180 知らない誰か
「御三家の調査結果はどうでした?」
王宮魔術師団三番隊副隊長執務室。
鍵のかけられた部屋では、盗聴防止の魔道具が青白い光を放っている。
サファイアブルーの瞳と問いかけ。
対して、レティシア・リゼッタストーンは周囲を一度確認してから言った。
「事実を裏付けられる証拠は何一つ出てこなかったわ。王国を脅かす強大な何かとのつながりは無いように見える、というのが私の調査結果」
「では、御三家のうちアルバーン家とエニアグラム家は白と考えていいと?」
「状況はそう簡単に結論づけられないと私は見ている。あまりにも綺麗すぎるのよ。調査が行われることを想定して準備していたように見えた。作為的な何かの気配があった」
「ヴィルヘルム伯の一件もありましたしね。警戒して対策していた可能性もある」
「あれが対策の結果だとすれば短期間でできるものじゃない。仮に黒だったならおそらく、ずっと前から少しずつ準備は進められている」
部屋を沈黙が満たした。
空気にひりついた何かが混じっていた。
「レティシア先輩はどう考えていますか?」
「明確な事実を根拠に答えれば白と言うしかないわね」
「不明確な事実を根拠にすれば?」
ルークは言う。
「貴方の勘はどちらだと言ってますか?」
レティシアはじっと黙り込んでから言った。
「おそらく黒。アルバーン家とエニアグラム家は王国を狙う何者かと接触している」
「想定していた中で最悪の状況ですね」
「貴方にとっては好都合なんじゃないの?」
「どういう意味ですか?」
「王国を狙う何者かの存在を暴き、両家との関係を明らかにすれば、七番隊の船出としては最高に近い成果を残すことができる。今の貴方がこれだけの結果を出せば、聖宝級昇格は間違いない」
「そうですね。都合が良いのは認めます。ですが、正直ここまでは僕の中では既定路線でした。ヴァルトシュタイン家次期当主としてアルバーン家とエニアグラム家のことはよく知っている。つながりがないわけがない」
「じゃあ、ヴァルトシュタイン家も」
息を飲むレティシア。
「うちの家からは何も出てきませんでした」
ルークは表情を変えずに言った。
「レティシアさんのケースとは違います。準備も対策も今まで以上になされてはいない。不正と後ろ暗いつながりのオンパレードです。事実が表になれば、ヴァルトシュタイン家は壊滅的なダメージを受ける。もちろん、それを許す父ではないですが」
「しかし、王国を狙う何者かとの接触はなかった」
「そういうことです」
ルークは痛むみたいに目を細めて、窓の外を見つめた。
「よかったじゃない。御三家のすべてが裏切っているという最悪の事態は回避することができた」
「よくないですよ」
ルークは感情のない声で言った。
「最悪です」
おそらく、ルークが最も仕留めたかった標的は、自らの父でありヴァルトシュタイン家だったのだろうとレティシアは推測した。
父の不正と裏切りを暴いて追い落とし、英雄的にヴァルトシュタイン家の当主となる。
腐敗としがらみに満ちた家を解体し、万全の地盤を築く。
(そうすれば、平民であるあの子と結婚しても誰も反対意見を言えなくなる。あの子に対する悪評も防ぐことができる)
そこまで先のことを想定しての行動だったのだろう。
御三家が王国を狙う何者かとつながりを持っている可能性に気づいたとき、ルークは何よりもそこに期待したはずだ。
英雄的に父を追い落とすことができれば、彼の抱える問題の一切はこれ以上無い形で解消される。
しかし、現実としてはそうはならなかった。
王政派の筆頭であるヴァルトシュタイン家が、王室に反旗を翻す可能性は低いと判断したのかもしれない。
慎重かつ賢明な選択だ。
私も敵の立場なら同じ選択をするだろう。
(そこまでこの国の内部事情をよく知ってるなんて)
ヴァルトシュタイン家は王政派の筆頭だが、血筋によるつながりの深さで言えばアルバーン家とエニアグラム家の方が深い。
どこが崩れやすく、どこが堅固なのか。
外から見極めるのは簡単なことじゃない。
(御三家に接触する以前からこの国のかなり奥にまで入り込んでいた? あるいは内部事情を知ることができる情報筋を持っていた?)
ルークに渡された資料に視線を落とす。
新設された七番隊が行っている大図書館のアーカイブと不正事件記録の整理。
対外的には、人手不足で後回しにしていた雑用を買って出ているように見えるこの仕事の真の目的は、王宮内にいる内通者を割り出すことだった。
ヴィルヘルム伯と同様に、失われた旧文明の魔法技術を使って何かを企む有力貴族。
ルークが裏で手を回し、既に八人の使用人と三人の貴族が取締局の監視下に置かれている。
しかし、ここまで大がかりに活動しながら、未だにレティシアがほとんど情報をつかむことができずにいる敵組織はいったい何者なのか。
(西部辺境を襲った《飛竜種》には対象を狂化状態にする遺物が使われていた。《薄霧の森》に現れたゴブリンエンペラーにも高度な隠蔽魔法が使われていた上、何者かが人為的に発生させた可能性がある。犯罪組織《黄昏》の背後には資金を提供した何者かの存在があった。《封印都市》における《古竜種》騒ぎも、首謀者についてはほとんど何もわかっていない)
最悪の場合、数万人の被害者が出てもおかしくなかった事件の数々。
《古竜種》の事件に至っては、国ひとつが消えてなくなる可能性さえあった。
これらの事件について、関連する何かは見つかっていない。
しかし、ルークとミカエル王子殿下はその背後に同一の何かの存在を感じている。
このまま調査を続行しても何も得られない可能性が高い。
リスクを冒さなければならないというのがレティシアの判断だった。
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
多くを得るためには、失う覚悟を持って踏み込まなければならない。
(おそらく、彼は既にかなり危険なところまで踏み込んでいる。私が何もせずにいるわけにはいかない)
単独行動を好む危なっかしい後輩に、レティシアは自分に似た何かを感じていた。
だからこそ入団当初から気にかけた。
同じ類いの人間だからわかる。
彼を止めることはできない。
危なっかしい後輩を守るためには、代わりに自分がリスクを取る必要がある。
(私は彼より八年も長く生きてるしね)
三十才の誕生日が迫っていた。
大好きだった《先生》の敵討ちのためにすべてを捧げてきたこれまでの人生に悔いは無い。
最も叶えたい願いは果たすことができたのだ。
優秀な後輩と仲間に助けられて、願ってもないくらいの理想的な形でレティシアの復讐劇は幕を閉じた。
恵まれていたし、幸運だった。
だから、もう十分。
今度は私が、助けてくれた後輩の力になる番。
(しかし、いつものことながらすごいわね。好きな相手とは言え、そこまでがんばれるものなのかしら)
自分にはできないと思うのは、情が弱く冷たい人間だからなのだろうか。
恋愛的な意味で、誰かを好きになるという感覚がレティシアにはわからないところがある。
知識として理解はしているけれど、そういう思いを経験することはなかった。
告白されたことは何回かあるが、自分にはずっと大切なことがあったし、心が揺り動かされるようなこともなかった。
それだけ余裕が無かったのかもしれない。
あるいは、そういう感情に縁が無い類いの人間なのかもしれない。
『ほんと冷たいよね、あいつ』
『レティシアは何を考えてるかわからないんだよ』
昔言われた言葉が頭をよぎる。
その通りだと思う。
私だって、私のことがよくわからない。
(あるいは、あれは恋だったのだろうか)
思いだされたのはずっと昔のことだった。
レティシアは十才の少女で、自分が神様に守られているように感じていた。
大人はみんな大きくて立派に見えた。
悲しい顔をしているとすぐに両親と《先生》が声をかけてくれた。
知っている誰かが死んだことはなかった。
自分と周りの人は永遠に生きられるんだという錯覚があった。
それは長くは続かない、つかの間の夢のような時間だった。
そんなある日、《先生》に連れられてレティシアは私塾の子供たちと町の魔道具店に行くことになった。
道中で迷子の小さな男の子を見つけたレティシアは、声をかけてその子の両親を探してあげた。
レティシアは聡明な子供だったから、男の子の話す要領を得ない言葉の中から価値のある情報を抜き出して現実的な意味のあるものとして再構成することができた。
レティシアは男の子の両親を見つけ、探していた両親からいたく感謝された。
しかし、気づいたときレティシアの周囲に知っている人は誰もいなかった。
男の子の両親はレティシアの落ち着いた振る舞いを見て、このあたりに住んでいる子だと錯覚していたし、《先生》と私塾の仲間たちの中にもしっかり者のレティシアは大丈夫だという信頼があった。
偶然が重なって、彼女が迷子になるという状況を誰も想定していなかった。
そして、彼らが考えている以上にレティシアの知識には抜けている部分があった。
知っていることについては、大人よりも的確に対処することができたが、知らないことに対しては年相応の子供でしかなかった。
領主の家のお嬢様として育ったレティシアは、町の中に治安が悪い危険な地域があることも、世界が残酷で悪意に満ちていることも知らなかった。
迷い込んだ薄暗い路地裏。
黒ずんだ布きれ、破砕した木箱、酒瓶の破片。
潰れて腐敗した果実と鼠の死骸。
くたびれた服を着た男たちがレティシアを見ていた。
大柄な男に腕を掴まれた。
汗の臭いがした。酒の臭いがした。
路地の奥に連れ込まれそうになったそのときだった。
汚れた灰色の靴が男の顔面を捉えていた。
空を飛ぶかのような跳躍からの跳び蹴り。
同じ私塾に通っていた男の子だった。
大人を押し飛ばして、レティシアの腕をつかんだ。
有無を言わさず手を引いて、路地の中から連れ出した。
「どこ行ってんだよ。危ねえだろ」
男の子は怒っているみたいだった。
彼の手はしっかりとレティシアの手をつかんでいた。
彼は他に何も言わなかった。
こちらを向くこともなく、ただ前を見て歩いていた。
彼の手は熱を持っていて、別の生き物のような不思議な感覚があった。
知っている男の子のはずなのに、なんだか知らない誰かみたいに見えた。