何か致命的な弱みを握られている? あるいは、それを対価として組織を通してしか手に入れることができない何かを手に入れようとしているのか)
そして、最後に思い至ったのは最も考えたくない展開だった。
(【教団】が王室を攻撃した際、成り代わってこの国の支配権を手に入れようとしている)
あり得ない話ではないと思った。
積極的に組織に協力し、この規模の資金提供をしていることを考えると筋が通る。通ってしまう。
(ヴィルヘルム伯の一件以来、王室は免税特権廃止に向けて本格的に動き出している。恩恵を受けている貴族たちの中には裏切りと捉える人もいるとは聞いていたけど)
アルバーン家とエニアグラム家がそのような結論に至っている可能性を否定することはできなかった。
先祖から受け継いだ名誉と誇り。
免税特権を廃止することは彼らにとって得られる収益を失う以上の何かがあるのだろう。
あるいは、それを大義名分にして既得権益を守ろうとしているだけなのかもしれない。
どちらがより現実に即しているのかはわからない。
人間は時に無自覚に嘘をつく。
美しく都合の良い嘘は自分をも騙す。
しかし、【教団】に多額の資金が流れるということは、彼らがさらに力を増すことを意味している。
(絶対に阻止しないと)
レティシアは取引についての情報を収集した。
準備されている莫大な量の金貨は、三日後の夜に受け渡しが行われる手はずになっているようだった。
場所は王都の第十九地区。治安が悪いこの地域の中心部にあるうち捨てられた廃墟の一角を、【教団】は拠点のひとつとして利用している様子だった。
しかし、どんなに調べてもそれ以上の情報は出てこない。
アルバーン家とエニアグラム家の関係者もそれ以上の情報は知らないのだろう。
【教団】はここでも極めて巧妙かつ慎重に行動している。
(今はこれが限界。ひとまず集めた情報を持ち帰って精査しましょう)
音を立てないよう細心の注意を払いつつ、邸宅を後にしようとしたそのときだった。
強烈な悪寒がレティシアを襲った。
迫る危険の匂い。
気のせいかもしれない。周囲には何の気配もない。
しかし、レティシアはためらいなく自分の直感に従った。
外へ続く小窓の鍵を開け、身体を折りたたんで押し込む。
レティシアの判断は正しかった。
自分を取り囲もうとしている何者かの気配。
隠蔽魔法。
数は最低でも三人。
おそらく、その二倍はいると考えておいた方がいいだろう。
対して、レティシアは自身が選択できる最短のルートで逃走を図った。
隠蔽魔法はこちらも起動している。
そして、他の魔法を使うのは避けたかった。
優秀な氷魔法の使い手であることが知られれば、王宮魔術師団に疑いの目が向く。
二番隊隊長のクリスと三番隊副隊長のレティシアが警戒すべき人物として浮上する。
情報を渡すのは得策ではない。
敵がこちらにしているのと同じように、様々な選択肢を提示し続けなければ。
つまり、この戦闘の勝利条件は魔法を使わずに逃げ切ること。
二階の屋根から跳び、芝生の上に転がりながら衝撃を殺す。
花の香りがする庭を走って、自身が開けた魔法結界の穴に向けて走る。
しかし、レティシアを追う姿の見えない敵は、彼女が想定していた以上の手練れだった。
ナイフによる一閃がレティシアをかすめる。
隠蔽魔法が機能しているにもかかわらず、敵はレティシアの位置を的確に把握している。
咄嗟に腕を取って肩の関節を外す。
自身の敵を討つために磨き上げた体術。
鍛えられ引き締まった肉体はレティシアがイメージした動きを寸分違わず形にする。
鍛え上げられた大男が絶叫する痛みを与えるレティシアの体術。
しかし、肩を外された男は声ひとつ漏らさなかった。
短く小さい息を吐いただけだ。
瞬間、目の前で火花が散った。
額にするどい痛み。
宙に浮く身体。
背中を強打して、石畳の上を転がる。
そこでレティシアは自身の過ちを悟った。
魔法を使わずに接敵できる相手ではなかった。
手段を選ばずどんな手を使ってもこの場から逃走することを選択しないといけなかった。
そのわずかな時間で、敵は既にレティシアに追いついている。
魔法を起動しても間に合わない。
(もしここで私が捕まったら――)
考えたくない状況だった。
貴族社会において絶大な影響力を持つ二つの家は、どんな手を使ってもレティシアとルークを消そうとするだろう。
無実の罪を着せられ、永遠に思える時間を牢獄の中で過ごすことになるかもしれない。
あるいは、その前に命を奪い取られ深い水面の底に沈められるかもしれない。
拷問され、自白剤を飲まされる状況を想定して、魔法による自害が頭をよぎったその瞬間だった。
取り囲んでいた敵の一人が弾き飛ばされて、もう一人を突き飛ばして転がる。
見えない敵の一人が攻撃したのだ。
(仲間割れ――?)
味方から攻撃されることはまったく想定していなかったのだろう。
包囲が崩れる。
何者かはレティシアの手を引いて、魔法結界の穴へと走り出す。
勝負を分けたのは一瞬の判断の遅れだった。
レティシアは裏切った何者かと共に小さな穴をくぐり抜け、結界に穴を開ける迷宮遺物を解除する。
魔法結界が追っ手の行方を阻む。
痕跡が残らないように回収して、夜の街を走る。
大きな手だった。
その感触をレティシアは知っている気がした。
追っ手を完全に撒いたことを確認してから、その何者かはレティシアの手を離して夜の街へ消えた。
後を追うことはできなかった。
大きな背中が闇に消える。
夜の中で一人、立ち尽くす。
(今のは――)
吹き抜ける強い風がレティシアの頬を撫でた。