176 衝突
「先輩。魔力を制限する遺物を付けてますよね」
イリスちゃんの言葉に、私はうなずいた。
「よく見てるね」
「どういう遺物なんです?」
「二級遺物《魔封じの腕輪》。装備した人の魔力を半減させる」
剣聖さんとの御前試合前に、ルークが貸してくれた遺物だった。
あのとき練習してた経験が、ヴィルヘルム伯との戦いで魔力を制限された際の戦闘で役にたったこともあって、私はこの一ヶ月魔法を使うトレーニングの際にはこの腕輪を使うようになっていた。
「半減でその魔力。さすが副隊長って言った方がいいですか?」
目を細めるイリスちゃん。
「楽しみです。腕輪を外した先輩は、間違いなく私が向かい合った中で一番強い相手なので」
「外さないよ」
「え?」
「外さなくても貴方くらいには勝てるから」
「…………」
イリスちゃんの瞳から光が消える。
顔の筋肉が引きつり、口と頬が暴力的に歪む。
そこには強烈な怒りがある。
「は? 冗談でしょ」
イリスちゃんは私を睨む。
「後悔しても知りませんからね」
「しないよ。今の貴方にはまず負けないから」
「完膚なきまでに叩き潰してあげます」
魔法式を起動するイリスちゃん。
(ここまでは予定通り)
この勝負の狙いは、イリスちゃんに自分の未熟さを自覚させること。
そのためにはただ勝利するだけでは足りない。
圧倒的な力の差を見せつけ、今のままでは敵わない相手がいることを理解させる。
しかし次の瞬間、炸裂した水魔法の威力に私は息を呑んだ。
(高等魔術学院を卒業したばかりでこの威力が出せるなんて……)
実戦経験が一度もないにもかかわらず、この魔法技術。
さすが同世代では敵無しだった天才。
現代魔法における純粋なセンスと才能なら、私なんかよりずっと良いものを持ってるかもしれない。
高等魔術学院卒業時で考えれば、間違いなく私よりはるかに上。
(だけど、私はそこから貴方よりずっと多くのものを積み上げてる)
ボロボロになりながら働き続けた魔道具師ギルドでの経験。
どんなに苦しい状況でも、魔法に関しては一度も手を抜かなかった。
流した汗の量では、誰にも負けない。
さらに、魔法を制限された状態でルークと戦った御前試合前の経験と、ヴィルヘルム伯屋敷での戦いも私にとっては大きかった。
簡単な相手ではないけれど、もっと厳しい状況を私は知っている。
(おいで。先輩の力っていうのを教えてあげる)
◇ ◇ ◇
イリス・リードにとってその先輩は、自身が超えないといけない現実的な目標だった。
神童として、幼い頃から同世代の相手には誰にも負けなかった彼女がその先輩を知ったのは、国別対抗戦最終予選でのこと。
魔導国で行われた試合で、イリスはその小さな魔法使いに興味を持った。
(この人、なかなかやるじゃん)
自分が落選した魔導国代表選手の座。
イリスが判定で負けたずっと年上の魔術師を相手に、小さな魔法使いは一歩も退かずに番狂わせを演じてみせた。
(魔導国の魔法体系と違う独創的な魔法式構造。すごい、面白い)
何より、彼女の心を強くふるわせたのはその魔法から感じる同じ匂いだった。
(この人は私と同じ類いの人間だ。誰よりも多くの時間を魔法に捧げてる。他の一切を捨てて、大切なたったひとつに人生のすべてを懸けてる)
『魔法がうまくなる一番の方法はね。魔法以外のすべてを捨てることなんだ』
それはイリスが両親から教わったひとつの真理だった。
事実として、魔法以外のすべてを捨てたことで彼女の魔法使いとしてのレベルは急速に上がった。
周囲とのトラブルは増えたが、魔法に比べれば取るに足らないことだった。
才能が無い惰弱な連中に気を使うなんて人生がもったいない。
私は本物の天才であり、凡百な連中とは時間の価値が違うのだ。
(あの人なら、きっと誰よりも私のことをわかってくれる)
周囲の反対を無視して、アーデンフェルド王国の王宮魔術師を目指すことを決めた。
魔導国とは異なる魔法体系に苦労することもあったけど、魔法についての理解を深めるためにはそれも好都合だった。
中央統轄局の方に直談判して、小さな先輩と同じ部隊に配属してもらって。
そして、愕然とした。
『私、七番隊をみんなが生き生きと働ける素敵な部隊にしたいんだ』
『新人ちゃんたち、どんなことでも気軽に聞いてくれていいからね』
『いいのいいの、教えてあげる。その魔法式は――』
(なに、これ)
その人は、自分の訓練よりも入ってきたばかりの後輩の指導を優先しているように見えた。
(ありえない。こんなことしてて強くなれるわけないのに)
何より、イリスの気に障ったのは魔法を心から楽しんでいるその表情だった。
(そんな甘いやり方で……)
ふざけるな、と思った。
楽しんでやるなんていうのは甘えだ。
二十四時間魔法のことだけを考えて徹底的に突き詰めるのが本当に正しいやり方。
朝は五時に起きて魔法式を描く反復練習。
通勤中は歩きながら改善点探しをし、昼休みも魔導書を読みながら食事を取る。
帰ったら八キロのランニングをし、身体と脳の機能を向上させる。
魔導書を二時間読んで、古代魔導書を一時間翻訳する。
一日の反省と明日の目標を思い浮かべながら眠りにつく。
時間が勿体ないので家事はしない。
部屋は散らかり、服があちこちに垂れ下がっている。
ピザとハンバーガーとホットドッグの紙袋が無数に転がっている。
(こんなに高い能力を持ってるのに。このあたしが認めてあげたのに)
許せない。認められない。受け入れられない。
(この先輩は、私が正してあげないといけない)
そう考えていたイリスにとって、先輩との模擬戦闘は願ってもない機会だった。
(完膚なきまでに叩き潰す。先輩が自分の間違いを自覚できるように)
幾重にも起動する魔法式。
《刺し穿つ水流の槍》
あらゆるものを一瞬で破砕する水流の槍による連続攻撃。
対して、ノエルの対応はイリスを落胆させるものだった。
為す術無く《固有時間加速》を使って後退し回避に徹する。
速さは国別対抗戦で見たときよりも落ちている。
(当然よね。魔力を半減させる二級遺物を使っているのだから)
最初から対等な勝負ではない。
この戦いの目的は先輩を倒すことではない。
(ハンデをつけて勝てる相手じゃ無いと理解させる。圧倒して完膚なきまでに蹂躙する)
逃げに徹する相手に対し、全てのリソースを攻撃に注ぎ込む。
踏み込んだイリスの視線の先で、かすかにノエルの口角が上がったのが見えた。
《烈風弾》
放たれたのは小さな風の弾丸。
簡略化した魔法式によるその攻撃は、しかしイリスにとって最も厄介なタイミングでのものだった。
(攻撃する気配なんて全然無かったのに――)
前のめりになった瞬間をつく、心が読めているのではないかと錯覚する一撃。
(違う。最初からこれを狙ってた)
逃げに徹したのは誘いの隙。
じれたこちらが攻撃へのリソースを増やし、仕留めにかかるそのタイミングを狙っていた。
簡略化した魔法式による攻撃でも、不意打ちでのカウンターとなると対処は容易ではない。
(ぐっ、でもこの出力なら)
起動する寸前だった魔法式を修正し、水の槍を壁にして相殺する。
(威力はこちらの方がはるかに上。当てさえすれば防ぐことは容易)
水の槍が風の弾丸を粉砕する。
瞬間、広がった飛沫にイリスは息を呑んだ。
(視界が――)
気づく。
先輩の狙いは、最初からこちらの視界を奪うこと。
どこから攻撃が来るかわからない。
絶対に勝たないといけないのに。
先輩の間違いを正さないといけないのに。
鮮やかに光を放つ翡翠色の魔法式。
半減しているとは思えない魔力の気配。
動揺と恐怖。
攻撃が見えない。
(負ける。負けてしまう――)
心を冷たいものが覆う。
(負けてしまったら、私には何も残らないのに)
そのときイリスの頭をよぎったのは、積み上げ続けた日々のことだった。
『よくやるよね、ほんと』
『もっと人生楽しめば良いのに』
『本気でやりすぎてて、ちょっと痛いっていうか』
惰弱な連中の気持ちはよくわからなかった。
陰で笑われてたのを知ってる。
投げ出したくなる日もあった。
練習に行きたくない朝なんて週に二回はあって。
それでも、一度だって手は抜かなかった。
休日に同級生と遊んだ記憶が私には無い。
同級生に誕生日を祝われたことが私には無い。
私は私のすべてを捧げてる。
他のものすべてを犠牲にしてる。
だから私は誰よりも強い。
(両方手に入れられるなんてそんなことあるわけない。あってはいけない)
イリスは目を閉じる。
意識を集中して魔力の気配を探る。
飛沫の壁の向こうにいるノエルの位置を特定する。
(私は絶対に負けられない)
その群青の魔法式は、鮮やかに美しく光を放った。
《両断する水流の剣》
現れたのは巨大な水の剣。
近距離攻撃に特化した武器創造魔法は、ノエルが放った風の大砲を起動が遅れたにもかかわらず両断した。
(勝つのは私だ――)
水流の剣が先輩の身体を捉える。
先輩が咄嗟に出した左手が剣と交錯したその瞬間だった。
破砕する《魔封じの腕輪》
制限されていた魔力が解放される。
(え――――)
背筋に液体窒素を流し込まれたかのような悪寒。
経験したことのない魔力圧。
息ができない。
何が起きているのかわからない。
ミキサーの中にいるみたいな振動と衝撃。
舞う粉塵と砂の味。
背中に感じる固い地面の感触。
暗転する視界。
薄れゆく意識。
遠い世界から誰かの声が聞こえる。
『イリスちゃん、ごめん! 大丈夫!?』
頭の中が真っ白になる。
垣間見たのは全容を掴むこともできない化け物じみた何か。
(どうして負けたのかわからなかった……)
受け入れることができない。
(私はすべてを魔法に捧げてきたのに)
口の中がからからに乾いていた。
(この人は私よりも強い)