160 貴族社会の闇
ヴィルヘルム伯は王国内で二十六カ所の孤児院と救貧院を経営していた。
金の動きを隠蔽する隠れ蓑として作られたこれらの施設だが、彼にはもう一つ大きな目的があった。
それは、身寄りが無く貧しい子供たちに対する性的虐待。
彼は四十年の間に確認されているだけで、1974人の少女と1886人の少年に暴行を加えた。
年齢は五歳から十七歳まで。
特に好んだのは中性的で華奢な男の子だった。
そうした彼の本性について、少なくない人数の人が知っていた。
だが、皆一様に口をつぐんでいた。
彼らはヴィルヘルム伯と対立した者が不思議な偶然で変死することをよく知っていた。
ヴィルヘルム伯は少年少女を使って王国内の有力な貴族や権力者に性接待を行っていたし、秘密を暴こうとすれば彼らのすべてが敵に回るのは明白な事実。
闇は闇のままにしておいた方が良い。
少なくとも、そこに命を懸けるほどの価値はないと大多数の人が思っていた。
ほんのわずかな信念を持った人間が告発しようと動き、無実の罪を着せられて変死した。
穏やかで平和な時代だった。
見て見ぬふりさえしていれば、すべては何も問題なく進んでいった。
その日、ヴィルヘルム伯が滞在する王都の別邸に派遣されたのは十一歳の女の子だった。
王都の孤児院から連れてこられた彼女は、中性的で整った顔立ちをしていた。
間違いなくヴィルヘルム伯が好む外見だと、孤児院の院長は自信を持って少女を送り出した。
良い仕事をした誇らしさと充実感さえ感じていた。
長く続いた環境が彼から正常な倫理観を奪い去っていた。
少女は何も知らなかった。
ただ、「君は選ばれた」「すごく名誉なことなんだよ」「君にしかできない特別なことなんだ」とだけ聞かされていた。
その胸には純粋な喜びがあった。
責任感と自負があった。
選ばれたのだから、がんばらないといけない。
少女は、大人たちに連れられてヴィルヘルム伯の私室を訪ねた。
「素晴らしい。気に入った」
ヴィルヘルム伯は笑みを浮かべて言った。
「下がれ。二人で話がしたい」
執事が賢い猫のように一礼して、扉を閉めた。
贅の限りを尽くした部屋の中に少女とヴィルヘルム伯だけが残った。
「こちらに来なさい」
ヴィルヘルム伯は大きなベッドに座って、少女を呼んだ。
自分の左隣を手で叩いて、座るように指示した。
「これから私がすることは二人だけの秘密だ」
ヴィルヘルム伯は少女の背中をさすりながら言った。
「いいかい。これは君のためにしないといけないことなんだ。君は身体の中に黒い靄のようなものを抱えてしまっている。そのせいで君は両親に捨てられた。でも、悪いのは君じゃない。身体の中にある悪いものなんだ」
耳元に顔を寄せ、ささやくように言った。
「私が、君の中の悪いものを取ってあげるからね」
言って、ヴィルヘルム伯は少女のキャミソールを脱がそうと持ち上げた。
少女が動いたのはそのときだった。
彼女は、全体重をかけてヴィルヘルム伯の身体をベッドに引き倒し、ベッドシーツをつかんで口に詰めた。
目を見開くヴィルヘルム伯に、別人のように大人びた声で言った。
「私は貴方の眼球を凍り付かせて二度と目が見えなくすることができる。私は貴方の喉を凍り付かせて二度と呼吸できないようにすることができる」
少女は感情のない声で続ける。
「私は十九年間ずっと貴方を殺してやりたいと思っていた。そのことを理解した上で発言しなさい。余計なことを言わないで。つい殺してしまうかもしれないから」
手際よくヴィルヘルム伯を拘束する少女。
口の中からシーツを外されたヴィルヘルム伯は、低い声で言った。
「お前は誰だ」
「貴方の罪を裁く者」
揺れる髪が藤色のそれに変わる。
ベルガモットを使った変身薬。
レティシア・リゼッタストーンは感情のない少女の顔で言った。
ヴィルヘルム伯をシーツで後ろ手に縛って拘束してから、レティシアは部屋のクローゼットを開けた。
落ち着いた所作で使用人のものらしい執事服を選んで着る。
大きくぶかぶかだったそれは、変身薬の効果が薄れるにつれて測ったようにサイズ通りになった。
「お前の顔は知っている」
ヴィルヘルム伯は言った。
「私のことを執拗に探っていた王宮魔術師だな。不正を摘発した貴族の恨みを買い、違う部署に飛ばされたと聞いていたが」
「食事に毒が盛られていたのを見て上層部が配慮してくれただけよ」
「何故そこまで私を追う」
「どうでもいいでしょう、そんなことは」
「おそらく、個人的な恨み。そういえば昔、お前に似た男がいたな」
ヴィルヘルム伯はじっとレティシアを見て続ける。
「執拗に不正を暴こうとする偏執的な王宮魔術師だった。彼はその裏で自分も犯罪に手を染めていたわけだが」
「貴方が高等法院の司法官を買収して無実の罪を着せただけでしょう」
「実に執念深い男だった。終身刑にしたはずだが、極めて態度の良い模範囚だったそうでね。事情を知らなかった刑務官が外に出してしまったんだよ。結果、悲劇がまた繰り返された。彼は以前より多くの罪を犯し、その報いを受けて変死した」
「黙りなさい」
「愚かな男だったよ。本当に救いようがなかった」
ヴィルヘルム伯は言う。
「ところで、先ほど君たちの仲間が強制捜査に失敗したのは知っているだろう。それによる警備の隙を突いて侵入したのだから」
「それが何」
「私は彼らを敷地内にある建物に監禁している。そこは私が商会で扱っているベルトール火薬を保管している建物でね。保管している火薬は二千キログラム。発火してしまえば建物は跡形もなく消し飛び、二十一人の優秀な王宮魔術師の命が失われるだろう。そして、その火薬を発火させる起爆装置を私は持っている」
ヴィルヘルム伯は後ろ手に握った起爆装置を見せて言った。
「動くな。怪しい動きをすれば火薬を爆発させる」
息を呑むレティシア。
二人の私兵が部屋を訪ねてきたのはそのときだった。
「申し訳ありません。お伝えしたいことが」
「入れ!」
私兵はレティシアを見て一瞬目を見開いてから、剣を抜く。
「抵抗するなよ。お前の行動で二十一人の同僚が死ぬ」
歯噛みするレティシア。
起動しかけた魔法式は、何も世界に影響することなく風の前の塵のように消えた。
「形勢逆転だな」
私兵がレティシアを拘束する。
縛られていた両手を軽くふりながら、ヴィルヘルム伯は言った。
「お前はあの男と本当によく似ているよ。あいつもそうだった。あとほんの一押しで私を致命的なところまで追い詰められるだけの優位を築いていた。だが、できなかった。私に何かあれば、君が教えている子供たちが死ぬと伝えたら真っ青になってね。本当に愚かな男だったよ」
地面に引き倒されたレティシアを見下ろして続けた。
「切り捨てられないのが君たちの弱さだ。そのやり方では、私には勝てない」