181 熱
家に帰ってからもレティシアはその手の感触を繰り返し思いだした。
それはふとした瞬間に、彼女の心をつかんであの日の路地に連れて行った。
思いだすとなんだか落ち着かない気持ちになった。
彼の手の熱は、レティシアの身体の中に消えない熱のようなものを残していったように感じられた。
レティシアはその熱を不思議に思いつつ観察した。
(どうして私はあのときのことをこんなに考えているのだろう?)
しかし、どんなに考えても答えを出すことはできなかった。
そんなことレティシアの人生では初めてのことだったし、領主の箱入り娘として大切に育てられた彼女には知らないことがたくさんあった。
わからない。
でも、知りたい。
レティシアはもう一度彼と手を繋いでみよう、と思った。
そうすれば何かわかることがあるかもしれない。
しかし、それは簡単なことでは無かった。
お嬢様であるレティシアと、粗雑な男の子たちの中心だった彼の間に、元々関わりは少なかった。
今までの距離と日常を変更して、近づくのは何か良くないことであるような感覚があった。
何より、誰かに見られるのはどうにも気恥ずかしい。
だけど、チャンスはある日唐突に訪れた。
夕暮れの私塾。忘れ物を取りに戻ったレティシアは、自習室で彼が机に突っ伏して寝ているのに気づいた。
周囲には誰もいなかった。レティシアは念のため、部屋の周囲を入念に点検した。
ロッカーを開けてかくれんぼしている男の子がいないことを確認し、窓を開けてのぞき見る可能性がある誰かがいないことを確認した。
レティシアは彼と二人きりだった。
赤みを帯びた日差しが射し込んでいた。
世界から他の人が消えたみたいに感じられた。
レティシアは机に突っ伏す彼を見ていた。
赤髪が橙色の日だまりに包まれていた。背中が規則正しく動いていた。
口の中が乾いている。身体が汗ばんでいるのを感じる。緊張している自分がいる。
いけないことをしている感覚があった。
やってはいけないことだと思った。
だけど、レティシアはそっと彼の手に触れた。
どれくらいの間手を繋いでいたのかはわからない。
長かったような気がするし、短かったような気がする。
彼の手はあたたかかったと思う。
他のことは何も覚えていない。
気づいたときレティシアは、熱いものを触ったみたいに慌てて手を離し、ぎこちない動きで外へと駆け出していた。
じっとしているなんてとてもできなかった。
心臓が飛び出しそうだった。
私塾が見えなくなるところまで走って、膝に手を突いた。
荒い呼吸を整えた。小さな白い花が風に揺れていた。
なんだか不思議なくらいに綺麗に見えた。
もしかしたら、それは恋と呼ばれる類いのものだったのかもしれない。
レティシアはそういう感情があることを知識として知っていた。
早熟だったレティシアは、それが単なる気の迷いではなく、自分が恋というものの入り口にいることを感覚的に自覚しつつあった。
しかし、どうしていいかわからなかった。
その出来事があった後、レティシアは今までと同じように過ごしていた。
いけないことをしたという感覚があったし、思いを知られてはいけないと思っていた。
あるいは、怖かったのかもしれない。
拒絶されたらどうしようという畏れがあったのかもしれない。
そのままの関係で時間が過ぎていれば、レティシアは何らかの決断をしていただろう。
思いを伝えるのか、秘めたままそのままの関係を維持しようとするか。
しかし、結果はそのどちらにもならなかった。
大きな出来事によって、レティシアの生活は一変することになった。
《先生》は遠くの世界に旅立ち、私塾は解散した。
引きちぎられたみたいに、その場所は唐突に失われた。
レティシアは復讐に人生のすべてを捧げた。
淡い感覚は、激しい怒りと共に遠ざかっていった。
もしかしたら、初恋だったのかもしれない。
悲劇が起きずあのままの日々が続いていたら、私は彼と付き合って今頃お嫁さんみたいなことになっていたのかもしれない。
(いや、それはないか)
貴族家に生まれたレティシアの宿命として、結婚相手には相応の家柄が求められる。
少なくとも、両親と親戚はそれを望んでいる。
平民で孤児院育ちの男の子なんて、聞いただけでお祖母様は気絶してしまうだろう。
あの恋は、決して許されないものだった。
実らなくて、それでよかったのだ。
(彼は今、何をしているのだろう?)
できるなら大人になった彼と話してみたかった。
幸運な偶然で再会して、あの頃のことについて言葉を交わしたい。
しかし、そんな都合の良いことが起きるわけないのが現実だ。
彼は自分のことを覚えていないかもしれないし、そもそも、あの日のことだって特に意味はなかったのかもしれない。
(それでもいい。これは私にとっては大切な記憶だから)
あり得なかった選択。
生まれかけていた小さな恋の残滓。
復讐に命を捧げた愚かな女にはこれだけで十分すぎるくらい。
(これは私が今まで経験した中で最も危険な仕事になる)
一歩間違えばすべてを失うだろう。
生きて帰れないかもしれない。
代償はあまりに大きいかもしれない。
それでも、自分が危険を冒さなければ、無鉄砲な後輩はさらにもっと危ない状況に踏み込むことになる。
(これは私が絶対にしないといけないことだ)
レティシアは王国貴族社会の最上部に位置する御三家――アルバーン家とエニアグラム家に潜入することを決める。